#51 あの選択をしたから〜年収3分の1の転職〜
自分に多いもの、それは転職した回数と通った大学の数です。今日現在で大学は4つ目、仕事は6つ目です。十回あった大きな選択の中で、自分の人生に一番大きな影響を与えたのは、二番目の仕事だったと思います。
好き勝手やった教師時代
2000年に大学院を修了してすぐ、憧れの英語教師になりました。私立中高一貫校だったので、「自分たちの学校の教育は自分たちで決める」空気がしっかりしており、好き放題させてもらいました。ある選択授業では、
ということで、教科書はやめて毎回英字新聞などから題材を選んだ授業をしました。レベルの高いライティングのクラスでしたが、検定教科書はほぼ「和文英訳」で、いわゆる「パラグラフ・ライティング」がほとんど扱われておらず、教科書が使い物にならなかったのです。
私が勤めていた学校は、優秀な先生を集めていました。中高ながら博士号持ちの先生が2人いらっしゃって、授業中の何気ない話題が生徒の学問への興味関心を誘う素晴らしい味がありました。英語科はほぼ全員が日本の大学+海外の大学院で学んだ先生方で、「英語教師が英語を話せない」状態とは無縁でした。
収入もよく、赴任して最初の夏のボーナスが48歳で会社を退職した時のボーナスとほぼ同じくらいの金額で、半年後の冬のボーナスでほぼ100万円に達しました。比較的若い時に手厚く、その後の賃金の伸びが緩やかなのが私立学校の特徴ではありますが、日々やりがいを感じながら生徒たちと向き合いました。
赴任2年目からは自動車通勤に切り替え、朝校門を通る時には門衛さんが敬礼して迎えてくださる学校でした。両親曰く、「実力に見合わない待遇を得て、世間知らずになった」部分があったと思います。
しかし、当時は夜中まで小テストの採点や英作文の添削に追われ、運動することもなく、授業にクラブ活動にと走り回って、気づくと心身ともに完全に調子を崩しました。平均睡眠時間は4時間くらいだったと思います。note にも体調を崩した先生方の投稿が多くありますが(仲間です!)、本当に教職は激務でした。7年間の勤務の後、教職を去ることに決めました。
どうせなら、好きなことを
学校を辞めたものの、特に職業に直結する資格があるわけでもないので、はたと止まってしまいました「何をしよう……」外資系ホテルの海外向け法人営業など、英語が活かせるポジションにいくつか応募して面接を受けましたが、すでに30代半ばになっていて出身が教師となれば、あまりいい顔はされませんでした。
「神宮球場で野球を観戦していて、先頭バッターのデイブ・ヒルトンがレフト戦にヒットを打ったその瞬間に、小説を書いてみようと思い立った」と回想するのは小説家の村上春樹さんですが、僕にもはっきり覚えていないながらそんな瞬間があったのだと思います。それは、
次の日から知っている限りの管楽器メーカーや管楽器問屋のウェブサイトを検索し、英語が必須な業務、つまり海外営業や貿易業務に空きがないかを探しました。結果、あるフルートメーカーが海外営業担当者を募集していることが分かり、すぐに応募。書類選考を通過し、2時間半という異例の長さの社長面接を経て無事採用になりました。教師時代は見ないフリをしてきた、「管楽器が好き」を解放し、「管楽器 × 英語」の仕事にたどり着きました。
年収3分の1の転職!
その会社には4年間お世話になりましたが、本当に多くのことを学びました。英語が得意といっても学校で教えた経験しかなかったので、まずは貿易業務の初歩から学びました。インボイスとは何か、その作成方法、受注〜製造部との調整〜出荷計画および出荷、その後の売上管理、と一般的な企業の営業部が担当する範囲より少し広めの内容を1年間ほどかけて覚えました。
その後は外に出ました!毎年春にドイツ、フランクフルトで開催されるクラシック音楽界では世界最大のトレードショー「ムジークメッセ」(2019年で終了)に、夏には米国各都市を巡回しながら開かれるフルートコンベンション、秋にはヨーロッパの代理店を回る2〜3週間の出張に出ました。
一番多い年で年間100日以上、20カ国以上を回りました。そこでは営業やマーケティングのみならず、第一線で活躍するフルート奏者や音楽大学のフルート科教授の意見を開発部とつなぐ、いわゆる「セールスエンジニアリング」の仕事にも携わり、とてもやりがいがありました。
* * *
しかし、100年以上の歴史のある私立学校と中小楽器製造メーカーの財力の違いは比べるまでもありませんでした。年収は教師時代のほぼ3分の1になりました。年俸契約だったので、ボーナスもゼロ。教師時代の収入をベースにして購入したマンションの維持がギリギリになり、公共料金が払えなくなりました。
水道は数ヶ月料金を滞納したくらいでは止まりませんでしたが、電気やガスは数度止められて情けない思いをしました。ロンドンの有名なオーケストラ奏者と一緒の仕事で、そこそこ高級なレストランで食事をして楽器の改良について話して、日本に帰ると自宅の電気がつかない、そんな日々を経験しました。
あの選択をしたから
学校を辞めてその会社を選んだことが、自分の人生で「最大の成功」だったと思っています。大企業の海外営業部にいると、たいてい北米担当、欧州担当、アジア担当などとエリアが限定されます。僕が選んだその会社は小さかったのでそんな余裕はなく、全世界全代理店を相手に仕事ができました。
仕事はすべて英語で、どの国の人がどんな英語教育を受けて、どんな英語を話し、どんな文化の中に生きているのか、20カ国以上の人たちと直接会って話すことができました。
今は自然言語処理という、言語を扱う AI の一分野の研究者になるべく新生活をスタートさせたところです。キャリアの最初の点は英語教師にあり、その次のいくつかの点はフルート時代に会った人々と共にあり、それがドイツにいる今の点につながっています。
故スティーブ・ジョブズの米スタンフォード大学での有名なスピーチにある Connecting the Dots をまさにそのまま、自分の過去23年の人生で体験させてもらいました。感謝しかありません。
転職といえばキャリアアップ、収入アップを目指すのが普通ですよね。でも僕は「年収3分の1の転職」をして人生が大きく開け、「生きていてよかった」と一番思えるのは青春時代ではなく今です。
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目の前が下り坂だからといって、その道の先がずっと下り坂とは限りません。逆に目の前が上り坂だからといって、その先ずっとよくなる保証はどこにもありません。自分の「好き」を羅針盤として、目の前は急な下り坂だったものの、信じる道を選んだ結果多くのすばらしい人に出会い、すばらしい経験を得て、新天地で新しいスタートを切ることができました。「あの選択をしたから、いまここにいる」
今日もお読みくださって、ありがとうございました🎼
(2023年9月7日)
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