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私がヘッドホンをする理由。

今までSNS上で一切話さなかったこと。

前まで、日本中世界中、どこでも行きたいところに飛んでいくような旅人でした。
だけど今はヘッドホンがないと、信頼できる人が身近にいないと旅ができない。
大好きな人たちに会いにいくにも一苦労。薬とヘッドホンは絶対手放せない。

そうなってしまった経緯とこの半年間の私の闘いを、ここに残そうと思います。

期待と希望を胸に飛んだはずが

2021年7月7日、待望の日がついにやってきました。
マレーシアのカレッジに2021年1月進学して半年、ようやくマレーシアに渡航できることになりました。大好きな仲間にたくさん応援してもらって、笑顔で「行ってきます!」と飛行機に乗り込みました。あの時の高揚感は今でも忘れられない。

ただね、そんな私のワクワクは、
すぐに壊されてしまいました。

まさか私が、病院通いになるなんて。

ソレはすぐにやってきた

この時代、海外渡航は少しハードルが上がったと思います。PCR検査に14日間のホテル隔離。きっとこの隔離生活が私にとって最初の壁でした。

人の姿を完全にみることが無く、外の空気を一歳吸えない。大きな窓から見える異国の景色をただ眺める日々でした。ホテル自体はとっても快適な場所でした。ただその閉鎖感と、人の生活を一切感じられない14日間が、人と一緒にいることが大好きな私にとってダメだったんだと思う。

隔離ホテルの大きな窓から

隔離生活5日目、渡航してから1週間も経たないうちにソレ(異変)は訪れました。

夜23時ごろ、突然襲ってきた動悸、息切れ、吐き気、めまい、手の震え。
この症状が一度に現れました。文字にしてしまえば簡単なようだけれど、不規則にものすごく早く動く心臓と、うまく呼吸ができない恐怖、目が回って真っ直ぐ前を見れない、意志と反して震える手。
本気で「死ぬんじゃないか」と思いました。
でもこの隔離場には私一人しかいない。怖くて仕方ありませんでした。初めてのソレは30分くらいで収まりました。

異国の地に来たばかりで誰に助けを求めていいかもわからない。隔離もまだあと9日あるし…不安しかありませんでした。日本の友達に電話して安心しようとするけれど、スマホ越しの音声には人の温度を感じることができなくてもっと寂しくなりました。すごく心細かった。
「きっと気のせいだ」と言い聞かせて、1日のほとんどを眠ることにしたのでした。

2回目のソレがあったのは、隔離12日目。
「まただ…」
気のせいじゃなかったんだと絶望したのを覚えています。
でも明日で隔離は終わりだから、外に出られたらきっと大丈夫なはず!

ソレに名前がついた

外に出て、あこがれ続けたマレーシアに自分の足で自由に行動ができるようになりました。ロックダウン中ではあったけれど、毎日「新しい」の連続ですごく楽しい日々でした。寮で出会う新しい友達。食べたことない料理。

でもね、ソレがなくなることはありませんでした。なんなら、むしろ増えた。お陰様で1人でいることが怖くなった。だけど「初めまして」をしたばかりの友達に「助けて」なんて言えなくて。(普段から人に弱みを見せるのは苦手です)

その頃の様子を、「ハタチの夏」に書きました。
今までずっと下書きに隠していたの。

8月に入って、病院に行くことにしました。

いろいろな検査をして「一時的なストレスだろう」とのことでしたが、9月中旬まで同じクリニックに通って、勧められたのは心療内科の受診でした。

「え…?私が…?」

想像してもいなかった。私が精神的な病気?
戸惑いながらも紹介状で書かれていた大きなメディカルセンターに診察の予約をして、とてつもない緊張感と共に病院に向かいました。

その日告げられたソレの名は、Panic Attack. 日本でいうパニック障害です。

パニック障害
突然理由もなく、動悸やめまい、発汗、窒息感、吐き気、手足の震えといった発作(パニック発作)を起こし、そのために生活に支障が出ている状態をパニック障害といいます。
このパニック発作は、死んでしまうのではないかと思うほど強くて、自分ではコントロールできないと感じます。そのため、また発作が起きたらどうしようかと不安になり、発作が起きやすい場所や状況を避けるようになります。とくに、電車やエレベーターの中など閉じられた空間では「逃げられない」と感じて、外出ができなくなってしまうことがあります。
厚生労働省

笑顔と明るさが自慢の私が、こんな障害と付き合うことになるなんて。毎週金曜日の病院。発作止めや精神安定剤など増えていく薬。
ものすごくショックでした。でもあんなに笑顔で見送ってもらった友達に「実は病気になっちゃって」なんて言えないし、親に話したら絶対心配されて「日本に帰っておいで」って言われるんじゃないかって。まだ来たばっかりなのに。すごく苦しかったです。マレーシアで出会った友達はみんな優しい人たちだけれど、いくら信頼している人にも自分の弱みを見せるのが苦手な自分にとって、心のうちを曝け出すことはできませんでした。みんなにひかれるんじゃないかと思ってしまって。

そんな私が始めたことはリスカでした。もう鬱です。行き場のない心の痛みを自分の左腕に移すみたいに、毎日毎日刃を手にしていました。そうすることでしか自分を保てなかった。必然的に長袖を着続けるかアームカバーを左腕につけて生活していました。同じ寮生活をしていた仲間には、きっと感づいていた人もいると思う。

パニック障害はというと、週1の病院通いを始めてもひどくなる一方で、多いときは1日に3回も死にそうな恐怖と闘っていました。発作の時は完全に正常な判断を失って過剰に薬を飲んでしまう。一人でいることが怖いくせに、みんなといると迷惑をかけてしまうというギャップに苦しんでいました。みんなで映画を見たり、夜ご飯を一緒に食べたりしている中で一人倒れてしまう。助けてもらって自分の部屋に帰るけれど、その一人の空間に耐えきれずに涙が止まらない。病院で処方された精神安定剤、効いているのか全くわからなくて、助けてくれる友達への感謝と申し訳なさの間で言葉にできない苦しさを感じていました。

今までできていた「当たり前」が、急にできなくなる。
いろんな刺激に敏感になって、少しでも大きな音が怖い。レジに並ぶのができない。エレベーターで緊張する。一人でタクシーサービス(車社会のマレーシアでメシャーな足です)を利用できない。外出自体、誰かと一緒じゃないと怖い。一人の時に発作が来るのが怖いから、夜は寮のラウンジで横になる。できるだけ遅くまで友達と一緒にいる。

そんな生活だからカレッジの勉強もままならないことが多く、課題を提出期限内に提出できることの方が珍しかったです。

ご飯もまともに食べれないことが増えて、出国時よりもあっという間に7kg減っていました。

細くなっていく腕

担当医にはずっと休学を勧められていました。カレッジ後のユニバーシティも、入学時期を遅らせるべきだと言われ続けました。それが悔しくて、改善しているふりをしたり。でも見抜かれて怒られたり。

いろんなことがうまくいかない中で、人間関係も関わり方を間違え始めました。咲和を守ろうとしてくれている友達を自ら遠ざけてしまったり、今思うと絶対に信頼しないほうがよかった人を完全に頼りにしてしまったり。いろんなことを間違えました。

ようやく、自分と向き合う決意をした

いろんなことが限界を迎えて、もうどうしていいかわからなくなってから早2ヶ月。毎日毎日繰り返すリスカと、苦しみから逃れたい一心で「死にたい」と本気で思いました。気づけば寮の中庭で2時間号泣していました。偶然その場に来てくれた友達に、全部全部吐き出していました。止めることはできなかった。
その時、優しく話を聞いてくれて、「咲和は強いよ。私たちの何倍も頑張ってる」と声をかけてくれたことが、自分の中で起点になりました。自分が安心できる環境づくりを頑張ってみようと。

まず、親に話すこと。お母さんに電話しました。絶対心配されていろいろ聞かれるんだろうな…。重たい気持ちで、寮に住み着いている子猫を抱えながら電話をかけました。
「なんね、そうやったとね。」
思った以上にあっさりしていて驚いたけれど、そのおかげで「ああ、話しても大丈夫なのか」と思えました。

次にしたことは、同じ寮で生活している友達に、自分の現状ともしもの時の対処法を伝えること。伝えることはものすごく勇気が必要で、震える手でLINEを送りました。「話してくれてありがとう」その言葉に救われました。みんなには寮でも大学でも、いろんな場面で私のピンチを助けてもらいました。すごく感謝でいっぱいです。この恩をどんな形で返すべきかいまだに迷っているくらい。何度も何度も助けてもらいました。「先生に咲和の話しといたから」って同じ授業を取っている友達が教えてくれた時は、思わず涙が出ました。本当にありがとう。

そうして、少しずつ「今の自分にできること」を増やしていくことができました。ほんの少しの変化でも、できることが嬉しかった。初めて友達と一緒に少し遠出をして夜景を見に行った日。一駅分くらいなら一人でもタクシーに乗れた日。

そして、ヘッドホンという、今の私の最強の相棒を手にした日。大きな音がパニック発作の引き金になることが多くて、トラウマを抱えていました。そんな時、友達のヘッドホンを使ってみて「これだ」って。機械に強い友達にノイズキャンセルがすごくて日常的にも使いやすいヘッドホンを選んでもらいました。そのヘッドホンのおかげで、外出が楽になったり、発作中も大好きな音楽に意識を向けることで早く発作を落ち着かせることができたり。

差し伸べられた手

できるようになったこと、できなくなってしまったことの間で一喜一憂を繰り返す毎日。そんな私に、リスカをやめるきっかけが訪れました。お互いの辛いことを涙ながらに共有して、心底仲良くなりたいと思った子。会ってまだ2日くらいなのにリスカのことを告げました。「辛かったよね。リスカを止めてなんて私には言えないけれど、いっぱい頑張ったんだよね。」
今まで、Don't do that, please. と友達に言われ続け、リスカに使っていた刃を勝手に隠されて、「うるさい!私の世界に介入してこないで!ズカズカと私の心の中に踏み込まないで!」と、心の中で叫んでいたから、リスカを続けてしまう自分を「否定」ではなく「受け入れて」くれたことがとても嬉しかったんです。

「少しずつでも、一緒に頑張ろう」

私は、その差し伸べられた手をしっかりと握りました。

広がる世界

その手と相棒のヘッドホン、お守りの薬があれば、もっといろんなことに挑戦できるようになりました。キラキラな街に遊びに行ったり、片道30分以上タクシーに乗って海に行ったり。

大好きなマレーシアの空


マレーシアに来てから寮とカレッジの往復以外しなかった自分には、想像もできないほどの成長でした。一緒にたくさんの挑戦に付き合ってくれてありがとう。
日本に帰る飛行機はとっても大きな挑戦だったけれど、その成功体験があったから頑張れた。そのおかげで日本一時帰国中の今も、前みたいに大好きな旅をできているんだと思う。


まだ終わらない闘いだけれど

まだパニック障害は完治したわけではないし、ここに書いてはいないけれど大変なことはまだまだたくさんありました。睡眠障害とか、マレーシアで緊急搬送されたこともあったり。今日本で旅をしている最中にもいろんな人に支えられています。楽しい時間と悔しい想いの間で、いまだに闘っています。でも、どん底を知ったおかげで、どんな小さなことにも「幸せ」を感じることができるようになりました。パニック障害にならなかったら気づけなかった想いもたくさんあります。まだ薬とヘッドホンは手放せない。いつそのお守りとバイバイできる日が来るかはわからないけれど、私を大切にしてくれる人たちと、一生懸命生きている自分自信を信じて、baby stepでも前に進み続けようと思います。
次にマレーシアに戻った時は、もっともっと「新しい」に挑戦するんだ。

最高マックス、ありがとう幸せ。


まだまだ未熟で無知な若者だけれど、そんな私でもできること、私にしかできないことがあると信じて前に進み続けます。よろしければ応援お願いします。