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コイン・チョコレート・トス/150.9グラム

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🪙 150.9グラム

すっかり眠りこけてしまった。

一昨日が眠れなかったせいかもしれない。
夢も見ず、畳と布団と同化して眠った。
多分、微動だにしてないんじゃないかと思う。
寝返りだって打っていなさそうな気がする。

泥のように眠った。



昨日は特に何もしなかったのに、なんだか疲れてしまっていた。


天井のシミの声が私の声だったなんて。

とんだ一人相撲だと思ったけど、初めて自分の気持ちを聞いた気がした。

いつまで経っても、誰かに守られてばっかりで。
流されて、自分の意思が見えなくて。
自由な何かに憧れて、憧れるだけで。
変わりたいと言いながら、いつまでも同じ場所にいる。

変わりたいんだと言う声が聞こえた気がした。

真剣な自分の声を聞いて、なんだか疲れてしまった私はそのまま眠ってしまっていた。

畳の上でそのまま寝ていたもんだから、起きた時、体がバキバキだった。

夕方ごろに目が覚めた私は、買っておいた食パンを生のまま、何も塗らず、何も挟まず、詰め込むように食べた。
すっからかんだった胃の中の胃液を食パンが全て吸収すると、まだ食べ足りないとお腹が鳴った。

アパートには生卵以外、食べるものが何もなかった。

もう雨は止んでいて、私はメイクもせずにタイムスリップスタイルのマスクとサングラスで近所のコンビニまで行った。
目につく美味しそうな食べ物と、野菜不足を気にして手にしたサラダをガサガサとカゴに放り込んだ。

帰るや否や、動物園の猿が餌に喰らいつくみたいに、私は脇目もふらずに一心不乱に食べ続けた。
ひとしきり食べたところで、買ってきてた1.5リットルのコーラのペットボトルの蓋を開け、コップにも移さずにそのままぐびぐびと飲んだ。

食べ盛りの男子高校生の昼食ってこんな感じだろうか。

私は満腹になると、誤配された新聞を読み漁り、歯を磨いて眠った。

昔の新聞というのは意外に面白かった。
すでに経験済みの時間にも関わらず、私自身の生活に密着していない出来事は、新しいニュースと何ら変わらない鮮度だった。

事実が私の前を通り過ぎても、私がそれに気づかなかったら、なかったのと一緒。
逆に、誰かの、自分の作った想像の出来事でも、私が信じたら、事実より真実味を帯びたりする。

フシギなもんだなと思った。

起こったことは何も変わらないのに、見えるか見えないかで、あったことにもなかったことにもなる。
誰がどんな風に捉えるかで、同じ事実も違うものに見えたりする。

本当のことなんて、どこにもない気がした。


泣いて、吐いた。
自分の声も吐き出した。
私はすっからかんになった。

空っぽになったら、詰め込んだ。
食べて、読んだ。

そして、寝た。


起きたらなんだかすっきりした。

目が覚めると、もう色んなことがどうでもよくなっていた。
投げやりなそれではなくて。

一旦、家に帰ろうと思った。
ちゃんと向き合おうと思ったし、向き合えると思った。

新聞は今日で止めておこう。
そもそも、まともに配達をされてもいないし、払う義理はない気がする。
けど、なんとなく申し訳ないので、一ヶ月分だけ支払う約束をして、解約させてもらおう。

私は最後の新聞を新聞受けから取り出した。

平成X年6月1日

平成?
17年前?

なんで?
私が14歳の頃?

私は新聞を落とした。

あの日だ。
私にトラウマを植え付けたあの日。

あ、手が震えてる。

脈が早くなる。
鼓動が大きくなる。

心臓が耳に移動してきたんじゃないかと思うくらいに、大きな音で心臓がどくどくと脈打っているのが聞こえる。

どうしよう。

これは何の試練だろうか。
少しずつ消化していって、やっと癒えてきたような古傷が、急に痛み出した。

深呼吸をする。
深く息を吸って、長く息を吐く。

まだ浅い。

何度か繰り返す。
吸っては吐いて。
吐いては吸う。

次第に深く吸えるようになる。
ふーーーーーっと息を吐いた。


どうする私?


天井を仰ぐが、シミは何も答えない。

決められない。まだ、自分じゃ決められない。

ごめん、天井のシミ。
今、入ってるだけのコインチョコまでは使わせて。

お願い。

私は天井のシミに謝った。
ショルダーバックから自家製ブラックジャックを取り出す。
ショルダーバックの底にしまい込んでいたはずの一昨日の誤配の新聞は消えていた。

あれ? 新聞がない。

そういえば、昨日の新聞もない。
誤配された新聞は何一つ残っていなかった。
全ては消えてしまうのか。
証拠も残さずに。

私は自家製ブラックジャックの口を開けて、残り3枚のコインチョコのうちの1枚をつまんで取り出した。

力が入る。
コインチョコは勢いよく真上に舞い上がる。

あ、ぶつかる。

その瞬間、天井のシミが口を開けたような気がした。
コインチョコが天井に吸い込まれるような錯覚。

天井のシミがニヤリと笑ってコインチョコを吐き出すと、私の左手の手のひらに吸い込まれるように落ちてきた。


表。


私はぺりぺりとコインチョコのアルミを剥がす。
綺麗なチョコレート。割れてなんかいなかった。

表、かつ、割れていないコインチョコ。

「迷わずに進む、しかない」

冷静に考えなければいけない。動揺してはならない。
思い出さないようにしていたあの時のことを思い出さなければいけない。
多分、運命は変わらない。

あのことは無かったことにはならないんだ。


だけど、


私は再び深呼吸をした。




あれは私が中学2年生。

部活帰りだった。
時刻は夜7時をほんの少し過ぎた頃。

今、私がいる理恵のアパートから歩いて15分程度、理恵の実家から歩いて10分程度の場所にある、古いマンション。

私の昔の実家。
中学生まで住んでいたマンション。
6階建て。その建物は今もまだある。

その日、部活終わりに中学校から理恵と話しながら歩いて帰った。
理恵と別れ、自分の自宅へと歩く。

6月1日。

夏服へ衣替えがあった日だ。
半袖のシャツと夏用のスカート。
まだ夜は少し肌寒かった。

そして、夜7時は薄暗い。

夏の大会に向けて練習はハードになっていく。

一年生の頃と違い、私たちの熱も入る。
もしかして試合に出れるかもしれない。

私は、へとへとになってマンションへと帰りついた。
そして、エレベーターに乗る。

私の後に、知らない男がエレベーターに乗り込んできた。
見たことのない住人だと思った。

私は6のボタンを押し、男は5のボタンを押した。
変なパーマのかかった髪型。
いかにもな龍の刺繍が施されたスカジャン。

スカジャンの色は紫でテカテカとしている。

趣味が悪いな、と思った。

私は疲れた体で、その趣味が悪いスカジャンをぼーっと眺めていた。
5階に着く。私は男が降りるのを待つ。


男は降りなかった。



男は急に振り返り、ナイフを私に突きつけた。
そして、私を触ろうと手を伸ばす。
無意識に私は叫ぶ。
本当のところは叫んだかどうかを覚えていない。
頭が真っ白だった。
男が逃げていくのがわかった。
私はエレベーターの「閉」ボタンを連打する。
エレベーターが6階につく。
もしかして男が待ち伏せているかもしれない。
私は走った。
玄関のインターホンを連打する。
母が出てきた。
奥のテレビで人気のアニメのオープニングの歌が流れていた。
間違いなく午後7時。

私は母に一部始終を話すと、母は表に出て男がいないかを確認した。
そして、警察に通報し、警察に事情を話した。

その夜のことはよく覚えていない。

私はレイプもされなかったし、刺されもしなかった。
特に被害はなかった。不幸中の幸いだった。

翌週に別のマンションで同様の手口で、刺されそうになり体を弄ばれた子がいたと知った。
犯人は「叫んだらと殺す」と言っていたと聞いた。

私と同じ犯人だと思った。

私が叫んだから、次の子には叫ばないように脅したんだろうと思った。
私は、二人目じゃなくてよかったなんて思ってしまった。それと同時に、私が叫んだせいだ、と申し訳ない気持ちにもなった。

なんで私がこんな気持ちにならないといけないんだとも思った。
悪いのは犯人であって、私ではない。

それから母は私の帰りが遅くなるたびに、迎えにきてくれた。
父も兄も。
私が部活で遅くなる時も、塾の時でも、いつでもだ。

私が中学を卒業したタイミングで、私たちはそのマンションを出て、別のエリアへと引っ越しをした。
私はあの出来事があった後も普通に生活をしていた。たまにあの時のことを思い出すこともあったけど、大きな事にはならなかったし、すごく不安になるようなことはなかった。


大丈夫だと思ってた。


刺されそうになっただけで、実害なんてなかったから。

でもある時、知らない男の人と二人でエレベーターに乗った。背筋が凍って手が震えた。
冷や汗がつつーとおでこをつたった。
調理実習で刃物がこちらを向いている時も、ギョッとして脈が速くなった。

全然、大丈夫じゃなかった。

あの男は、私を刺したりも触ったりもしなかった。
だけど、私の心臓を抉り、握り潰したんだ。

それは見えない傷だったから、誰も気づかなかっただけだ。


その傷に気づいた私は、私を心配した親以上に、自分に対して過保護になった。

世の中は何が起きるか分からない。
自分の身を守れるのは自分しかいない。
できるだけシェルターにこもっていれば安心だ。
外に出る時は最大限の防御を。

徐々に傷が癒えてくると、守りすぎた、守られすぎた自分に嫌気がさして一人暮らしを始めた。
でも、世の中が安全になったわけじゃない。

嫌なニュースを見るたびに、私の男性への不信感は募っていった。
そして、余計に肩に力が入っていったのは間違いなかった。

そんな時、悟に会った。

今ここに悟はいない。
一人でなんとかしなければならない。
事実は変えられないが、何かできることがあるのかもしれない。


14歳の私のために。


いや、今の私のために。





私は時刻を確認する。12:38。

あの男が一体どこから私をつけていたのかを、私が知る由もなかった。
だったら私ができるのは、学校から私の後をつけるか、家の前で待ち伏せをするかのどちらかしかない。

中学生の頃、どうやって帰っていたかを思い出す。
私は学校から理恵の実家近くで別れて、一人歩いてマンションまで帰る。
マンションへの道はいくつかあった。

果たしてその日はどの道で帰ったのだろうか。

考えられるのは二つ。

人通りの多い道。
こっちから帰ると明るくて安全だけど、遠回り。

もう一つは、人がほとんど通らない道。
最短ルートだけど、ほんとにほとんど人は通らない。
親からは通らないでねと言われていた道。事件が起きる前でも一人で通るには不安なルートだった。

ちょうどいい道があればいいのに、といつも思っていた。

その日の私がどちらの道で帰ったのかは、全く思い出せなかった。
紫のスカジャンとナイフのことばかりが記憶に残り、それ以外のことはあまり覚えてなかった。

仕方がないので、私はマンションの前で待ち伏せすることにした。

待ち伏せした後はどうしようか。

当然だが、14歳の私もあの男もタイムスリップした私には気づかないだろう。
私は透明人間なのだから。
私は14歳の私や男に触れるのだろうか?

物に触れられることは前回のタイムスリップでわかっている。
でも、私は直接、私の事が見えない誰かに触れたりはしていない。

触ったらどうなるかもわからない。
漠然とだけど、なんだか怖い。
できるだけ触らないようにして、解決した方がいいかもしれない。

とりあえずエレベーターに一緒に乗り込もう。

物理的な何かを持って。
男がナイフを出したら、ナイフを叩き落として、伸ばそうとする手も叩き落とそう。
あの刺さりそうな刃先が、伸びてくる手がなければまだ私の傷は浅くすむかもしれない。
見えないものに叩かれれば、男も怯んですぐにその場を去るに違いない。

そうと決まればと家を出ようと思ったが、マンションはここから歩いて15分。
すぐに着いてしまうし、夕方までは特にやることもない。

一旦、落ち着こう。

私は残り2枚のコインチョコのうち、1枚のコインチョコを投げた。
さっさとコインチョコを使ってしまおう。
そしたら、自分でちゃんと決めるんだ。

腹ごしらえに何を食べる?


寿司か焼肉か。

表が出たら寿司。
裏が出たら焼肉。

私はコインチョコを投げる。
y=-2x² の放物線。


思いのほかちょっと遠くに落下して、慌ててキャッチした。

裏。


よし、今日は焼肉だ。

私は家族とよく行った近所の焼肉屋へと向かった。
ランチタイム。
ここ数日、栄養が足りていないと感じていた。
食は人の基本なのだ。

昨日はコンビニでサラダを買って食べた。
それぐらいじゃ野菜が足りないのはわかっていたけど、まずは肉だ。

今日は過去のトラウマと対峙しなければならない。

私は焼肉屋に入ると焼肉定食を頼んだ。
追加でカルビも頼んだ。

ツヤツヤの白いご飯、湯気が立ちのぼるわかめスープ。
皿には数種類の肉とそれと別にカルビ一人前。
私はカルビを一枚網の上に乗せた。

じゅうと音がして、煙が上る。
久方ぶりの肉が焼ける匂い。

私は肉をひっくり返す。

再びじゅうぅと音がして、美味しそうな匂いが立ち込める。
これこれ。
ああ、ビールが飲みたい。

しかし、今日は飲まない。
全てが片付いたら、生ビールを飲もう。
缶のビールじゃなくて、キンキンに冷えたジョッキに入ったビールを飲むんだ。

私は肉を箸で掴み、タレの入った皿に入れ、表面がこんがりと焼けた肉にタレをつけると、左手に持った茶碗の上で肉をバウンドさせてから肉を口に入れた。
口の中に甘辛いタレと肉の脂がじゅわっと広がる。

柔らかい肉を噛むと肉汁がじわわと口の中に浸透していき、唾液と脂が絡まる。
何度か咀嚼して飲み込むと、まだ肉の味が広がっている口の中にタレで汚れた白いご飯を放り込む。
わしわしとご飯を噛んで飲み込んだ。
荒く砕かれたご飯の粒が、喉を通る音がした。

「うま」

私は肉を数枚と焼き野菜を編みの上に乗せ、焼いては食べ、食べては焼いた。
五臓六腑に染み渡るとはこのこと。
力が湧いてくるような、漲るような気がして、肉は偉大だと思った。

目の前に母の残像が見える。
「よく焼いて食べなさい」と言う声が聞こえたような気がした。

今の私は、肉は多少赤い方が美味しいという悟の持論に私はすでに支配されていた。
ぼんやりと聞こえる母の声を無視して、まだ赤い牛肉を口の中に放り込む。

「お母さんが焼くと、肉が固いんだよね」
私は独り言と一緒に、噛み砕いた肉片と脂を飲み込んだ。


そういえば、母からも数回着信が入っていた。
きっと悟が私が実家に帰ったのではないかと思って連絡をしたのかもしれない。母もきっと心配しているだろうな、と思った。

思えば家出なんてことをしたのは人生で初めてだった。
誰しも人は一度くらい家出をして、自分を見直す機会が必要なのかもしれない。

理恵がよく、旅に出た方がいいよ、と言っていた。

知らない場所に行くと、知らない自分に出会える。
新しい価値観が生まれる。
いつも同じ場所で同じことを繰り返す日々では、気づかないことがたくさんある。
人生は長いようで短い。

殻は内側からしか破れないよ、と。

そんなことをできるのは、きっとほんの一部の人かもしれないけど、たまに環境を変えて違う空気を吸うのもいいかもしれないと思った。

私は、地元に戻ってきただけだったけど、それでも何かが変わったような気がしていた。

悟と話し合いをしたら、実家にも顔を見せに行こう。母が大好きだったこの街のケーキ屋さんで、アップルパイを買って行こう。
母はアップルパイが好きなのに、いつも私と兄が大好きなチョコレートケーキを買ってきてくれた。

自分のことはおざなりで、あなたたちが満足すればそれでいいなんて言っていたけれど。
母がアップルパイを美味しそうに食べる姿を見るのが私は好きだった。


お会計を済ませ、理恵のアパートへと戻った。

歯磨きをし、着替えをした。
今からタイムスリップする時期は6月だ。

半袖のシャツは流石に持ってきていなかったので、薄手の長袖のシャツに腕を通した。

誤配された新聞は、前回と同様ショルダーバックにしまった。
いつもなら、自家製ブラックジャックはショルダーバックにしまったままだが、今日はポケットに忍ばせておいた。

17:00
少し早いが私はかつて私が住んでいたマンションへと向かった。

空が橙色に染まっていく。
次第に周囲が薄暗くなる。

なんだか夢の中にいるみたいだ。

私の輪郭と世界の輪郭がぼんやりとし、ほの暗いこの世界に溶け込んでしまったような。

足の裏は地面を捉えて損ねているようで、ほんの少し、コイン一枚分の厚さの距離を感じた。

私は、17年前の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。



18:56
14歳の私が、前方から歩いてくるのが見えた。
私の後ろには紫色のスカジャンを着た男。

思わず、えずく。
呼吸が速くなる。

14歳の私がエレベーターに乗る。
私はすぐさま14歳の私の後に乗りこんだ。

男も足早にエレベーターに乗ってきた。


エレベーターの奥に14歳の私。
ドアのところに男が立っている。
私はちょうどその間に立つ。

14歳の私が6階のボタンを押し、男が5階のボタンを押す。

エレベーターの数字が、2になり、3になり、4になる。

男はじっと動かない。

14歳の私は男のスカジャンを見つめている。
クソダサいなと思っているところだろう。

男の右手はポケットに入っている。
きっとあそこにナイフが入っているに違いない。


来る。


5階。


ドアが開いた瞬間、男は振り向いた。
右手をポケットから出し、握っていたナイフを14歳の私に突きつけようとしている。

私はとっさにショルダーバックを14歳の私と男の間に突き出した。
ナイフの刃先が私のショルダーバックに刺さった。
男は見えない何かにナイフが刺さったことに気づきナイフを引く。

男が手を伸ばそうとしたので、私はショルダーバックを振り上げた。
男は手に見えない何かが当たったことを感じ、驚いた様子を見せた。

14歳の私は驚きのあまり、叫んだ。
耳をつんざくような声。


えらいぞ私!! よく叫んだ!!


男は14歳の私の叫び声を聞き、エレベーターから降りた。

私は男を追いかける。
男は階段を駆け降りる。

逃がさない。絶対に。

私は男に向かって自家製ブラックジャックを振り下ろす。男の背中に少しだけかすった。

男が前につんのめった。

こけろ!!

男はバランスを立て直し、再び階段を降りる。
私は舌打ちをした。
それに男の足が思いの他早く、追いつけない。

男はマンションの入り口から走り去ろうとしている。
私は自家製ブラックジャックを投げつけた。
男の背中にどしんと当たった。

男はその場で転んだ。

やった!! 私はガッツポーズをした。

しかし、男は立ち上がると逃走してしまった。
逃げられた。


あ、めまいがする。

急に走ったからだろうか。
違う。何かが違う。

ショルダーバックを開ける。
誤配された新聞がナイフで刺されて破れている。

あ、もうだめだ。

もどる。
意識が遠のく。
目の前が白んでくる。


私はマンションの入り口に座り込んだ。




竹下悦子は、マンションの前で犯人を探していた。
背後に人の気配を感じ、悦子は振り返る。

「敦彦! なんで降りてきたの」
「いや、母さんだけじゃ危ないでしょ」

竹下敦彦は、真剣な顔をして当たりを見回す。

悦子はため息をついた。
「もう! 幸子をひとりにしないでよ」
「今は部屋にいるし、鍵はかけてきたから。それより犯人は?」
相変わらず敦彦は、あたりをキョロキョロして犯人を探している。

「いない」悦子はため息をついた。
「もうすぐ警察が来ると思うから、戻ろうか」
幸子が心配な悦子は、敦彦に部屋に戻ろうと促す。

「何これ?靴下?」
敦彦は道路に落ちていた靴下を拾った。
「なんか重たい。靴下に何か入ってるみたい」
靴下を手に取り、持ち上げた。

「え? なにそれ? 落ちてるのを素手で拾わないでよ」
怪訝な顔をして、敦彦が手に持っている黒い物体を睨む潔癖な悦子。

「ちょっと中身見るだけだって」
敦彦は靴下の結び目を解くと、靴下をひっくり返した。
中からジャラジャラと大量の小銭が落ちた。
小銭は地面にアラレのように降っては跳ねる。

「ねえ、母さん! 大量に小銭が入ってるんだけど」


「え?何それ。なんか気持ち悪い」
悦子は散らばる小銭を、初めて見る得体の知れない虫でも見るかのような目で見た。

敦彦は散らばった小銭の中から、大きなものを摘んで、じっと見つめる。
「この500円、見たことないんだけど。しかも、この元号何? 令和? だって」

「え。なにそれ。怖いわよ。偽造通貨? 犯人のなんじゃないの?」
「使えないって。意味の分からない元号の入った通貨なんて。おもちゃじゃない? あ、ほら、コインチョコも入ってるし。しかも粉々になってる」

「敦彦、そんなの捨てちゃってよ。そこの川に。それより早く戻ろう。幸子が心配」

「はいはい」そういうと敦彦は、地面に散らばった小銭をかき集めて、再び靴下に詰め、靴下を結ぶと目の前の川に小銭の入った靴下を放り投げた。

ぶくぶくと空気を吐き出しながら、靴下は小銭の重みで川の底へと沈んでいった。

「それより、母さん。明日は幸子の好きなメニューにしてあげなよ。あとケーキも。あそこのお店のチョコレートケーキね」
「わかってるって。お父さんにも相談して、明日からは時間がある人が幸子を迎えに行くようにしようね」

「もちろん。可愛い妹のタメだし」


川に投げられたコインの数。
1円1枚。5円1枚。10円6枚。50円6枚。100円20枚。500円10枚。

〆て221.75グラムと、一枚の粉々になったコインチョコレート。







🪙 2,983グラム

「幸子?幸子」
悟の声がして私は目を覚ました。

「幸子? 大丈夫? こんなところに薄着で座り込んで、何かあった?」
心配そうな悟の顔がぼんやりと見える。

「悟?」
急に体が冷えて、私はくしゃみをした。
悟は着ていたコートを私にかけた。


「なんでこんなところに?」
悟は心配そうに私の顔を覗き込んだ。


「悟こそ」
私が悟に視線を合わせて驚いたような表情を見せると、悟はほっとしたような顔をした。

「理恵ちゃんにやっと教えてもらったんだよ。理恵ちゃん、なかなか教えてくれなくって。私は幸子の見方だから!って。何度も電話してやっと理恵ちゃんのアパートにいるって教えてもらったんだよ。それで謝り行こうと思って」

「でもなんでここに?」
私が不思議そうな顔をしていると、
「いや、幸子がこの近くのお店のケーキが好きだって言ってたから」と、悟は少し照れくさそうに笑った。

悟の手には母が好きだったパティスリーの紙袋。
私はふっと笑う。

「ほら、立てる?」
悟に支えられて私は立ち上がった。

ショルダーバッグが肩からずり落ちる。
おっと、と思い、肩紐を肩にひっかける。
ショルダーバッグを整えると、鞄の正面にはナイフで刺された傷が入っていた。

夢じゃなかった。

私は鞄を開け、中を確認する。
誤配された新聞はやっぱりなかった。
ポケットの自家製ブラックジャックもなくなっている。

夢じゃなかったけど、全ては夢みたいに残像だけを残して消えていた。


私はカバンからスマートフォンを取り出して、画面を確認した。

令和X年2月12日。

現代だ。
間違いなく、今日に戻ってきたんだ。

結局、何もできなかったけど。

それでも何かやったんだという、そんな気にはなった。

ふっと風が吹いた。
風は冷たいけど、なんだか気持ちがいい。


私は悟に支えられながら、理恵のアパートへ戻った。

私たちは悟の買ってきたケーキを食べながら、お互いに離れていた間のことを話した。

悟はあれからあったことを、一部始終教えてくれた。

まず佐藤佑美が退社したということだった。
佐藤佑美がキャバクラで働いている際に知り合った男性と関係を持ち、その奥さんが興信所を使い、勤務先を特定して乗り込んできた。
みんな驚愕していたが、佐藤佑美は全く驚きもしていなかったらしい。
上司から色々と質問攻めにあった佐藤佑美は、副業や不倫を悪びれる様子もなく「じゃあ辞めます」とあっさりと辞めてしまった。

辞める時に悟は佐藤佑美に詰め寄り、写真を消すように言った。
「ああ、あれですね。消しますよ」と佐藤佑美はあっさりと写真を消して「臼井さんもLINEとか消しといてくださいね。奥さんに訴えられてもめんどくさいんで。それに臼井さんマグロだし。全然気持ちよくなんかなかったですから。つまんないセックスして、奥さんもかわいそうですね」と言い捨てて去っていったとか。

噂では乗り込んできた奥さんに訴えられて、多額の慰謝料を請求されているらしい。
悟は浮気したことには違いないからと、何度も謝っていた。

私は、あまりに不思議な出来事すぎて信じられないかもしれないけど・・・と前置きをして、この一週間のことを話した。

悟はとても驚いていたけれど「信じるよ」と言ってくれた。

気がつけば終電も終わっていて、私たちは薄っぺらい布団を二人で分け合って眠ることにした。
いつの間にか、薄い布団の中で二人の体温が混じり合った。



カタン、と音がした。
新聞受けに新聞が落ちる音。


あ、新聞止め忘れてた。


私はずり落ちた毛布を手に取ると、素肌に巻きつけた。
新聞受けから新聞を取り出す。


また、誤配?

日付は令和X年11月18日。
未来の日付。


私は天井を見た。



「迷わずに、進むね」




天井のシミが笑ったような気がした。












おしまい








あとがきあります。

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