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命が還る場所

命が還る場所ってどこでしょうか。

そもそも命って何でしょうか。


なにをもって「命」というのか。

「私」で在り続けるのか

前の記事で、「人は死なない」ということも
書きましたが
少なくともこの地球での人生を
終わりにして旅立つタイミングはあるわけで。

ただ、いろんな人が言うように
「意識」という「私」は
きっとあり続けると思うんです。

ただ、それが今のこの「私」で
在り続けるかは別の話。

「私」はどこまであるのか?

輪廻がある間は
魂的な「私」はあったのかな・・
なんて思いつつも
実は1つの魂がずっと
輪廻の中にあるわけではなくて
おおもとに還って1つになって
そこからまた別の魂さんが
どこかで生きるという体験をして
(生きるとかでもないのかもしれないけど)
そのときに今の「私」の意識の記憶を
ちょっと持っていく、とかなのかな?
とも思いつつ。


まぁ本当に正解はわかりません。
多分わからなくてもいいのでしょう。

でもそんなことを考えてしまいます。


輪廻の中での命が還る場所

瞑想中に出てきたイメージがありまして。
それは少なくともこの地球の輪廻の中に
あるときには、
地球の中のいわゆる黄泉の世界みたいなところへ行く
ということ。
そこでいろんな傷とか癒していくんですよね。

やさしくて
ただ心地いい
みたいな。

その世界に溶けていって
次産まれる準備をする
みたいな。


少なくとも
最後の審判的なモノとか
閻魔大王とか
みたいなものは全然なくて。
安心しました(笑)


そしてこの輪廻がなくなったときには
宇宙のおおもと?根源?
最初の1つ?
に戻っていく。

そこでは全部が溶け合わさった世界で
無であり無限の有であり。
想像できなくて
概念的なイメージしかないんですが。


記憶装置である水に生きる意識

あと、個人的に感じていたのは
水というものや気体の中に
意識として残って
地球の中を循環していくのかな
っていうイメージもあって。

水は記憶装置とも言われていますから
そこにそれぞれの意識の記憶が
残っていて。
私たち人間も6割~7割は水ですよね。
だから誰かの前世の記憶みたいなのが
たまにあったりする、とか。
DNAで引き継がれる、とか。

そんなふうなことも考えたりします。


だから、
今いる「私」でいるのは
今だけで、輪廻している、と思っているのも
勘違いなのかも、とか、ね。

あるいは、
この宇宙はフラクタルなつくりなので
宇宙の仕組み
つまり、おおもとの意識体というものがあって
そこから魂が分化するのと
地球内で水がおおもとみたいな役割をしていて
そこからみんなの身体に分かれていって
記憶や魂的なものが分化している・・
とかいうこともあり得ますよね。


まぁ真偽のほどはわかりませんが
あくまで私の妄想の話です。


でも命、あるいは魂、あるいは意識というものが
還る場所があって
それが安らぎのある幸せな場所だったら
うれしいですね。


魂が決めている「生きる」時間

人1人がこの世を去るということは
その周りの人にとって
特に家族にとっては
ものすごい喪失感だと思います。

私はまだ自分の祖父母や叔父くらいしか
家族で亡くしたことはありませんが
大学時代の先輩後輩や
会社員時代の一番仲良かった友人を
亡くしました。

当たり前ですが
関りの多かった人、親しかった人が
亡くなるということは
たとえ家族でなくても
虚無感というか寂しさというか
感じます。

でもそれをどう表現していいかも
わからずにまだ未消化な気持ちと
いつか私も彼らが行った場所へと
向かうんだな・・という
よくわからない納得感を
感じています。


そして、
「生きると決めたところまで生きる」
ということ。
裏を返せば
「もう生きていなくてもいいな」
と思ったら(魂がね)
この世を去るということ。

それだけは
確かに感じています。


そもそも魂は
おおもとから分化した存在なので
そこに戻ることには
魂的に恐怖はないと思いますが
私たちの思考は極端に恐れますよね。
それでいいんだと思います。
だから今を大切に生きれるし
楽しむことができるから。


私が思う「命の還る場所」

さて、話がそれましたが
私たちが還る場所はどこなのでしょうか?


極楽浄土?
天国?
無?
魂の源?


正解はわからないのですが
私が今感じているのは
輪廻の中にいるのなら、
きっと極楽浄土とか黄泉とか天国とか
言われるところに一度還り
もう一度生まれてくるんだと思います。

でも輪廻の外に出られるように
なっていたら
宇宙のおおもと、魂の源
人によってはアカシックレコードと
呼ぶような場所へと
還るのだろうなと感じています。


それはいろんな方の話を聞いた中で、
星読みをしながら星とつながる中で、
宇宙とのつながりを思い出す中で、
ほぼほぼ確信に変わりつつあるからです。


もしかすると、
基本的にはおおもとに還るのだけれど
輪廻というフィルターをかけて
生まれてきているような気になっているだけ
なのかもしれません。


正解はわかりませんが、
今のところこんな風に感じています。


ご先祖様や代々続く悪習や悪縁を断つ

私たちの世代
ちょうど30代~40代くらいの方でしょうか?
は、おそらくご先祖様から引き継いできたものから
離れていく世代だと感じています。

それはたとえば
毒親の連鎖をやめる、とか
暴力の連鎖をやめる、とか
亭主関白な夫の流れ、とか
女の子しか生まれない家系で
男の子が生まれれると夭折する、とか
無縁仏になってしまうから永代供養にする、とか。


私たちの親世代は
だんだんとそういうものを切り始めてはいたけれども
まだ切り切れておらずに
もんもんとした世代だと思うんですよね。

けれど、私たちの世代は
きっぱりこれをやめる。
そして次の世代—つまり子供たちにはそれを
引き継がせない決意をさせられる
ようなきっかけが
たくさん現れているように感じるんです。

私自身も、
私の周りの人も。


流れを変えていく世代。

そして次の世代は、
もう流れが変わっていて
しがらみの少ない世代になりつつある。

ちゃんと自分の意志で
職業を選んだり
好きなことをやっていくことを
決めていたり。

もちろんそういう人ばかりではないと思います。


でも、少なくとも3~40代の世代よりも
若いうちから「自分を生きる」ことを
意識しているように感じるんです。


私たちは1人1人が成長するために
生きている側面もありますが
人間という生物が成長していくための
流れの中の1人なんですよね。


確実に時代とともに
世界の流れとともに
人間としての価値観が変わり
成長しているんです。


支配者と奴隷みたいな関係が
当たり前だった世の中や
個ではなく家を重んじられた時代から
どんどん抜け出してきていて
個として生き生きと生きたうえで
人とつながっていく
世界線へと変わってきています。


その流れの1つに
カルマという幻想から目を覚ます
ということがあるんじゃないかなと感じています。

ご先祖様から継いできているものは
確かにあって
それは儚くも強くて美しい。
だけれども「私」を成長させる意味で
あるいはこの地球という意識が成長するという意味で
もしくは宇宙意識を拡大させるという意味で
ときに足かせになります。

ご先祖様をないがしろにしろとか
忘れろとか
そんなの関係ねぇ!(古いですね笑)
っていう話ではなくて。


それはそれで大切。
今の私の肉体があり、命があるのは
やっぱりこれまでこの命を繋いでくれた
ご先祖様のおかげです。

でも、私たちは
因習みたいなものとか
魂をがんじがらめにするものからは
離れていいんです。


ご先祖様やこれまで命を繋いでくれた方たちの
想いやエネルギー、命の源は
自分の中の細胞すべてに記憶されているし
もしかしたらDNAや体内の水分にも記憶されているし
もっと言えば、地球のそこかしこに
その命の足跡があって
それらすべてが私たちを作っているんです。

だから、わざわざ狭い範囲のご先祖様だけを
切り取って
そのカルマを創り上げて
自分がどうにかせねば
って背負い込む必要なくて。

地球全体、あるいは宇宙全体が
私たちの祖先なわけで。

そういう広い視点で見た時に
私たちの魂が望む生き方ってなんだろうか?

っていう見方をしていけるといいな
と思っています。


「私」はいつか「すべて」になる

「私」という意識がどこまで続くのかはわかりません。

私たちの「細胞」たちも、
まさか「私」の中に取り込まれているなんて
知らずにずっと生き続けています。

同じように「宇宙」の中に組み込まれた
「私」は自分に意志があると思い込んでいるだけで
実は壮大な「宇宙」の意志の中に
まぎれているだけかもしれず
「自分で決めた」と思っていることも
実は宇宙が決めた通りに動いているだけなのかも。

細胞たちが
私たちの脳の指令によって動いているように。


「私」って、だから実は曖昧なもので
いつか「すべて」というところへ還るのだと思います。


「すべて」は「すべて」なので、
たぶんそのあたりに霧散していくというか
エントロピーが増大していくように
宇宙の中へと消えて行って
でも宇宙のすべての中にある・・・
みたいな感じになっていくんじゃないのかな。


それまでどう生きるのか。
どうせいつか今の「私」という意識は消えてしまう。
それはとても寂しいように感じるけれど
同時にどこにでも在る状態へと変化すること。

なんだとしたら
今生きていると感じられているうちに
最大限の「私」で「エゴ」で
生きて行ってみてもいいのかもしれないですよね。


そこに
これまでの慣習、因習、カルマは必要ですか?
ってことです。

守り続けねばならないものって
本当にありますか?


私たちはずっと変わり続けます。


守り続けることも尊いです。
でも守り続けた結果がずっと同じで在り続けるわけではない。


だとしたら
どうやって生きて
どうやって死にますか?


動物たちは
「血」の保存ではなく
「種」の保存が基本で生きています。

たぶん木々などの植物もそうですね。


もちろんDNAを繋いでいくことも
生きる大目的の1つでしょうけれど
もっと大局的に見ると
「種」の保存が優先されますよね。

さらに言うなら
「地球」そのものの「星」の保存。

でもそれすらも永遠ではなく。



人間の短い一生では
解けることのない命題ばかりですが
まずは今のこの「私」を大切にして
生きていきたいですね。

命が還る場所

命が還る場所はきっと「すべて」。
「すべて」に今の「私」という
宇宙のカケラが溶け込む。

溶け込んでしまう前に
どれだけ人生を楽しめるのか
経験できるのか。

悲しみにしろ怒りにしろ
喜びにしろ幸せにしろ
私たちは感じていたくて
ここにいるわけで。

肉体がたとえ消えたとしても
肉体をつくっていた物質も
この空気中、あるいは地にとけこみ
意識体として存在しているのかもしれない。

そう思ったら
この地球すべてがご先祖さまで
できているわけだし
私たちそのものもその地球から
できている。

自分を大切にすることは
地球を大切にすることにつながり
ご先祖様を大切にすることにもつながる。

じゃあ私はどう生きたいですか
何を感じたいですか?
何を体験してみたいですか?

そういうことを問いかけながら
今を生きていきたいものですね。


それが大切な人のために生きることにも
つながるんじゃないかな、と
そう思いたいです。


今日という大切な1日を大切な人と。

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