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「認知の歪み」へのモヤモヤ

「認知の歪み」という言葉がある。

この言葉は、主に心のケアや心理学の文脈でよく使われる。
認知とは、心のクセや思考パターンのことで、認知が歪んでいると憂鬱や不安定な感情を抱きがちになると言われている。例えば、小さなミスを一度しただけなのに「自分は駄目だ…」となる場合、0か100か思考に陥っていて「認知が歪み」があるね、となる。

私は、この「認知の歪み」という言葉に、苦しさをおぼえていた時期がある。

「あ、この認知だと必要以上に苦しいかもしれない。直そう。」といつも思うことができれば良いのだけれど、そうじゃない場合、「自分の感情は間違っているの?」「私が苦しいのは私のせいなの?」と苦しくなって「認知の歪み」という言葉に拒否反応が出ていた。

この、「認知の歪み」にまとわりつく苦しさはなんなのだろう。


「歪み」と言うと、あたかも「正しい」認知があるかのように聞こえる。
でもよくよく考えると、すべての人がそれぞれの認知をしていて、何が正しい認知なのか誰にも分からないはずだ。

もちろん、ほかの人とも共通する認知があるからコミュニケーションも社会も成立しているのだけれど、その共通の認知が「正しい」かどうかだって実は誰にも分からない。分からないながらも「これを正しいとしましょうね」と決めているのだ。

それから、「認知の歪み」という言葉の後ろには、その認知が悪いという前提が隠れている。だって「歪み」はネガティブワードだ。

たしかに、その認知が生きづらさの素かもしれないし、認知を直したほうが物事がスムーズに進むのかもしれない。

でも、その認知も無意味に生じたわけじゃないはずだ。きっと、その人が生き抜くために必要だったから身についた。ただ、今はその認知が自分を守る術として状況に見合っていないだけで。
むしろ、ひどい状況下にある時なんかはその認知でいるほうが正しそうだ。例えば、パワハラ上司の下で孤独に働いていたら憂鬱になるのは当然だし、その感情は生きるための適切なSOSだ。


どうやら「認知の歪み」が苦しかったのは、「その認知は悪くて、この認知が正しい」というモノサシを勝手に据えられている感じがするからみたいだ。

もとの認知を断罪されているわけでもないし、私の考えたようなことも分かったうえで便宜上そう呼んでいるんだと今では割り切ることができる。

だけど、やっぱり好きじゃない。代わりに「認知を更新する」「転換する」「新たに増やす」とかはどうだろう、なんて。


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