『「金が無い。」2.0』
なんだかんだでお金が無い。
その確固たる事実を実感しながらも、「俺は今、猛烈に貧困している。」とは感じない。
脱貧困を志すなら、「消費」を無くせば良いはずだ、と思って生活している。
無い金で『spectator』を買い、無い金で美味しいご飯を食べ、無い金でDIYして、無い金で日ごろお世話になっている人たちのイベントに差し入れして、毎月末、対して出勤してもいないバイトの給料日まで、日数をカウントするのだ。
何度でも言うが、猛烈に金は無い、けれども日々の充足感はある。
お金って、なんなのだろう。
世界が猛烈に狭かったら、んー、四国が世界の全土なら、お金なんて無くても良さそうだ。「うどんとみかんの交換。」「倉敷でうどん作るから、高知にもあの町並み風の建物お願い。」
お金は無くてもなんとかなる道を探してみたい。
「僕コレできます。」「私コレできるよ。」持ちつ持たれつ、ニューギニアの「クラ」の様な経済圏。
「すごいじゃん。」が通貨になったら、ステキなんじゃ。なんて、私は夢見がちに思う。
多分、「お金」は、「答えに即時性を求める」ことと比例している。
センター試験みたいな「すぐに答えが出る問題」と、「お金が解決するコミュニケーション不要性」は似ている。
「もう、そういうの、やめない?」
私は、そういう雰囲気をなんとなく感じている。
ガンガン回せていけたらいい。
だから、この春休みシーズン、インスタグラムで目にする「皆の旅行ってます。」みたいなやつが好きだ。
見て食べて感じて話す。
人の根源にある感性への投資、若い私たちは、ガンガンやればいいな、って思う。
お金の代わりになるのは、
会話なんじゃないかな。
資本ってなんだろ。
コミュニティを作って、
ゆるやかで健全な依存関係の経済圏。
幾分、まだ答えは分からないけど、
そんな気が、ほのかにしている私だ。
「お金がないことの言い訳じゃーないよ。
いや、ほんとに。ほんとによ。」
「この話を今度丁寧にする代わりに、
ランチ奢ってよ。」ってことではないのよ。
「いや、ほんとによ。ほんとに。」
各人の内側に
「資本主義的な資本」も「投資」も混在しているのだから、これから始まる時代は、
どこまでも楽しくなるに違いない。
どこかで誰かが、
「パンのコラムを書くからパンをよこせっ
俺が書けば客は今高いキャベツとかその他野菜をもってくる。」
なんて豪語してるかもわからない。
いや、ほんとに、ほんとによ。
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