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【自己紹介~前半~】もしよかったら私を知ってください♡

はじまして。
さっちと申します🌈☀️

27歳の頃に雑貨屋さんを開業して
今でも店長として頑張ってます☺️

31歳で結婚をし、
夫が1人でやってた会社に転がり込み、
夫婦で自営業(小売販売)をしています。

35歳のときに出産をしたので、
今は5歳の娘がいます。

40歳の今は
夫婦共働きで保育園児の子育てを
しています。

と、ここまで書いてみて、、、
全然面白くないですよね?!
すいません。
せっかく読んでくださっているのに😅

最後には面白かったと思って頂けるように
頑張って書いていきますので、
どうかもう少しお付き合いくださいませ🙇‍♀️

そもそも【自己紹介】をすることが
20年振りくらいなので、
実は結構戸惑っています。

なので、自分の人生を
振り返ってみようかなと思います。
40年分、、、
結構な長文になりそうですが、
よろしくお願いしますm(_ _)m

はじめは自分に記憶にない赤ちゃんから。
三つ子の魂百までって言うくらいなので、
何かしら今の私に影響を
もたらしていると思うのでw


1.赤ちゃん時代


生後6ヶ月から2歳まで
アメリカで過ごしました。

父親の企業留学だったため、
1人分の生活費で家族3人で
暮らしていたそうです。

穴の空いた車に乗っていたという話を
何度も聞かされましたw
ミシガン州から
ニューヨークのマンハッタンまで
そのオンボロカーで行ったことも
あったそうです。

当時20代だった両親には
貧乏旅行も素敵な思い出だったんだろうな、
と思います。

子育てを経験した今なら想像出来ますが、
若い夫婦が1歳児を連れて、
しかも初めての海外生活は
相当大変だったと思います。

そんな風には考えてたら、
両親への尊敬が「今」倍増しました!
大変な生活環境で私を育ててくれて
感謝がいっぱいです。
やっぱり親のパワーは偉大ですね♡

ここで、突然ですが、
私が改名した理由を発表します!

noteをはじめたときは
「satosato」
だったのですが、自己紹介を書き始めて
「さっち」
に改名しました。

実はアメリカにいたときの
幼なじみが名付けてくれたのを
思い出したからです。

その子は
「さっちゃん」
と発音することが出来なくて、
「さっち」
と呼んでたんです。

なんとなーくなのですが、
自己紹介をきっかけに
私の原点のあだ名をnoteでも
使いたいなと思って改名しました♡

なので、これからは
「さっち」でよろしくお願いします😄


2.少女時代


ここからは記憶にあることを
思い出しながら書きます。

小学校の頃はやんちゃなおてんば娘で
自由奔放な型にハマらない子でした。

呼ばれてもいない近所のお姉ちゃんの
お友達のお誕生日会に勝手にお邪魔したり、

崖に生えているつくしを摘んできて
親に卵とじにしてもらったり、

落ちてるガムを食べたことも、、、(^^;)

ひとつのグループには属さずに
誰とでもほどほどの距離感で遊んでいました。

それと、ちょっと生意気だったのか、
おませさんだったのか、
子供の頃の夢が
あまり可愛くなかったです(笑)

「誰かの記憶に残ること」

確か、6年生くらいには言っていた
ような気がします😅

どんなことでもいいから、
小さなことでもいいから、
誰かの記憶にちょっとでも残っていたい。

そんな夢というか、
願いを持った少女時代でした。


3.中学生時代

思春期を満喫していたのを思い出します。
バスケットボール部で汗を流し、
先輩・後輩の関係を覚え、
スタメンになることに必死になっていました。

ある朝起きると
世界が曇っていたことがありました。
なんと、部活のやりすぎで
眼底出血になっていたのです。。。

それから、
小学校の頃には行けなかった
塾に通えるようになり、
勉強も楽しんでいました。
でも本当は塾帰りに友達と何時間も
くっちゃべっていたのが楽しかったです。

恋愛もしていました。
ドキドキしながら告白したり、
手を繋いで下校したり。
何だかほっこりしてしまう思い出です♡

でも、ほんわかしたことだけでは
ありませんでした。
ヤンキーと付き合ったときは
親に泣かれてすぐ別れたことも。
このときは親不孝だなと反省しました。

そういえは、
父親に怒られてをして家出をしたことも
ありました。
バスタオルで殴られ、メガネが吹っ飛び、
ブチ切れた中2の私は家を飛び出しました。

なぜか塾の先生に連絡をして、
なだめられ、日帰り家出でしたが(笑)

それ以来、親からの暴力はなくなったので、
結果よかったのかなと思っています。

中学3年生で進学についての面談のとき
「受かる高校に行きます」
と言っていました(^^;)
そして、先生に言われた高校に無事受かり、
高校生になりました。

今思うと、この頃は平和でした。
家庭に守られながら、
自分のやりたいことをやらせてもらい、
だいたいのことに満足していました。

noteのお陰で思い出せてよかったです♡
そして、まだまだ1/4くらいですが、
ここまで読んでくださり
本当に本当にありがとうございます。


4.高校生時代

「高校生になったら勉強を辞める」
と決めて始まった女子高生生活☆

ぺったんこの通学バッグを持って、
コギャルをしてました😅
茶髪、ミニスカート、ルーズソックス、
いわゆるコギャルブームに乗っかってました。

プリクラ撮って、
カラオケに行ったり、
夜な夜なクラブで遊んだり、
自由気ままに遊び呆けていました。

クラブでナンパされて付き合った彼氏は
チーマーの頭でしたw

部活は軽音楽部。
初めてエレキギターを触り、
ちょっとカッコつけていました。
オアシスやグリーンデイをコピーして、
知ったかぶってライブハウスにも
通ったりしてました。

ライブハウスでナンパされて付き合った彼氏は
10歳年上のバンドマンでしたw

とにかくやりたいことをやって、
流れのまま付き合って、
コギャル世代を楽しんでいました。

そのうちに、
クラブや繁華街の壁面に描かれていた
グラフティに興味を持ち、
美大を目指すことにしました。
ただ、グラフィックデザインのセンスが
全然なく、凹んでいました。

そんなときに見たのが
安藤忠雄の作った光の協会でした。
十字架のスリットから光が入ってくる壁。
それだけで神々しい空間になることに
感銘を受けたのです!

それからは空間をデザインすることに
興味を持ち、方向転換をしました。

美大に入るためにアトリエ予備校に通い、
日々デッサンを描き続けました。
色彩構成の課題もせっせとやりました。
学科の英語は100点中8点だったのが
88点になるまで頑張りました。

その結果、
現役で武蔵野美術大学に合格!


5.大学生時代

高校3年生の1年間は
受験勉強をしていたので、
遊ぶことの欲求不満が爆発して、
大学の4年間はまた遊びまくりました。

初めての一人暮らし。
6畳一間で風呂とトイレは共同。

全てが自由で誰にも怒られない
天国のような暮らしがスタートしたのです。
まさに世界は自分中心に回っていると
本気で思っていた幸せなときでした。

金髪にして、渋谷のハチ公のところで
ジャンベを叩いたこともありました。
キャバクラでバイトをして、
お客さんに惚れちゃってお金を貸したら
帰ってこないこともありました。
(その額20万円!親不孝でした、、、)

それから、高校生の頃から
過食症だったので、
一人暮らし時代は一番吐いてました😅
今となっては思い出ですが、
本当に食べ物を無駄にしたなぁと反省です💦

二十歳の夏休みには
ニューヨークに1ヶ月半だけ、
語学留学をしました。

受験勉強をしているときに
英語の先生に話していた夢が
このときに叶いました!!!

多国籍の生徒と一緒に学んだこと、
毎晩遊び歩いたことは、
人生経験の中で大事なことでした。
何よりも世界中に友達が出来たのことが
何よりもの財産になっています。

しかし、その年1年後に
アメリカ同時多発テロが起きてしまいました。
ワールドトレードセンターでも
遊んでいたので本当に忘れられません。
何階だったからは忘れてしまったのですが、
水曜日に外国人向けにクラブがやっていて、
毎週遊びに行っていました。

今、改めて被害にあった方やそのご家族に
追悼の想いを送りたいと思います🙏

翌年、21歳の夏休みは
ヨーロッパへ一人旅に行きました。
ニューヨークで仲良くなった友達に
会いに行くために。

スイス(ベルン)
ハンガリー(ブダペスト・デブラツェン)、
イタリア(ミラノ・ベネチア・フィレンツェ・サンジミニャーノ)、
フランス(ニース)、
スペイン(バルセロナ・ビルバオ)、
1ヶ月間の電車の旅でした。

学生の貧乏旅行だったので、
あるときはドミトリーの受付で
寝たこともありました。

宿を予約しない旅だったので、
着いたその町でユースやドミトリーを
探しては寝泊まりしていました。

その日はバルセロナでした。
どこもベッドに空きがなく、
気の優しいドミトリーの受付の人が
「もう1回探してきてごらん。
それでもなかったら、
マットレスを持ってくるから
ここで寝ていいよ。でも内緒だよ。」

そして、その日は
受付の人とワインを飲んで、
そのまま受付で寝ました。

イタリアで出会ったおじちゃんも
忘れられません。

「ドッポ、ドッポ、ドッぽ、ドマーニ!」
(明日も明日も明日も明日もあるー!)

明るくテンポよく、
飛びっきりの笑顔で伝えてくれました。

私が1人で寂しくしていたときに
勇気をくれた最高のおじちゃんでした。

それから、旅の途中で
祖父が亡くなりました。
両親から連絡があったのは
葬儀が終わったあとでした。

その理由は
「知らせたら帰国しちゃうから」

その気持ちを知ったときは
親の愛の有り難さと
そんな母を育て祖父の旅立ちに
涙が止まりませんでした。

大きな大きな大聖堂で
キリスト教ではないのですが、
たくさんたくさんありがとうを言ったのを
覚えています。

▼祖父と思い出はこちらです。

間もなく帰国をした私は
何だか大切ものを学んだようでした。

見ず知らずの人から与えてもらった優しさ

1人では生きていけないといこと

旅をすることで身近な人を大切に思えること


大学生時代には学業以外に
得るものがたくさんありました。

家族にも
友達にも
教授たちにも
感謝しきれないほどです。
ありがとございましたー!!!


6.社会人①

そして、大学を卒業して最初の仕事は
インテリアデザインの設計事務所でした。
業界では有名なデザイナーさんのところで
ほぼ丁稚奉公のような働き方をしていました。

毎日終電、
休みなし、
月給7万円(交通費なし)、
今では考えられない条件で
働いていました。

と言うよりは
「働かせて頂いていた」
と言う気持ちでした。
時代ですね(笑)

交通費を削るために自転車通勤を始めたのは
入社間もなくでした。
電動アシスト自転車はまだなかったので、
と言うよりお金がなかったので、
学生時代に友達から譲ってもらったチャリで
毎朝、寝ぼけ眼で出勤していました。

その事故は突然でした。

ある朝、
いつものようにチャリに乗って
家を出ました。

会社に着くはずが、
次の記憶は病院のベッドの上。
天井を見上げた状態でした。

しかもそれは家を出てから5日後
だったのです。

飛行機に乗っていて、
「もうすぐ着くよ」
と、親に電話をしている夢の後、
目覚めたのを覚えています。

時計を5日前に戻すと、
こんな事故に私は遭っていたそうです。

その日も眠気を振り払いながら
チャリを漕いでいました。
住宅街の小さな交差点を
そのまま勢いよく通り過ぎる予定が、
清掃会社のワゴンに衝突!

5mほど飛ばされたそうです。

ワゴンの運転手が救急車を呼び、
ERのある病院に運ばれました。

集中治療室で3日間目を覚まさず、
生死をさ迷っていたようです。
もし意識が戻ったとしても、
言語障害や下半身麻酔などの
重度の障害が残ると
医師は言っていたそうです。

頭蓋骨骨折、
脳挫傷2箇所、
外傷は頭や耳の辺に
ただ、跡が残ったのは
足の甲の小さな傷だけでした。

意識が戻り、
集中治療室から病室に移動し、
私が自覚して話が出来るように
なったのはさらに2日後。

目を覚ましてからは
驚きしかありませんでした。

まず寝たきりになっていたこと。
トイレは管を通されバケツに、
頭は包帯ぐるぐる、
1週間くらいは曖昧な記憶しかありません。

歩けるようになってから
始めて飲んだコーヒーは衝撃的でした。

ただの苦いお湯。。。

「え?!なんで???」

医師に話したら検査をしてくれました。
20種類くらいのいろんな匂いを嗅いで
どんな匂いか答える検査でした。

結果は、
嗅覚障害になっているということでした。

それからは食べるもの飲むもの全てが
異次元でした。
今までと全く違う感覚で戸惑いました。

鍼灸整骨院での治療と
新しい匂いとして再認識していくことで、
今は問題なく生活出来ています。

ただ、恐らくあなたの感じている香りと
私の感じている香りは違うと思います。
同じ香りを共感出来ないのは残念ですが、
そのときは生きているだけで幸せでした。

約1ヶ月ほどの入院の後は
自宅療養を半年ほどしていました。
月に1回のMRIと脳波の検査に通い、
1年後には普通の生活が出来るように
なりました。

交通事故に遭ったことで、
多くのことを学びました。

死はいつも目の前にあるから、
今を大切に生きないといけない

伝えたいことがあるなら
伝えられるときに伝えないと
伝えられなくなってしまうことがある

やりたいことがあるなら
出来るだけ早くやった方がいい

家族や友達、
私に関わってくれる人の愛を感じること

守られるていることに感謝をし、
大切な人を守ること

24歳で私は社会復帰をしました。
始めはインテリアデザインの設計事務所に
戻りました。

すると上司が優しくしてくれたのですが、
これが間違いの始まりでした。
ストーカーのように好意を持たれ、
断っていると最後には「死ぬ」と言って
自殺未遂をされました。。。

なぜ死にそうになった私の前で
自殺未遂なんて出来るのだろうか?
そんなことをされたら
小さな事務所での居心地は悪くなります。
誰も私を責めないけど、
でも楽しく働ける環境ではありませんでした。

そこで、
大学の教授に相談することにしました。
元々この事務所に入れたのは
教授の口添えがあったからなので、
申し訳ない気持ちで会いに行きました。




>>>つづく。
なかなかの長文になってしまいましたので、
【自己紹介~後半~】にて
続きを書きたいと思います。


ここまでお読み頂き、
本当に本当にありがとうございます。

一般人の人生歴などに興味を持って頂けて、
私は幸せ者です♡
もしあなたが少しでも面白いと思って頂けたら
本望でございます。

そして、もしよろしかったら
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そして、もしよろしかったら
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後半も楽しみにお楽しみ頂けると幸いでございます。


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