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結局、愛ってなんだ。

大型連休でひたすら浮かれきっていた5月が、終わりを迎えようとしている。自分に課されたミッションに食らいついたあなた、お疲れ様。今月走りきった自分、お疲れ様。


今月の私、何していたっけ。改めて振り返ると、私の脳裏には今月の出来事が意外と残っていないことに気づく。思い出すだけでひと苦労した。

ただひとつ、私自身へのミッションが課されたことは確かに分かっている。

愛とは何か?

いかにも抽象的で哲学的なお題だ。


今日、外出先で出会った紳士に聞かれた。愛ってなんだろうね、と。私はその場で考え込んでしまった。

愛というのは見方によって定義が変わる、なんとも滑稽なものだ。愛を向ける対象が異なるだけで人の考え方が異なるように、愛も時と場合に応じて個性豊かな色を見せるのだから。愛が何かを知っている人がいるなら、私が教えてもらいたいくらい。

結局私は、その場しのぎで適当に答えてしまった。つい数時間前の話なのに、私が何を答えたのかはもう覚えていない。


どうして、明確な答えが出てきそうにないお題について、私が考え始めたかというと。自分の人生を振り返っている中で、なにが愛なのかが分からなくなったからだ。

私が子供だった頃は、「厳しさの中にも愛がある」という内容の話をよく聞いた。もっと活躍してもらいたい、今よりももっと魅力的な人でいてほしい。相手に対して、"厳しさ"という形で期待のまなざしを向けていた人が、きっと多かったはず。至るところにいたはずだ。

私の身近でいうと、父。そして、中学時代の部活の顧問。この2人が私の中で二大巨頭と化している。


父からは「ささ(私)は兄弟の一番上なのだから、しっかりした子でなきゃダメだよ」と、しばしば怒られた(私は3兄弟の一番上)。兄弟の面倒の見方もそう、勉強もそう。たくさん褒めてくれたことは確かだけれど、厳しくしつけられたことも確かだ。

そして、私の中学時代の部活は運動部。地元では強豪とも言われたところだった。私は未経験でその部活に入っていたのだけれど、まあなんともポンコツで。顧問によくしごかれていた。顧問からしたら、「もっと技術を磨いて、チームの戦力になってほしい」という思いでいたのだろう。

でも、父にいろいろと怒られたことで、「怒られること」そのものがトラウマになってしまった。顧問には私自身を否定されたことで、トラウマはさらに増えた。

これって、愛じゃないよね。

大人になってから私は、当時を振り返りつつそんなことを思う。彼らの中では厳しさに愛を忍び込ませていたのだろうけれど、私はその厳しさから愛を見いだせなかった。


じゃあ結局、愛って何?

厳しくするのが愛ではないとしたら、どういう形が愛と言えるのか。愛を向ける対象が家族でも生徒でもなく、パートナーだとしたら。ペットだとしたら。困っている人だとしたら。愛はどういう定義を持つだろうか。

こんなことを考えなくても生きていけるはずなのに、つい考えてしまうのは。きっと、私が答えのない問いについて考える楽しさを知ってしまったからなのかもしれない。


ここまで読んでくださったあなたには、どうか気難しく考えることなく、6月を迎えてもらいたい。

今を必死に生きるあなたの分まで、私は考え続けることだろう。


あなたにとって、愛って何?

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