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『忘れもの』 【第10話】 「変化」

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 春の長雨は、アシナガの森の生き物たちにとっては恵みの雨だ。
 植物たちは思い切りその芽を伸ばしていくために、大地からの恩恵を思う存分吸い込んでいく。
 動物たちもまた、草木に降り注ぐ天然のシャワーを浴び、身体いっぱいに春の訪れを感じ、心躍らせる。
 冬の間、土の中や森の奥深くで、その寒さにじっと耐え忍んできたのだ。
 温かな春風とやわらかい陽の光とともに、大地に注がれる沢山の恵みは、生き物たちの心と身体を本来の姿に開放していく。

 ここ数日の長雨で、ノエルはアシナガの森に入ることができなかった。
 雨が続くと霧が深くなるため前が見えなくなる。
 ノエルはその景色が怖くて、雨が降ると森には近づかないことにしている。

「ボクはボクのままでいいの?ボクは誰かにとって必要な人間なの?」

 あの日、オオサワ老人と語った日から、ノエルは、心の中でずっと自分に問いかけ続けている。
 初めて自分のことを必要だと言ってもらえた。
 父親と祖母と三人で暮らしていても、自分の心が満たされることはない。
 ある日、祖母が父親に「あの子のためにこうやって私は頑張っているんだから……」と漏らしているのを聞いてしまったことがあった。
 祖母は自分のために我慢してこの家に住んでいるんだと思うと、自分の存在が祖母にとって迷惑なものになっているのだと、悲しくなった。
 母親が帰ってくれば、祖母も自由になるのに……。
 そう思うこともあるが、その度に、ノエルは元には戻らない現実が目の前に突きつけられているような気持ちになり、そっと心の蓋を閉じてしまうのだった。

「アシナガの森の神様お願いです。ボクをいい子にして、神様のもとに連れて行ってください。そして、ママをパパのところに戻してあげてください」

 アシナガの森の切り株の椅子で、ノエルは森の天井を見上げてお祈りすることが日課となった。
 神様は聞いてくれているのかわからなかったが、きっといつか叶えてくれると信じていた。
 来る日も来る日も、切り株の椅子でノエルは森の生き物たちを眺めながら、神様にお祈りする。
 鳥の鳴き声、草木が風で揺れる音。森に起こることの全てが、ノエルにとっては味方に思えた。
「いつか神様が身体をふわっと包み込んで天国に連れて行ってくれるんだ」
 ノエルは願い、切り株の椅子でその時を待ち続けていた。
 
 オオサワ老人がやってくるようになって、ノエルはオオサワ老人との時間が待ち遠しくなっていることに気づいた。
 口数は多くはないが、オオサワ老人と切り株の椅子に並んで座っている時間は楽しくてあっという間に過ぎていく。
 サンドイッチは本当に美味しかった。
「美味しい」と言うと、オオサワ老人の顔はくしゃくしゃになった。
 嬉しそうに笑い、閉じた目は三日月をひっくり返したような形になる。
 そしていつの間にか、オオサワ老人に会いたくて森までの道を走っていた。

 あの日、自分の心の奥底から溢れ出した思いを、オオサワ老人は優しく包んでくれた。

「オオサワのおじいさんに会いたいな……」

 久方ぶりに春の陽が空から降り注いだ。
 そよ風も心地よく吹いている。
 ノエルは一目散にアシナガの森を目指して走った。
 シロツメクサが元気に咲いている。
 草木の緑が前よりも濃くなっているように感じながら、切り株の椅子に急いだ。
 アシナガの森に到着した時には、息が上がって、脈も早くなっていた。
 切り株の椅子に腰掛けて、すぅっと深呼吸すると、ひんやりとした瑞々しい森の空気が身体に染み渡った。
「気持ちいいぃ〜」
 思わず声が出た。
 背伸びをすると、もっと身体の奥深くに森の恵がいきわたるように感じた。

 ガサガサっと目の前の茂みが揺れた。
「オオサワのおじいさん!?」
 ノエルは叫んだ。
 
 次の瞬間、バサバサバサッと一羽の鳥が茂みから飛び立った。
 ウグイスに見えた。

 しばらくすると、森の天井からはどこからか鳴くウグイスの鳴き声が跳ね返り、ノエルたちを空から包み込む。
 植物たちの表情もイキイキとしているようだ。
 ノエルはじっとあたりを眺めながら、アシナガの森が新しい季節を迎え、そこで暮らす生き物たちが一斉にその到来を喜んでいるのだと感じた。
 そして、不思議と自分の心もそわそわと踊るような感覚になっていることに驚いた。
 春風が吹き抜ける度に、樹樹は喜ぶように葉をすり合わせ音を奏でる。
 温かくやさしい風にノエルも包まれる。
 ずっとこうしていたいと思えるほど、穏やかな時間が流れていた。
 
 何度か茂みが揺れたが、オオサワ老人は現れなかった。
 
 でも、ノエルは不思議だった。
 オオサワ老人と一緒にいるときのように、今日は心が穏やかで安心しているのだ。
 どこか、一人じゃないような、そんな気持ちになっているように思えた。
 
 そんなことを考えながら、ノエルは、ふと森の天井に目をやった。

 樹樹の葉っぱの間から、キラキラと光りの粒が降り注いでくる。
 まぶしさにそっと手をかざす。
 自分の手が光に照らされ透き通る。

 透明に近いピンク色の手の平が、ノエルにはとても美しく思えた。
 そして、手の平から伸びる指は、自分が思っていたよりも細くて長かった。
 
「ボクは生きてていいの?」

 指の間からのぞく空に向かって、ノエルは精一杯大きな声で叫んでみた。

 ノエルの声は、森の天井に跳ね返り、樹樹の間を抜けながら、アシナガの森いっぱいにこだました。

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<まとめ>第1話〜第9話まではこちらからご覧いただけます!併せてお楽しみください!


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