”許す”
こんにちは、さちこです。普段は、外国の方に第二言語としての日本語を教えています。どうぞよろしくお願いします。
Netflixで、海外で製作されたドラマを見るようになり、
ドラマから垣間見るその国の人々や文化に、
日本と同じなんやな、というか人間って変わらないんやなと思うこともあり、
日本とは違うんやなと思うこともある。
異文化や多文化、多様性、などをキーワードに研究・論文などもあるけれど、
空間的・時間的に出来事や人々の行動を描き出すドラマという装置には、
違った意味で学ばされ、考えさせられる。
例えば、”許す”という行為。
韓国ドラマを見ていて、主人公や主要人物、つまり善人として描かれているであろう人物が、「許さない」ことに驚かされることがある。
日本人である私は無意識に、その場面で登場人物が許すだろう、許すかもしれないと思いながら見ているようで、その予想が見事に外れた時、違和感を覚える。
例えば、『梨泰院クラス』で、最大の敵が土下座をし、悔い、詫びる場面。
もしかしたら許すのかなと無意識に想像していたので、これっぽっちも許さず、
「えええぇぇぇぇ〜っ!?」と心の声が漏れた。
でも、よくよく考えたら、それまでその敵がとってきた数々の行動を思えば、到底許せるわけがない。むしろ、許すことはそれまでの行いを矮小化することになるのではとも思った。
『紳士とお嬢さん』でもヒロインが、相思相愛なのに周りの面々のせいで紆余曲折がありまくり、やっとの思いで交際をやり直そうと詫びた恋人を許さなかった。そして、お詫びにグランドを50周走る(誠意を見せる?)と言い、走り始めた恋人をほっぽって、自宅まで戻った。自宅に戻ってから、恋人の体調を心配していたけれど(何せ相思相愛なので)。
でも、思えばヒロインは周りの面々のせいとはいえ、かけ続けた言葉や働きかけを件の恋人に受け入れてもらえず、辛い思いをしてきたのだった。
早々簡単には許せないのが、むしろ自然じゃなかろうか。「許した方が良いから許す」のではなく、自分の痛みにも忠実というか、自分も大事にしていると言えるのかもしれない。
ちなみに、その後はもちろん許した。
『紳士とお嬢さん』で、もう一つ印象的だったのは、ヒロイン家族のことを、やれ寄生虫家族だの、詐欺師だのと(←もちろん誤解)何かにつけて罵り、騒ぎ立て、問題を起こしてきた人物が、ようよう反省し、一家の家を訪れ、詫びた場面。
まさかこの人物がわざわざ家を訪れて恥入りながら事情を話して詫びるとは、
それまでの成り行きを見てきて、意外に思うほどの行動だった。
その詫びの言葉を受けて、一家のハルモニ(お婆さん)が放った言葉が、
謝罪の言葉は、借金も返すと言う。詫びの言葉を聞けて胸のつかえがとれた。
という趣旨の言葉だった。(うろ覚えですみません)
言葉が、お金の借りすら、返してしまうという、その重み、
そして、ハルモニの言葉に浮かぶプライド、誇り、自尊心が印象的だった。
「言葉だけじゃなく、誠意を見せろ」という日本語の表現が浮かび、「う〜ん」と考え込んだりもした。
大好きなシリーズ、アメリカのリアリティ番組である『クイア・アイ』の今シーズン(2023年)でも、”許す”について印象的な言葉があった。
”私が悪かった。
それを認めた上で、
私を許す。
他者を許す。
そして、これから私の為に行動する。”
(うろ覚えなので多少間違えている可能性あり)
自分を許すこと、他者を許すことは、正直なところわたしにとってまだ難しいところがある。ヒントがある気がした。
(お読みくださり、ありがとうございました。)
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