見出し画像

存在の確かさと見ることの危うさ 光の館で現代アートに泊まる

天井に穴の空いた館。

それが今回訪れた新潟県十日町にあります。
光の館。
昼間は一般にアート作品として公開されていますが,夜は一棟貸しの宿泊施設になります。

自然光と人工光を調和させ、「陰翳の美」を創り出す。そこに、空の青、壁の金、床の間の赤、浴槽の緑、そして全体を覆う黒い色調が微妙なコントラストを与えている。それは「美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にあると考える」日本の文化への、西洋の文化を背景としてきた私なりのアプローチであった。これまで「光の知覚」を探求してきた私にとって、『光の館』とは、昼と夜、東洋と西洋、伝統と近代を対比するとともに融合する試みであった。
-"House of Light"構想にあたって, ジェームズ・タレル

チェックインして畳の部屋に寝そべっていると,天井の一部が開いていき,天井にくり抜かれた空のキャンバスが出現します。天井は人工の光で照らされ,空の色と人工の照明との色のコントラストを鑑賞します。完全に日が落ちるまで一時間畳に寝そべってずーっと空を見続けます。

画像1

不思議なのが周囲の人工照明よって,空の色が変わって見えるということ。
自分の普段の視覚に対する幼さを突きつけられます。今まで一時間もずっと空を見続ける時間は人生の中になかったかもしれない。こんなにも多様な色として変化していくのかという感動。そしてその絶妙な色を表現することのできないふがいなさ。この色をなんと言葉で表現すればいいんだ。青と緑の間の,さらに明度が低い...こんなこと言っても誰ともその色の美しさを共有することはできません。
まさに,あの時間にあの場所で一緒に畳の部屋に寝そべっているからこそ共有できる作品なんだと。

画像3

そして共有という観点からある2人が浮かんだ。10年前に亡くなった祖母よしこおばあちゃんと,シリアのどこか戦地にいるわたしと同世代の男性。
この光の館はよしこおばあちゃんが亡くなってから作られています。よしこおばあちゃんはこの作品をしらない。もはや現代に存在するこの作品を話し言葉で伝えることもできなければ,一緒に体験することもできない絶望。改めて現代アートは時代普遍性が比較的ないところも素晴らしいなと思います。
そしてシリアのどこかの戦地にいる男性。おそらく彼も絶望のなかで空を一時間ぼおーっと眺めている時間もあるでしょう。一方で私は暖かい毛布に包まれて,畳の香りを嗅ぎながら寝そべって一時間ぼおーっと眺めている。

つまりこの作品は存在の確かさと,見ることのあやうさを突きつけているんだと。空という実体は誰にとっても普遍的で存在は確実。よしこおばあちゃんも戦地の彼も,私も見ている。
いっぽうで空という実態を見る我々は危うい見方をしている。我々が見ている空の色は周囲の人工照明によって簡単に騙されて違う色に見えてしまう。しかもそれは美しい。その美しさを言語化して表現することはできないし,すでにこの作品を見られない人もいる。

こんなことを光の館のお風呂に入りながらも考えておりました。
お風呂もええです。今までの人生になかった時間があります,光の館。

画像2


この記事に関連したnoteもご紹介。


この記事が参加している募集

私のイチオシ

一度は行きたいあの場所

こつこつ更新します。 こつこつ更新しますので。