失恋から始めるわたしのはじめかた⑧
~これまでの流れ~
W失恋で自分を見失ってから、心理学に出会い、将来の道を改めて考えているときに、職場の方が自死された。ショックで一人でいられなくなった私は実家へ帰ることに。新たに進む道として医学部社会人編入を考えていると親に告げたところ、推薦状を作ってくれることになった。
前回の記事↓
医学部編入の推薦状をお願いしようと父が言っていたのは、父の知り合いの大学教授の先生で私は全く知らない人だった。
「わたしと面識なくても大丈夫なのかな?」と話していたが、そこまではわからないだろうということで、とりあえず文章を作って、その先生にお願いしてみようという話になった。
推薦状の文章は母が担うことになった。母は小学校の教師なので、毎年通知表などで人のいい所について書いている。だから母が適任だろうということになった。
母はすごくやる気だった。
もともと学歴志向なところが強く、私にも強く医者になってほしいと思っていたこともあり、私がまた再び目指そうと思うのが嬉しかったのだろう。
それに、子供に何かあった時にはすごく強い人だ。
娘のために役立つことが出来、嬉しかったのだろう。
嬉しそうにしてくれて私もうれしかった。
父も喜んでいた。話し終わってお風呂から上がった後、私と二人だった時に「お前はすごいな。」と言ってくれた。「今もちゃんといい職場にいるのに、それをやめてまでまた勉強しようとするなんて。女にしとくのがもったいないなぁ。」と笑っていた。女だとか男だとかは関係ないけど、父も元々医者になりたかったという気持ちがあるため、自分のできなかったことを娘がかなえようとしているのが嬉しかったんだろう。私が「しんどい。家に帰っていい?」と電話を掛けた時から、ずっと献身的に接してくれていた父には感謝しても感謝したりなかった。
そして、願書提出まであと一か月ほどしかなかったため、早速願書を作ることになった。母と、私が医学部に入って何が学びたいと思って今どんなことをしてるか、のすり合わせをして、母は推薦状の文章を、私は推薦所以外の志望動機などを考えたり、英語と小論文の勉強していた。
その夜中だった。
母が死んだような顔で、私の部屋に入ってきた。
私は何かまた怒られるんじゃないか、と身構えた。
母に小学校の頃たたかれていた時の事はあまり覚えていない。
でも体が勝手に反応したから、そういう雰囲気だったんだろう。
母は、昨日までのおじいちゃんの冗談に怒っているかわいらしい雰囲気ではなく、完全に生気がない。まるで幽霊みたいに影が薄く、今にも消えてしまいそうな雰囲気で、無表情で私の方を見ている。
「え、なにっ?」
異様な雰囲気に気圧されないように、怒られるとしたらいつでも応戦できるという意思を伝えるために、ちょっと嫌悪感を混ぜた強めの言い方で私が言う。
すると母が、
「ごめん。わたし、あんたのことなにもわからんわ・・・。」
と言った。
「・・・。」
「・・・。」
しばらく無言の時間が続いた。
私は、何を言っているのかわからなかった。
実は、大学院の相談室でカウンセリングを受けている時に気が付いたのだが、私は、何か考えたくないことを言われた時、思考がストップするように脳ができている。怒られているとき必要以上に悲しくならないように泣かないようにする為に、ただ言葉を言葉として受け止めるようになるのだ。
例えば、リンゴ、と言われてもそれが果物のリンゴを意味するのではなく、小学校のドリルの「リ・ン・ゴ」になる。
「ゴ・メ・ン」「ワ・タ・シ」「ア・ン・タ」「ノ」「コ・ト」「ナ・ニ」「モ」「ワ・カ・ラ・ン」「ワ」
何を言っているのか理解するのに単純に時間がかかる。
段々とひどいことを言われているのになんとなく気が付く。
でもそれがどういう意味で、自分がどういう気持ちになったらいいのかわからない。
これがどういう仕組みになっているのかわからないが、脳のどこかで内容を理解できているところがあり、感情としてはよく分からないが、推薦状のことを言われているのは分かるのだ。
多分、思考や判断、感情のコントロールを司る前頭前野がバグる。
身体も動かないので運動野もバグるようにできているのかもしれない。
そして、多分母は「ワ・タ・シ」のことが「ワ・カ・ラ・ナ・イ」のだから、推薦状が書けないということだろう。
「わかった。じゃあ、自分で書くわ。」
だいぶ沈黙があった後、私はそう答えた。
母が去った後もしばらく思考がストップしていた。
「ワ・タ・シ」「ア・ン・タ」「ノ」「コ・ト」「ナ・ニ」「モ」「ワ・カ・ラ・ン」
私は母に分かってほしいなんて言った覚えもない、言ってもわかってもらえないのなんてとっくの昔に知っている。
母はわたしを怒らせるつもりなのか、悲しませるつもりなのか。
でも、ちがう。母は、私のことを推薦状に全く書けなかった事がとにかくショックだったのだ。
母を悲しませてしまったんだな、と思った。
医学部をもう一回受験するなんて言わなきゃよかった。
英語だってできないし、小論文なんて全然かけない。
わたしごときが挑戦しようとする領域じゃなかったのに、挑戦してみたいなんてよくもまあそんな恥ずかしいこと言えたよな。
あーあ。
正直その時は、ちょっと不相応な夢が断たれて安心していた。
そして、父が部屋に来た。
「今母さんが大変だから、ごめんな。さとこ、自分で書いてくれるって本当か?ありがとうな。」
と言って出ていった。
父の言動も理解できなかった。
なぜ、私が頼んだことが母が出来なくて謝るのか、私がやるべき仕事を私がやることで父が感謝するのか。
ただ、なんか悲しい気持ちになった。
あ、守られなかったな、と思った。
父が、この今頭がバグってどうかなっている私ではなく、母の所へ行ったのは分かった。
確かに私の顔は無表情のままだっただろう。その場から多分1㎜も動いていなかったし、何も感じていないように見えただろうと思う。実際そうだった。だって、脳に、いくら働け働けと言っても働いてくれないのだ。
次の瞬間、涙が出た。
涙が出ると、脳の制御が一気に解放される。
ああ、母は私のこと何もわからないんだ。クラスの子には通知表にいいこと書けるのに、私には何も書けないんだ。
わたしを産んだ母が私のことを分からない、という。頭がぐわんぐわんするくらいの絶望を、自分なんてこんなもんだという諦めの気持ちが必死で押さえつける。
母は私の気持ちを何故考えてくれなかったんだろう。
もしそうだとしても、言い方ってもんがあるし、言わなきゃよかったのに。そっと父に書いてもらって、私を傷つけないようにしたらよかったのに。適当な言葉で埋めてくれればよかったのに。
もしかしたら母も脳がバグって、娘が実の母にそんなことを言われたらショックを受けるということまで想像がつかなかったのだろうか。とにかく、書けなかったことがショックで、そこから逃れるために私に書けない、と言いに来たのだろうか。彼女のことは彼女にしか分からない。
母が私のことが何もわからなかったショックと、なぜそれを娘の私に伝えてしまうんだという怒りと、今まで私のことを何も見ていなかったのだから当たり前だろうという諦めの気持ちと、どうやらまた母を傷つけてしまったらしい、という戸惑いの気持ちが混ざっていた。
脳が爆発しそうだった。
そして、父から、ありがとう。もごめん。もいらなかった。
「辛かったな。」って言ってくれればよかったのに。
「母さん、あんなことお前に言うなんてひどいよな。俺がしっかり言っとくから。お前は風呂入って寝ろ。」って言ってくれればよかったのに。
結局、父も「じゃあ俺が書く」とは言わなかった。
傷つく娘より母を優先した。
父はいつもそうだ。
母が一番なのだ。
それは家族誰もが知っていることだった。
そして、もう一つ。
結局、自分で書こうとした推薦状には、私も何も書けなかった。
脳が上手く働かなかったのも、文章力がないのもそうだが、私は私がわからなくて今ここににいるのだから、自分の事なんて私も書けるはずがなかった。しかも自分をほめるなんてできるはずがない。
結局私は自分が何者かわからない、親も私のことがわからないという現実を医学部再受験で思い知らされることになる。
それに最初から知らない人の名前を使って推薦状を書くなんて間違っていた。
医学部の再々チャレンジはこれで幕を閉じた。
悲しことに家族で大人だから、どれだけ傷つけても傷つけられても、翌日には何事もなかったように「おはよー」という。
わたしが受験しなかったことについて、親は何も言わなかった。
お互いの中でタブーになっていたように思う。
そして、私もさっそうと名古屋の自分のマンションに帰った。
医学部受験、悲しい思いはしたけど、挑戦しようとしてよかった。
医学部の道を断つことで、
臨床心理士の大学院受験しようと決心がついた。
それは妥協ではない。
薬の力ではなく、わたししかできない私の力で誰かを癒す方に力を注ごうと思った。その方法を大学院に行って、臨床心理士になって見つけるのだ。
親には育ててもらって、今回もいつも快く向かい入れてくれてもちろん感謝している。だけど、安心していると噛みつかれるところがある。もう親は頼らない。私も親も傷つけたくないから。きっと心理の大学院へ行くのは反対するだろう。大病院にいる方が安定しているからだ。
でも、自分だけで準備して、自分のお金で全部やれば文句ないだろう。文句は言わせない。だって、私の道だから。
心理を学んで自分の力で自分を見つけて、誰かを癒すのだ。
わたしみたいな我慢しちゃってる人に「それは辛かったね。」って言ってあげられる人に、わたしはなるのだ。
≪⑨へ続く≫
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?