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『忘れもの』 【第9話】 「気づき」

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 社宅は築30年の鉄筋コンクリート造の4階建だった。
 敷地の四方を万年塀が囲み、白色で塗装された外壁は雨風できた灰色のシミが目立つ。窓の半分まで転落防止の鉄柵がはめ込まれた外観からは、昭和のアパート感がプンプンと漂ってくる。
 今どき、異動の辞令とともに社宅への入居の辞令まで発令される会社も珍しいのではないだろうかと思いながらも、10年以上この文化しか知らないと、自分の住まいを銀行に決められることにすら、何の抵抗感もなく受け入れてしまえるのだから不思議だ。
 しかも、かがやき銀行には異動辞令の発令から一週間以内に新任地へ着任しなければならないというルールがある。
 そのため、着任後しばらくは銀行が手配したホテルが生活の拠点となる。
 平日はホテルから出勤し、週末になれば自宅へ戻り引越の手続きや荷造りに追われる。
 銀行から指定された入居日にあわせて全てが動いていくのである。
 あれがいいだの、これがいいだのと希望なんて言っている暇なんてない。        
 ましてや、不平不満を並べている余裕すら与えられない。
 とくかく事務処理と同じで、迅速にミスなく引っ越しまでのタスクをこなしていくことに集中しなければならない。
 自らもかがやき銀行の行員であった妻の沙也加は、これら異動にまつわる独特の文化や慣習については心得ており、これから慌ただしくなる生活のことへの抵抗感もないようだった。
 週末に自宅に戻るたび、荷物の入ったダンボールが増えていった。
 そのダンボールには一つずつ数字が書かれており、同じ数字の箱ごとにまとめられ、積み重ねられていた。
「この数字って何の数字?」
 葉山ヒカルは、引越し業者が追加で持ってきたダンボールを組み立てながら沙也加に訊いた。
「これ?社宅の部屋のどこに置くか指定するために書いてるの。こうすれば引越し業者の人も置く場所に迷わないし、私たちも荷物を入れた後の片付けが楽でしょ」
「なるほどなぁ。どこでそんなこと覚えたんだ?学生時代に引っ越しのアルバイトとかしてたんだっけ?」
 葉山ヒカルは沙也加のあまりの段取りの良さに驚いていた。
「そんなアルバイトなんてしてないわよ。誰かに教わったわけじゃないけど……。あ、ほら、支店でも伝票綴とかも番号ごとに同じ番号の棚に保管してたりしてたじゃない?そういうのが自然と身についたのかなぁ。うーむ、でも、やっぱり引っ越した後、できるだけ楽したいから思いついたんだと思う」
 沙也加は荷造りの手を止めることなく、夫からの質問に答えた。
 その手を葉山ヒカルはじっと眺めた。
 こんなにもじっと沙也加の手を眺めるのはいつぶりだろうか。
 この細く長く、すっと伸びる指が好きだった。
 しっかりした骨格に触れると、不思議と安心できたことを思い出す。
 夫婦としても男女としてもすれ違いはじめてから、この指に自分の指を絡ませることもなくなっていた。
 そんな沙也加の指先には、いつの間にか無数のひび割れができ、葉脈のような血管がはっきりと手の甲にあらわれている。普段の生活の全てをその手で支えていることを無言のまま訴えているように、葉山ヒカルの目には映った。
 自分だけがこの家族を背負って、銀行という戦場で戦っているのだとばかり思っていた。
 妻と子供には何不自由のない暮らしをさせてやっている、全ては俺の力のおかげなんだという目で家族を見ていた。
 いや、ただ見ていたのではなく、見下していたといった方が正しいのかもしれない。
 沙也加の手ににじみ出たリアルな生活感は、家庭や生活という戦場があったことを物語るようだった。
「俺だけじゃなかったのかもしれない……」
 葉山ヒカルの心に、はじめて家族というものの意味を理解する灯火が、わずかではあるが灯り始めた。
 これまで自分だけが身を削り、心を粉にして生きてきた気でいた。
 それなのに、沙也加には家のことまで気を回せと責め立てられているようで、うんざりしていた。
 しかし、ダンボールに手際よく荷物をつめていく沙也加の手を見た時に、妻にしかない戦いの日々があったことに気付かされるのだった。
 お互いがそれぞれに心身を削りながら生きてきたのだ。
 お互いの不満や苛立ちは、自分の心を相手に投影していただけなのかもしれない。
 そして夫婦とは、互いの心を映し出す鏡なのかもしれない。
 葉山ヒカルは、沙也加を見つめながら、ふとそんなことを考えるのだった。

 実は、左遷になってからというもの、葉山ヒカルの心のなかに、ずっと重く苦しい感情がうごめき続けていた。
 出世のレールからあきらかに脱線してしまった自分に、沙也加が愛想をつかしてしまうのではないかと考えていたのである。
 あの時、沙也加を選んだのは、間違いなく自分の立身出世のためだった。
 もしあの時、沙也加以外の女性と付き合っていれば、その女性と結婚していたに違いない。
 それだけ、タイミングと状況が今後の自分のキャリアにとってベストだった。
 そしてそこに、たまたま沙也加がいた。
 それからずっと、自分の出世こそが彼女の幸せになると思って疑わなかった。
 銀行内での地位や名誉が上がれば上がるほど、自慢の夫として尊敬され、いつまでも大切に扱ってもらえるのではないかと考えていた。
 それが、露と消え去った今、夫婦を支えるものまで無くなってしまったと、葉山ヒカルは考えていたのである。
 もしかすると、このまま離婚を切り出されてしまうかもしれない。
 例えそうなったとしても自業自得だと、葉山ヒカルは思っていた。
 そんな思いを巡らせながら、この数週間、折尾と横浜を往復していた。

 しかし、横浜に戻る度に、折尾での新生活にむけての準備は着実に進んでいた。
 そして今日、沙也加の手に刻まれたひび割れやシワに、自らの心があまりにも幼く、視野が狭かったことを葉山ヒカルは知った。
 沙也加は、肩書やステータスとは全く異なる場所で、自分と家族をつくりたいと思ってくれていたのだ。
 それなのに、いつまでも自分の人生の歯車の一つとしてしか、妻や家族を見ていなかった。
 あまりにも身勝手で、一方的な生き方だったと、葉山ヒカルは初めて自らを恥じた。
 しかし、これまで誰にも負けずに生きるためには、どうしても頑丈な鎧が必要だった。
 それは、誰が見てもあきらかで、わかりやすいものでなければ意味がなかった。
 だから、必死で勉強もしたし、他人の何倍も働いた。
 そうやって、目に見えるもので自らを誇示してきたのだ。
 周りの評価が高いことに価値がある。
 葉山ヒカルは、そうやって生きてきた。
 そうやって、自らを保ってきた。
 常に誰かの評価、周りの目を気にして生きてきた。

 一方で沙也加は、葉山ヒカルの強さに惚れていた。
 決して妥協しない姿勢を、同じ職場で見ていたあの日から、沙也加にとってヒカルは憧れだった。
 自分は何不自由のない家庭に育ち、中高一貫の女子校で、個性の似通った人たちに囲まれた青春時代を過ごした。
 親の言うことが絶対で、これまで冒険とか挑戦とか、そういうリスクを伴うことはできるだけ避けてきた。
 安全安心の道を選んで通ってきたし、いつも両親が先回りして目の前にできる穴ぼこを塞いでくれた。
 銀行に就職したのも、絶対に潰れない環境で安心して働きたかったからだ。
 結婚相手には、一生自分を守ってくれる強い男性がいいと思っていた。
 そんな中、若いながらも営業成績は常にトップクラスで、先輩に対しても物怖じしないヒカルの姿を、いつも少し離れた預金係の端末席から眺めていた。
 ヒカルには自分にはない強さを感じた。だからこそ、ヒカルから交際を申し込まれた時、沙也加の希望を叶えてくれる白馬の王子様だと思った。
 出世することに越したことはないが、そんなことよりも、自分を守ってくれる安心感を沙也加は最も求めていたし、ヒカルの強さに惚れたのは、生きていく強さからくる安心感だったのだと思う。
 そんなヒカルが一気に崩れていく。
 ヒカルの様子を見ていれば、この人事異動が彼にとって耐え難いほどの屈辱的なことであることは容易に想像できた。
 しかし、自分が何を言っても、今のヒカルの心には届かないこともよくわかっていた。
 正直、この数年で、夫婦としてのあるべき姿からは程遠い関係になってしまったと自覚している。
 結婚前に自分が思い描いていた理想像……。いつも仲睦まじく、そして、いつまでも男と女を忘れない間柄でいつづけるという理想は、結婚後間もなく、塵となって飛んでいった。
 どちらかが浮気をしたとか、そういう致命的なことが原因で関係を冷え込ませたわけではない。
 そもそも、ヒカルの心には、家族が欠落していたのだ。
 家族を愛し、家族を慈しむという、無償の愛のようなものが、ヒカルの心からぬけ落ちていることを沙也加は気づいてしまったのだ。
 ヒカルの抱える深い闇。
 瞳の奥が常に冷めているのは、心に大きな闇を抱えているからだと沙也加は悟った。
 それは彼にしかわからない孤独感からくるものなのかもしれない。
 父親と祖母に育てられたという生い立ちは、ヒカルから結婚前に知らされていた。
 しかし、母親がなぜいないのか、その理由については語ろうとしなかったし、そのことについては触れることを許さないオーラで満ちていた。
 結局、今になっても、ヒカルの子供の頃のことや、家族との思い出話を彼の口から聞くことはない。
 ヒカルにとって家族とは何なのだろうか。
 沙也加は、自らの理想と現実のギャップに悩みながらも、彼を伴侶として選んだ自分自身と向き合い続けてきた。
 でも、その答えは見つかってはいない。
 それでも、家族として、夫婦として、今自分がなすべきことは全うしなければならない。
 それは、妻としての使命感なのか、人としての倫理観なのか、沙也加にはわからなかった。
 ただ、確実に言えるのは、決して触れることのできない孤独を背負い続けるヒカルと、その夫との間に授かった愛息子と、まだ家族として生きることを諦めたくないという気持ちに嘘はないということだった。
 折尾という未知の場所へ行くことも、家族にとっての課題に向き合う新たなきっかけになるかもしれない。

 その晩、珍しく身体を重ねてきたヒカルの背中を、沙也加はそっと抱きしめた。

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第1話から第8話まではこちらからご覧いただけます!あわせてお楽しみください!!


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