踏切り
生きることに、「いつも」という副詞が付いているのが、すごい。なぜなら、死ぬまでは、生きているからだ。生きることは、その長短や密度に個人さこそあれ、一定期間、継続する状態だからだ。つまり、死なないかぎり、「いつも」生きていて、当然だから、「いつも」とは通常言わない。
そこにあえて「いつも」と付けることで、逆説的に、生の不確実性が立ち上がる。死につかまらないように生きるということだ。「踏切り」は、生と死の分岐点といえる。
「青嶺」を、遠くても希望だと、私は思いたい。
生きることに、「いつも」という副詞が付いているのが、すごい。なぜなら、死ぬまでは、生きているからだ。生きることは、その長短や密度に個人さこそあれ、一定期間、継続する状態だからだ。つまり、死なないかぎり、「いつも」生きていて、当然だから、「いつも」とは通常言わない。
そこにあえて「いつも」と付けることで、逆説的に、生の不確実性が立ち上がる。死につかまらないように生きるということだ。「踏切り」は、生と死の分岐点といえる。
「青嶺」を、遠くても希望だと、私は思いたい。