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日記 2022年2月24日12:05から始まった、ペンギンよりも憂鬱になる日々を如何にして生きるかを考える。

 2月某日というか、24日

 仕事の休憩時間に入って弁当をレンジで温めて携帯を開くと、戦争が始まっていた。12時5分の速報がそれを伝えていた。

プーチン大統領がウクライナ東部の新ロシア派武闘勢力支配地域での軍事行動を承認

 プーチン大統領は決して戦争という単語は使わなかったが、軍事行動を戦争と言わずに何と言うのだろう。
 弁当は味がしなかった。
 ツイッターで情報を集めて、世界の底が一つ抜けたような気持ちになった。

 友人に「普通の日常を生きて行く中で、世界で本当に戦争が始まるって、どう受け止めていいか分からないものがありますね」とLINEを送って、仕事に戻った。
 この時点で泣きそうな気持ちが僕の中に鎮座していたが、仕事は粛々とこなした。

 仕事を終えて、スマホを開くと友人から長いLINEが届いていた。

ずっと戦争は、どっかでやっていたじゃん。そんな風に身構えるなら、この機会に、どうして戦争が起きるのか学ぶ機会にする方がいいんじゃない。

 から始まる内容は、戦争に対して、どう受け止めればいいか分からないと言うお前は間違っているというものだった。
 まじか! 全文引用はしないけれど、そんな言う? と思ってしまった。

 それなりの付き合いを積み上げてきた友人から、今回のようなLINEが届くことは端的に言ってショックだった。とはいえ、返信しない訳にもいかない。

 以下、返信文。

「僕はロシアという大きな国が、今回のような選択をしたこと。
 ロシアが今回のウクライナを占領した後の(あるいは、それに失敗した)世界的な緊張感は、戸惑うものがあると伝えたつもりでしたが、●●さんの仰る「どうして戦争が起きるのか学ぶ機会にす」べき、ということであれば、そう致します。
 僕が勉強不足であることは否めません。
(中略)
 ただ、僕は僕も他の人も不安になることは悪いことではないと思いますし、責められることでもないと思っています。」

 しばらくして、届いた友人の内容は「無自覚だった。責めるつもりはなかった」「最近は、世間との前提がすれ違っている感覚がある」というものだった。

「どうして戦争が起きるのか学」べと言うのは責める以外に、どういう解釈があったのか僕には分からない。不安だと言う人間にそう言うことが、親切だとでも言うのだろうか。何にしても、それも僕の勉強不足なのだろう。

 2月某日というか、25日

 25日の朝5時4分のニュースを見ると「ウクライナ政府はロシア軍による大規模な軍事侵攻により、24日だけで57人が死亡、169人が負傷したことを明らかにしました。」とあった。

 朝から仕事中も関係なく泣き出したい気持ちになっていた。
 休憩時間になってスマホを開くと10時8分のニュースで「ロシア軍はウクライナ全土の軍事施設などへミサイル攻撃を始めたほか、地上でも戦闘を始めた。これを受け、ウクライナのゼレンスキー大統領は国民総動員令に署名した。」とあった。
 この署名によって18~60歳の男性市民の出国を全面禁止となった。

 仕事が終わる頃には暗澹たる気持ちになり、シラスのゲンロン完全中継チャンネルで24日の夜に放送された「東浩紀突発#45 戦争は止められないし分析もできないので、キエフ/キーウの写真を紹介しつつ、別の可能性について思いを馳せる雑談回」を単独で購入した。

 概要蘭に記載されているものを一部引用させてください。

「2022年2月24日は歴史に残る日となってしまいました。20世紀は第一次世界大戦から始まったといわれるように、後世、本当の21世紀はこの日から始まったと言われるかもしれません。
 
 中略
 
 戦争予測の大半はのち振り返れば的外れなものですが、しかしそれでも、この日になにかの発言を記録しておくことには意味があるように思いました。
たいへん悲しいことです。」

 この放送を聴きながら、帰り道にある本屋を巡り小泉悠の「現代ロシアの軍事戦略」を買い求めた。

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 僕の職場は結構なオフィス街にあるので、本屋もそこそこ充実しているのだが、こんなご時世のせいか四件の本屋をまわってようやく購入した。

 昨日、友人がLINEで言わんとしたことに僕はまったく同意するつもりはないけれど、「どうして戦争が起きるのか学ぶ機会にす」べきだと言うなら、そうするよと思う。ただ、言われなくても、そうするけどとも思う。

 部屋に戻って、本棚に並んでいるアンドレイ・クルコフの「ペンギンの憂鬱」を手に取ってみた。

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 帯には「欧米各国で絶大な賞賛と人気を得た新ロシア文学」とある。

 その為、僕は「ペンギンの憂鬱」をロシア文学として受け入れていたけれど、著者のアンドレイ・クルコフの欄をよく読むと「ウクライナのロシア語作家」とあった。
 訳者もあとがきでも「現代ウクライナの作家で、これほど国際的に名前の知られている人はいないのではなかろうか。」と書いている。

 ロシアとウクライナは2004年の時点では混同して語られていても問題ない空気があったのだろうか。

 何にしても、僕は「ペンギンの憂鬱」という小説が好きだった。だって、憂鬱症のペンギンと売れない小説家の話なのだ。
 小説家を目指して空回りしていた二十代の僕が嫌いな訳がない(空回りは今も続いているけれど)。

 更に、訳者があとがきで語っているのだけれど、著者のアンドレイ・クルコフは村上春樹の「羊をめぐる冒険」を気に入っている、らしいのだ。
 だから、本編を読むと、どことなく村上春樹の空気が漂ってくる。十代から村上春樹を熱心に読んでいた身としては、手に取らずにはいられない一冊だった訳だ。

 そんな「ペンギンの憂鬱」の舞台がウクライナの首都キエフだった。
 まさに今、ロシア軍が侵攻しようとしている首都だ。

 最後に「ペンギンの憂鬱」の後ろに記載されている伊井直行の紹介文を一部、引用したい。

主人公ヴィクトルは、ウクライナの首都キエフで新聞の死亡記事を書いて暮している孤独な男である。まるで十九世紀ロシア文学の登場人物のようだが、時代は一九九〇年代、ソビエト連邦は崩壊し、マフィアが暗躍している。主人公は旅先の街で、銃撃の音で目を覚ましたりする。まだまだ平和な日本からすると、はるか遠い国のようだが、読んだ印象は正反対である。憂鬱症のペンギンや、預けられたギャングの娘と寄り添って共同生活を営む主人公は、それがどんなに不可思議であろうとも、私たちの隣人のように思えてならないのである。

私たちの隣人のように思えてならない
 その「隣人のように思えてならない」人たちが生活していた街にはミサイルが飛び交い、戦車が今にも入り込もうとしている。

 2月某日、というか26日

 朝、Gmailに健康診断の結果が届いていた。

 総合判定
 ①B 【有所見健康】軽度異常を認めますが心配ありません。1年に1回は健康チェックを。来年も検診をお受けください。

 まず、有所見健康とはなんだろう。
 調べると以下のように出てきた。

「有所見」「所見のあった」
定期健康診断等の結果、何らかの異常の所見が認められたことをいう。 通常、医師から要経過観察、要治療、要再検査などの指示(判定)がある。

 なるほど。
 朝、起きて少し活動してから、昼過ぎにまた寝て夕方に起きた。
 友人からのLINEが機能からずっと引っかかっていて、以下のような内容を返信した。

「世間との前提がすれ違っている」のが僕を指しているのであれば、あるいは、指していないにせよ、一度電話する時間を作りますか?
 文字のやりとりだから、何かが噛み合わずにいる、ということもあると思いますけど。

 僕は友人からのLINEについて、怒っている部分と悲しく思う部分の二つが混在していた。
 話をしたから噛み合う話ではないような気もしているけれど、なかったことにも出来ない。

 ただ、電話を提案する時点で、僕は友人に対して怒っている(あるいは、悲しんでいる)、というよりは無自覚であれ、ああいうLINEを送って来る、行為そのものに焦点は移っていた。

 今回の戦争に関しても、ロシアの軍事侵攻に関しては悪だと断言するけれど、それは同時にロシアという国そのものが悪だと言うつもりはない。
 国民にも色んな人がいる。
 問題なのは、その国の一部の政治家だろう。

 なんて、ことを書いても仕方がないことも分かっている。
 僕はひとまず健康な(軽度異常しかない)三十一歳の男性だ。もし仮にウクライナで生まれていたら今回の「国民総動員令」で、戦場に行く一員になっていた。
 この事実はちゃんと受け止めようと思う。

 その上で、友人に言われたからという訳ではないけれど、戦争についてあらゆる本を読もうと思う。今回で言えば、プーチンに多大な影響を与えたドゥーギンやイリインは読みたい。

 今まで本を読んでいて良かった。
 読む習慣があって本当に良かった。
 読んだからって何かが変わる訳ではないけれど、今回どうして世界で戦争が始まったのかを考えて行くことはできる。
 考えることだけは止めず、世界を良くする為にちっぽけな僕に何ができるかを模索し続けることもできる。

サポートいただけたら、夢かな?と思うくらい嬉しいです。