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コイン・チョコレート・トス/4.5グラム

前話からどうぞ



🪙 4.5グラム

眩しい。

ペラペラのカーテンから日の光が漏れている。
もう朝?

アラームにも気づかないくらい眠りこけてたみたいだ。
ここ一週間以上、感情の起伏が激し過ぎた。
疲れてても仕方ない。

ずりずりと畳の上をほふく前進して、充電コードを挿したままのスマートフォンを手に取った。

9:32

こんなに朝寝坊したのはいつぶりだろう。
悟は休日でも早起きをする。
私もそれに合わせて早起きをしていた。

休日は朝ごはんを作らずに、起きたら外に出かける支度をする。
顔を洗って、軽くメイクをして。
パジャマから軽装に着替えて、二人で手を繋いで出かけるのが習慣だった。

お気に入りの近所のカフェで朝食を済ませたり、いつもと違うルートを散歩をして新しいパン屋さんを見つけたり。

「早起きは三文の得」を探す休日の朝の散歩。

おしゃべりをしたり、写真を撮ったり。
おしゃべりすることがない時は、サブスクでお互いに聴いているお気に入りの音楽を一つのイヤホンをわけあって聞いたりもした。

夏頃に見つけたパン屋さんのクロワッサンがとても美味しかった。
ものすごくパリパリで、中はふぅんわり。
バターもたっぷり。
難点は、家で食べるとフローリングがパンくずだらけになるところ。

これは家じゃ食べれないね、なんて話をして夏中は食べるのを我慢した。
金木犀の匂いがところどころで香り出した頃、二人でウキウキしながらパン屋さんに行った。

クロワッサンを二つと私はチョコレートのクロワッサンをもう一つ。
悟はクロワッサンサンドを一つ買った。
コンビニでホットコーヒーを買って、近所の公園のベンチで食べた。

外で食べると美味しさはひとしおで、秋の間はクロワッサンばっかり食べてた。
寒くなってきて、少しクロワッサンにも飽きてきた頃、次は春になったらクロワッサンを食べようって言って、今度はバゲットばっかり食べてた気がする。

早く仲直りをして春にはあのクロワッサン、また食べたいなあなんて。


ただ、まだ電話もしないし、家にも帰らないけど。

私はおき上がると、新聞受けから新聞をとった。
「北朝鮮弾道ミサイル発射」

・・・またか、とため息をついた。

このニュースを聞くたびにうんざりする。
いい加減、やめてほしい。

私は新聞をひっくり返してラテ欄を見た。
そうだ今日は月曜日だ。先週は気もそぞろで集中して見れなかったけど、毎週欠かさずに見てるドラマがあるんだった。
ドラマのサブタイトルを確認しようと、夜10時台の欄を凝らすように見つめる。

あれ? おかしい。
ドラマが載ってない。今日はドラマはないんだろうか?
いや、待てよ、と思う。
もしかして・・・。

私は日付を確認する。10日前の新聞だ!!

私の血液がブワッと沸騰するのがわかった。
沸騰した血液は私の体内を駆け巡ると、心臓を通り越して頭へとのぼった。

3日連続とはあまりに杜撰すぎる。
電話なんかじゃダメだ!

私は軽装に着替えダウンコートを羽織った。
ショルダーバックを斜めにかけ、手には10日前の新聞を握りしめた。

玄関を閉め、理恵のお母さんから預かった鍵をショルダーバックの内ポケットにしまいこんだ。

新聞販売店までは歩いて7分。イライラしながら歩いた。
ヒールでなくてスニーカーを選んで履いてきて正解だった。
ヒールの高い靴をカツカツと音を鳴らして歩くのは爽快だけど、急ぐとヒールが減るのが気になって仕方がない。

急ぐなら見た目よりも、断然、機能性。


私は10日前の新聞を手に、新聞販売店のドアを叩いた。

いつもの従業員が座っている。
「〇〇3丁目の竹下ですが、また誤配で古い新聞が届いたんですけど!!」
鼻息荒く、私は新聞を従業員の顔の前に突き出した。

「〇〇3丁目の竹下さん? 確認しますね・・・・ん? ご契約なさってます? 一体何のお話でしょうか。うちは竹下さんと契約させていただいておりませんが・・・。それに今、手にお持ちの新聞は今日の物ですよ? 誤配というのは、契約をしていないのに新聞が届いているということですか?」
いつもは感じの良い従業員が、今日は完全にぶっきらぼうな対応だ。

「契約はしてますし、これは10日前の新聞です」
従業員は「はぁ」と大きくため息をついた。
接客にはあるまじき対応。
きっと、私を頭のイかれたクレーマーだと思っているに違いない。

「ご契約はなさってません。日付もよく見られてください」
新聞販売店の従業員の語気が強くなる。
そして、従業員は自分のスマートフォンの画面をぐいっと私の顔の前に突き出した。
さらに、イライラした様子で、スマートフォンの画面、日付の部分をトントンと指差した。

「ほら、見てください。今日の日付はお持ちの新聞と同じ日付です。見たらわかるでしょ? 私も忙しいんですよ。あなたの相手をしてる暇なんてないんですよ。それとも契約して帰ります?」

「そんなわけ・・・」
と言いかけたが、確かに従業員のスマートフォンの日付と新聞の日付は一緒だった。

私は新聞を小脇にさし、自分のスマートフォンをカバンから取り出した。
スマートフォンの画面を見る。確かに新聞と同じ日付だ。

意味がわからない。おかしい・・・。

私は狐につままれたような気分になった。
でも、従業員の言っていることは間違っていない。
私は混乱した頭で、すごすごと新聞販売店を後にした。

一体今日は何日なんだろうか。

私が思っているのは令和X年2月9日(月)。
新聞の日付は、令和X年1月30日(金)。

どっちが今日の日付なんだろう。
今、スマートフォンを見る限りは令和X年1月30日(金)だけど。

昨日は令和X年2月8日(日)だったし。

だって、令和X年1月30日の金曜日って言えば・・・

背中がゾワっとした。
10日前、それは今一番思い返したくない日だ。


家を飛び出した日の4日前。悟が浮気をした日。



その日、悟は酔っ払って帰ってきた。職場の飲み会だった。
飲んで帰ってくることは特に珍しくない。
悟も私もお酒が好きだし、外で飲むのが楽しいことはよく知っている。

その日もいつもと同じように「飲みすぎないでね」と悟に声をかけて送り出しただけだった。

「今日行く店は、幸子と行きたいって話をしてたフレンチレストランなんだ」
悟は少しだけ申し訳なさそうな顔をした。

「いいよ、いいよ。仕方ないよ。仕事だもんね。感想楽しみにしてる。美味しかったら今度ゆっくり一緒に行こうね」
私は、申し訳なさそうな悟を励ますように言った。

「もちろん!!何が人気メニューか確認してくる。あとはワインの品揃えもチェックしてくるよ」
ほっとしたような悟の顔。

「よろしくね」そう言って私は送り出した。

いつもの日常、いつも通りの朝。
特に何も変なところはなかった。悟もいつも通りだった。

悟は私が行きたいと言っていたレストランに浮気相手と食事をしに行くようなタイプではない。そもそも、浮気するようなタイプじゃないと思う。
もし、意図的にそんなことをしてたとしたら、あまりに趣味が悪すぎる。

その晩、と言うより日付を超えた真夜中。
悟はネクタイを外して帰ってきた。
私がそれに気づいたのは夜中の3時だった。

わざわざ起きて待っていたわけじゃなかった。
目が覚めて、一杯だけ水を飲みトイレに行こうとしたら玄関先に座り込んでいた悟を見つけたのだ。

「こんなところで寝たら、スーツがシワになっちゃうよ。明日が休みで良かったよね」と私は悟を起こした。
悟からスーツを剥ぎ取り、ハンガーにかけた。

「ん、ごめん」と言いながら悟はワイシャツを脱ぎ、肌着とパンツになってベッドに倒れ込んだ。

「靴下も脱がないと」笑いながら私は悟の靴下を脱がした。
スマートフォンも充電しておいてあげようと、私は悟のスーツのポケットから悟のスマートフォンを取り出し、コードを挿した。

その時、私はLINEの通知画面を見てしまった。

 (今日、気持ちよくしてくれてありがとう♡ すごく幸せだったよ)

手がブルっと震えた。
震えたのは手ではなかった。
震えたのは手に持っていたスマートフォン。再びLINEから通知。

 (サトルくん、大好き!!)

夫の名前だ。悟にLINEをしてきた相手の名前を確認する。

佐藤佑美。今年入ってきた新入社員の名前だ。
私の手が震えた。今度はLINEの通知じゃない。本当に私の手が震えていた。

怒りで震えているのか、動揺して震えているのかはわからなかった。
手の震えは次第に体全体に広がって、動悸が早くなった。
心臓も震えている。

私は口を開けて眠っている悟を叩き起こした。
「悟!! 起きて。これどういうこと?」
努めて冷静そうに話そうとしたが、一体彼の目に私はどう映っていたんだろうか。きっと鬼の形相だったに違いない。

新入社員の佐藤佑美はとても気のつく女の子だと言っていた。
新卒だったが飲み込みは早く、すぐに戦力になりそうだと喜んでいたのを覚えている。

可愛がっていたのは知っていたが、上司と部下の関係を超えていたなんて思わなかった。
悟はこれまでにだって何人も新入社員を指導してきた。
その中には女の子もいたし、これまではこんなことなかった、はずだ。

「幸子、どうした?」寝ぼけ眼を擦りながら悟が起き上がる。
「これ!!」私に冷静さなんてなかった。

裏切られたと思った。ショックが大きすぎた。
けど、何かの間違いかもしれないと僅かな希望に賭けたい気持ちもあった。

「どれ?」しょぼしょぼとした眼を開けてLINEの通知を見る。
悟の目が少し泳いだ気がした。
「こんなの冗談だろ。それより勝手に見るなよ、人の携帯の画面なんか。寝ようよ。眠いし」

そういうと、悟は私の手から携帯電話をサッと取り上げて、枕の下にスッとしまった。
「誤魔化さないでよ!!」
私は悟の枕をふんずと握り、一気に取り上げた。
悟の首はぐにゃりと曲がりそのままの首の形を保ったまま、ドスンとベッドの上に頭を落とした。

「何するんだよ」突然の私の攻撃に驚く悟。
「浮気してるんでしょ?」誤魔化されまいと問い詰める私。

「浮気なんかしてないって。送信相手間違ったんじゃないの?」
明らかに声がうわずっている。
「サトルって書いてあったけど?」
知らん顔はさせまいと、尋問状態。

「別人じゃないの?」
悟の目線が泳ぐ。明らかに嘘だ。
「そんなわけないじゃない。適当なこと言わないで」
私の苛立ちはひどくなる。

「そう言うこと誰にでも言う子なんだって。冗談なんだって」
何が冗談なんだろう。そんな嘘が通用すると思ってるのだろうか?
私はさらに苛立った。

「その前の通知も見たんだから! 気持ちよくしてくれてとかなんとか。今日は二人でデートでもしてたわけ?」
「は? 何もしてないって。ただの職場の飲み会だよ。確かに佐藤さんもいたけど、他にもたくさんいたし」

早く認めたらいいのに!
絶対にこれはクロだと、女の勘が言っている。

「そもそも、なんで今日はネクタイ外して帰ってきたわけ? 普段は飲んでてもそんなことないでしょ。ネクタイを外さないといけないようなことをしてきたんじゃないの?」
「なんだよそれ。ネクタイ? なんのことだよ。・・・ネクタイ?」

悟が動揺したのがわかった。
絶対に浮気だ。間違いない。

「じゃあ、佐藤さんとのやりとり見せてよ」
「なんでだよ。何もないって」
「何もないなら見せられるでしょ」

その後のことは思い出したくもない。
その前のことだってもちろん思い出したくないけど。

昨年の12月。
悟は佐藤さんがストーカー被害に困っているという相談を受けたらしい。
もしかしたら元カレがストーカーかもしれないと。

佐藤さんが家に着くなり、連日、無言電話がかかってきていたらしく、
「ストーカー化した元カレに見張られているかもしれない。帰るのが怖い」と泣きついてきて、仕事帰りに相談に乗ることになった。

その日は仕事が立て込んでいて帰りが遅くなり、悟が佐藤さんを家まで送り届けることになった。
家まで送って、元カレからの着信を見せてもらい、色々と話を聞いた。
佐藤さんの元カレはDV気質で、乱暴だったそうだ。

「臼井さんは、優しいですよね。今度は佑美も臼井さんみたいな人がいい」
なんてことを言われたとか。

いちいちそんな報告はいらない。全然、聞きたくない。
大体、自分の第一人称をファーストネームで話す女なんて胡散臭いと思わないのかな。ストーカーの話なんて嘘っぱちに決まってる。

佐藤さんはお喋り上手、聞き上手だったらしく、なんだかんだと話が盛り上がってしまった。
途中から記憶が曖昧で、気がついたらベッドで二人が裸になっている写真を撮られていた。
悟は自分でも何が起きたのかはよくわからないと言った。その時に何があったのか、全く記憶がないと。

それが昨年の年末の話。

その後、その写真をチラつかせて佐藤さんは悟に体の関係を迫ってきた、ということだった。

「佑美、悟さんのことが好きなんです。あと、一回だけでいいんです。ちゃんと悟さんが覚えてくれてる時に、一度だけ抱いてほしい」と迫られたと。

悟は断ったけど、一度でいいからと懇願されたとかされないとか。
写真も消してほしいと何度もお願いしたけど、のらりくらりかわされたとかどうとか。

だけど、最終的に一度だけ抱いてくれたら、写真は削除すると約束してくれた。
でも、もし叶えてもらえないなら会社と幸子に写真を見せて、不倫関係を強要されたと訴えると脅された。

「そんなの誰も信じない」と言ったけど、「佑美は臼井さんのお話色々聞いてるんで『義務的なセックスに飽きた臼井さんが、上司という立場を利用して佑美に体の関係を持ちかけてきた』とか、そういうちょっと本当っぽいこと言っちゃえば、みんな簡単に信じちゃうと思うんですよね♡」
と脅されたということだった。

正直、佐藤佑美の目的はよくわからなかったけど、一回だけなら、それでなかったことにしてもらえるなら、と思ったんだとか。
悟は佐藤さんと関係を持ったことを認めた。

幸子のことを愛しているし、仕方なかったんだと土下座をして謝った。

何が仕方ないんだろう。
全然仕方なくない。

若干、モテ自慢的なものがチラチラ入ってくるのもイライラする。
若い子に言い寄られて、嬉しくなって調子に乗ったんじゃないの?
脅されたなんて、デタラメじゃないの?
あまりに悟に都合のいい展開を話すもんだから、悟が謝る度に、私は白けていった。

血の気が引いて、顔も白んできて、具合も悪くなって、どことなしか息苦しい。

なのになぜか「わかった」と言ってしまい、その「わかった」を聞いた悟は、ほっとしたような顔をして「ごめん」と一言言った。
私はその姿を見て、吐きそうになった。

その日は同じベッドでは寝たくないと言うと、悟はまた、ごめんと言い、リビングのソファーで寝た。

私はベッドに横になったけど、眠れるわけがなかった。
悟の言うことが信じられなかった。

もしかしたら・・・という妄想が、真っ白になった頭の中を埋め尽くすように走り回る。

あることもないことも、全てがないまぜになる。
新入社員の女が配属されてからの悟の言動を事細かに思い出したりしながら、この日はどうだったのだろうかと、考える。

現実の行動と妄想が勝手に結びつき始めたりする。

気がつけば外は白んできて、朝になった。
二日酔いの悟が、トイレに駆け込み嘔吐している声を聞いた。

ザマーミロと思いながら、私もこの全ての感情を吐き出せればいいのにと思った。

気持ち悪い。とにかくムカムカする。
それにもやもやと霞がかかったようで、どうすればいいのかもわからなかった。

本当に脅されてて、本当に一度限りの浮気だったんなら許してもいいかもしれないと言う気持ちと、嘘をついてるかもしれないし、1回だけじゃないかもしれないし浮気なんて許せないという気持ちが行ったり来たりする。

許す、許さない、許す、許さない、許す、許さない・・・・

「許す」と「許さない」がとてつもなくうまいラリーを繰り返す。
どちらかが優勢ということでもなく、永遠に続くラリー。

「許す」と「許さない」がラリーを続けている間、私は、佐藤とかいう新入社員の女とのセックスの時に出した精子の中に、もしかすると私と悟の子どもとしてやってきてくれた子がいたかもしれないと、そんなところまで妄想してしまった。
受精したって着床しないかもしれないけど、もしかして無駄に出さなければ、元気な精子が私の卵子と出会ったかもしれないなんて考えて、泣きたくなった。

そんなことを2日間考え続けて、頭がおかしくなりそうだった。
3日目の朝に理恵に電話をし、昼に荷造りをした。
夕方に理恵のお母さんからアパートの鍵を借り、浮気を知った4日目の朝に家を出た。



思い返したくもない10日前の出来事を反芻しているうちに、気がつけば私は理恵のアパートの玄関にいた。

結局、今日が何日なのかがわからなかった。
あまりに混乱している。

1/30、2/9、1/30、2/9、1/30、2/9・・・
こちらもものすごくうまいラリーを続けている。

私の中で、今日が何日なのかの結論は出ない。

理恵のアパートの玄関を開けて、部屋に入る。
手に握りしめていた新聞を畳の上に投げ捨てた。
手にインクが付いていたので、すぐに手を洗う。どれだけ強く握りしめていたのだろう。

タオルで手を拭き、再び携帯電話で日付を確認する。

令和X年2月9日(月)

手元の新聞を見た。日付は令和X年1月30日(金)。
悟が浮気をした日。

嗚咽しそうなほど嫌悪感がある日。日付は間違っていない。やっぱり誤配だ。

そもそも、私はまだその日にはアパートに来ていないし、新聞だってとっていない。
自宅で新聞はとっていなかったし、私がこの日付の新聞を持っているなんてことは、理屈としてあり得ない。

それに、よく考えると今日は第二月曜日だ。
休刊日のはず。
新聞配達なんかあるわけがない。

ということは、新聞販売店もしまってるんじゃないの?

たぶんこれは夢だ。
この10日間、いろんなことを考えすぎて、私の頭は混乱しているんだ。

私は布団も引かず、毛布にくるまってそのまま畳の上で眠りについた。




喉がぱりぱりになって目が覚めた。

吸った空気すらも喉の奥に張りつきそうなほど、身体中の水分が抜けている。
電気ファンヒーターの前で寝たのがよくなかった。
コンタクトも眼球にぺったりと張り付いている。

私は台所の水道の蛇口を捻り、シンクに置きっぱなしにしていた紙コップに水を入れた。
勢いよく蛇口を捻りすぎて、すぐに紙コップから水が溢れ出した。
私は水を止めもせずにそのまま紙コップに注がれた水道水を飲み干した。

紙コップの水道水を飲み干してから、蛇口を捻り水を止めた。
近くにタオルがなかった。
仕方がないし、と着ていたシャツでさっさっと手を拭いて、乱雑に畳の上に置かれたショルダーバックからポーチを取り出した。

ポーチの中からコンタクトでも使用可能な目薬を取り出して、右目にさした。
うまく目の中に入らなくて、目薬は目の外側に落ちた。
つつーと目薬は顔をつたい、右耳がそれをキャッチ。

私は右耳に入った目薬をそのままにして、もう一度、目薬を右目にさした。
今度はうまく目の中に入った。成功。

次は左目。こっちは失敗せずに命中。

目薬をポーチにしまい、ポーチをショルダーバックにしまう。
机にしてる段ボールの横に置いているティッシュの箱からティッシュを一枚引き抜いて、右耳の中に落ちた目薬を拭った。

私はまた台所に立つと、水道水を紙コップに注ぎ再び飲み干した。
水道水を飲み終えたら、一昨日食べたうどんのアルミ鍋に水道水を入れた。
コンロに水を入れたアルミ鍋を置き、火にかけた。

ぐつぐつと水が沸騰するのを確認して、火を止める。
昨日スーパーで買っておいたカップ麺をスーパーの袋から出す。

醤油味。

カップ麺をひっくり返し、底にぶすりと指をさした。
包装されたビニル製の外装フィルムをびりっと剥がす。
フィルムをシンクの上に置いて、蓋を半分ほどまで開ける。
カップをトンとシンクの上に置いた。

アルミ鍋の隅を両手の親指と人差し指でつまんで、火傷しないよう溢さないようにカップ麺にお湯を注ぐ。
内側の薄い線までお湯を注ぎ終わると、残ったお湯を紙コップに注いだ。

アルミ鍋を再びコンロの上に置き、カップ麺の蓋をしめた。
湯気でじんわりと蓋が開いたので、割り箸を上に置いた。

紙コップに注いだお湯を口に含んだ。
ほぅと一息ついて、時間を測り忘れたことに気づいた。
スマートフォンの画面を見て、あと1分くらいでいいかな、と思いながら、もう一口、お湯を飲んだ。

だいたい1分くらい経ったかな?

カップ麺の蓋を剥がし、上に置いていた割り箸とカップ麺を机代わりの段ボールの上に置いた。
割り箸を割り、麺をほぐす。
少し固いところもありそうだけど、気にしない。
そのまま麺を持ち上げ、口に放り込むとズルズルとすすった。

髪が邪魔。

手首にはめていた黒いヘアゴムでひとつ結びにして、残りの麺を全て体内へと運んだ。
湯気で鼻水が垂れそうになる。段ボールの横に置いていたティッシュを2枚引き抜き鼻をかんだ。
鼻水がついた面を内側にしてティッシュを丸め、とりあえず畳の上に転がすと、カップ麺のカップを手に取り一気にスープを飲み干した。

ふぅと一息ついて、そのままバタンと転がった。
ポケットに手を入れてスマートフォンを取り出した。時刻を確認する。

令和X年2月9日(月)17:35

やっぱり今日は2月9日。
寝返りを打ち、畳の上に投げ捨てた今日届いた新聞を手にとる。

1月30日(金)。夢じゃなかった。

冷静になって考えてみる。

私は間違いなく新聞販売店に行った。
そして今、2月9日と表示されているこの画面が、新聞販売店では間違いなく1月30日だった。
そこだけが夢だったにしてはあまりに鮮明すぎる。

馬鹿げた想像だが、私の頭の中にタイムスリップ説が浮上した。
天井のシミがくすくすと笑っている。

(幸子、タイムスリップしたの?)
さあ。今、考えてるところ
(タイムスリップとかありえる?)
あり得ないと思うけど

(だよね)
天井のシミの口の部分がいじわるな感じで、ニヤリと笑った気がした。

明らかに私をバカにしてる。
私は天井のシミの説得を試みた。
なんのための説得かはわからないけど。

でもさ、タイムスリップじゃないと説明つかないし。
(えー? どうやって?)
誤配の新聞とか?
(新聞のせいってこと?)
まあ、そう考えるのが妥当じゃない?
だって誤配の新聞と同じ日に行ったんだし。

天井のシミは全く納得していなさそうだ。
小さなシミの目線が白けているように見えた。

(幸子の妄想、すごいね)
バカにしてる?
(バカになんかしてないけど・・・なんの意味もないよね)
何が?
(誤配された新聞なんてそんなの来るか来ないかわからないものでタイムスリップしてもねえ)

天井のシミがぷっと笑った気がした。
でも、私の中でタイムスリップ説は動かない。
天井のシミの発言に苛立ちすら覚えた。

まあ、そうだね。
(タイムマシーンを発見したとかさ、そーゆーんならロマンもあるってもんでしょ)
まあ、そうだけど。
(結局、タイムスリップってわかったところで、なんの面白みもないってことだ)
だから何よ。
(アホらしいし、色々悩み過ぎて、こじらせすぎでしょ)

天井のシミとの会話はこれにて終了。
確かにタイムスリップなんて甚だアホらしいと私も思ってはいた。

けど、すでに私は自分の人生にアホらしさを感じ始めていたし、いっそここまでアホらしいと清々しい気さえする。

理想とは程遠い人生。
予定していた道は絡まり、私の足元にこんがらがったたま放置されている。
解く気にもならない。

優しい夫は浮気した夫になってしまった。
帰りたいけど、帰れない。
許したいけど、許せない。
自分でもどうしたいのかがわからない。

今はヤカンすらない理恵のアパートに現実逃避をして、鬱屈とした日々を過ごしているだけだ。

どうせ逃避するならとことん逃避してもいいかもしれない。
もしかして、私の思考が歪んでるみたいに、この部屋と外の世界で時空が歪んでいるのかもしれない。

そうだ!! きっとそう!!

私はあり得ない妄想を膨らませながら、訳のわからない期待を胸に、スマートフォンを握り締めて玄関を開けた。

スマートフォンの画面を確認する。

令和X年2月9日(月)17:42

妄想は妄想でしかなかった。
私は肩を落としながら部屋に入った。
そんな摩訶不思議な、映画みたいな、漫画みたいなことが私に起こるはずがない。

私は物語の主人公ではなく、ただの端役なんだ。
キラキラと自分の夢に向かって走る主人公の友人Aであり、略奪愛を試みる悲劇のヒロインの邪魔をする妻Bであり、青春を謳歌する中学生たちの横を通り過ぎる通行人Cなんだ。

そういえば、中学生とすれ違った日も誤配はあった。
けれど、外出したももの特段変なことはなかった気がする。
レシートもちゃんと当日のものだったし、家計簿アプリにレシートを登録した時だって違和感はなかった。

何が違うんだろう? 私は頭をひねる。

「あ!!」

私は靴を脱いで、畳の上に転がしておいた1月30日の新聞を手に取った。
誤配の新聞を手にとり、外に出る。

一瞬、空気が変わったような気がした。
少しだけすんとした冷たいような。
私は手元のスマートフォンの画面を見た。

令和X年1月30日(金)17:48

「変わった!!タイムスリップした!!」

私は思わず驚いて、手に持っていた新聞を落としてしまった。


その瞬間、時空が歪む。目が霞む。空が白む。気が遠くなる。


はっと気がつくと、私は玄関で座り込んでいた。
再び日付を確認する。

令和X年2月9日(月)18:03

今日だ。元の日付に戻ってしまった。
新聞は?
落とした新聞は?

私は足元を探した。新聞はもうなかった。
初めから新聞なんかなかったように、そこには何もなかった。

私は玄関を開け部屋に入り、部屋中を探し回った。
新聞を積んでいた場所も漁る。一枚一枚確認した。
しかしどこにも1月30日の新聞はなかった。なかった。どこにもない。

キーは、誤配された新聞だ。


もしかして、この物語の主人公は私なのだろうか。




↑ つづきます


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