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祭は世界を変えないけれど、言葉は容易に人を変えていく。

 3.11と呼ばれる、東日本大震災が起こって十年が経過した。

 十年前の僕は3.11をどこで知ったか考えてみると、翌日の三月十二日の学校の教室だった。当時の僕は、専門学校に通っていたか、もしくは卒業はしていたけれど、なんとなく先生や後輩と仲良くなっていて、教室よく遊びに行っていた頃だった。
 学校の先生が「大変なことになっているな」とスマートフォンで津波の動画を見せてくれた。

 当時の僕の部屋にテレビがなく、また携帯でニュースは見るにしても自分の興味があるものに目を通していた為、地震が起こったことは知っていても、それがどれほどの規模だったのか、まったく知らなかった。
 津波の動画を見て、衝撃を覚えたけれど、具体的にそれが多くの人達の心や生活にどれだけの影響を及ぼすのか分かっていなかった。ただ、毎日ニュースは見るようになった。

 僕が3.11に対していまいち想像力を働かせられなかった理由はとても単純で、当時の僕は3.11に限らず、あらゆるものに対して想像力を働かせられていなかったのだ。

 僕があらゆるものに対して想像力を多少は働かせられるようになったきっかけは、本を片っ端から読むようになってからだと思う。
 十代の終わりは本を結構読んでいたのだけれど、小説を学ぶ学校に通うようになってから、読むことより書くことを優先すべきだと考えるようになって読書が疎かになった。
 今考えると小説を学んで書こうと思っているのなら、書くよりも読む方が重要だと分かる。小説を読まない小説家志望は、走らないサッカー選手くらい意味が分からない。

 とはいえ、森博嗣は年に三、四冊しか「読めない」とインタビューで答えている。「一冊読むのに2~3週間はかかりますから、書くのと同じくらいの時間がかかっている」とも言っているので、人それぞれなんだろう。

 僕が多少は色んなことに想像力が働かせられるようになった頃、批評家の佐々木敦が3.11について語っているトークショーを見かけた。
 3.11以前以後、という話は高橋源一郎を筆頭に積極的に区分けがなされていて、その中で「3.11が何を変えたのか、変えなかったのか」ということを佐々木敦は考えながら、自分のできることを語っていたのが印象的だった。

 僕に3.11の津波の動画を見せてくれた先生は「大変なことになっている」と言い、その大変なものに合わせて、自分も大きなものを語らなければという態度で、その後の作品作りをされていた。
 そういう姿を今、思い返すと東浩紀の平成は祭りの時代だった、と語っていたのが浮かんでくる。

 平成は祭りの時代だった。平成はすべてを祭りに還元し、祭りさえやっていれば社会は変わると勘違いをし、そして疲弊して自滅した時代だった。

 二〇一一年、当時仲良くしていた先生はまさに、そのような祭りに乗っかろうとされていた。あるいは、自分が今の時代(祭)を作るんだ、と意気込んでいた。
 僕はそういう考え方、スタンスに違和感があって、それは今もしこりのように残っている。

 3.11やコロナウィルスによる社会の変化は否応なく僕の日常や考えを変えていく。
 変わっていくことは仕方がない。
 それによって祭が起こることも仕方がない。
 けれど、祭に必ずしも参加しないといけない訳ではないし、参加しない人間は正義じゃないと糾弾して良い訳でもない。

 村上春樹がエルサレム賞の受賞あいさつ「壁と卵」にて、以下のような一文がある。

 もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。

 祭が起こる時、必ずしも大きな壁側でなく、ぶつかって割れる卵側の場合も多々ある。ただ、そのぶつかって割れる卵側に立って、祭にしてしまった場合、それはいつか終わってしまう。
 祭に参加する人は別に、その祭でどんな神様を祀って崇めているのか興味なんてない。祭りの参加者は、そこで踊り楽しい時間を過ごせれば良くて、何故その祭が催されているか、を気にかけない。
 祭では社会は変わらないと僕は断言できない。ただ、祭だけでは何かが不足しているのだろう、とは思う。

 先日、ツイッターのトレンドに村上春樹の名前があって、開いてみた。村上春樹に対し、「SNSはいっさい見ないそうですが、その理由は?」と尋ね、回答が以下のような内容だった(企画はユニクロのものだった)。

 大体において文章があまり上等じゃないですよね。いい文章を読んでいい音楽を聴くってことは、人生にとってものすごく大事なことなんです。だから、逆の言い方をすれば、まずい音楽、まずい文章っていうのは聴かない、読まないに越したことはない。

 以前、ダ・ヴィンチという雑誌においても、村上春樹がSNSに関しての質問に答えていたのを読んだことがある。随分、前でもう雑誌も手元にないので、内容はおぼろげだけれど「言葉は危険だから、扱い方は慎重でなければならない」と言う意味のことを答えていた。
 そんなことを思い出していると、ツイッターでCDBさんが以下のようなツイートをしていた。

 村上春樹の対SNS発言は、ネットの言葉を単なるノイズとして無価値と断じたというより、学生運動からオウムに至るまで猛威を振るった『言葉の怖さ』を知る作家としての警戒心に見えたけど。それこそ2chのミームから、Twitterの社会学『まがい』の濫造倫理まで、言葉は人の意識を容易に型にはめてしまう

 あぁなるほど。
 と思ったのは、僕は「型にはまる」ことを嫌う性質で、何者でもない存在でいようとする部分が僕にはある。カクヨムやnoteをはじめて、分かり易く自分を他人に伝えられるようにすれば、もっと多くの人に読んでもらえるのだろう、と何度も思ってきた。

 実際、欲望の一つとして、多くの人に読まれたい、というものはある。けれど、型にはまった後に、それを払拭することの難しさや、本当に何かを理解してもらう為には時間がかかる、って言うのもあって、分かり易さに僕は背を向けてしまう。

 分かりにくくしていれば、誰かが理解してもらえる、と思っている訳では全然ないのだけれど、分かり易いことってちょっと怖い。
 一辺倒に理解されて、型にはめられた時、僕は多分その時に求められた振る舞いをしてしまう。あるいは、意地でもその振る舞いと違ったことをしてしまう。
 どちらにしても、僕の振る舞いから自然さは失われてしまう。

 つまり僕は自然体でいたいんだと思う。
 それは僕の根本にある欲求で、今までは二十代だったから、その欲求に従っていたような気がする。自然体でいる僕の欲求はどこへ向かい、どこで止まるのか。
 ずっと、そういう部分を測っていた。

 3.11があっても、コロナウィルスがあっても。
 友だちと絶交しても、彼女と別れても。
 僕は僕であり続けて可能な限り、自らをラべリングしないできた。けれど、三十代では少し違ったアプローチが必要なんだろうな、と最近は思う。

 僕はこういうラべリングされた人間です、と周囲にちゃんと伝えることが大人の振る舞いの一つだと僕は考えている。
 と言っても、今は僕はこういう人間です、とは誰にも伝えられないのだけれど。

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