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どこで死ぬか

2022年春、まだコロナの影響が残るドイツを7年ぶりに訪れた。
その時に感じたのはほのかな後悔と、思った以上に強いノスタルジアだった。

どうやら私はこの国に住みたいと思っているらしい。
そんな自分に気づいて驚くと同時に、襲ってきたのはものすごい「恐怖」だった。

もう一回ドイツに住みたい、と思っている。
どうやって?仕事は見つかる?家は借りれる?・・・そして何より私の頭を占めたのは、私はどこでどうやって死ぬの?という問いだった。


今から考えれば、あまりに飛躍していてびっくりする思考回路なのだが、当初は本当にそのことを一番心配していた。年金はどの程度もらえるのか、死ぬ直前に母語ではないドイツ語をきちんと話せているのか、生活に困窮したらどうしたらいいか・・・私の不安は今ではなく、ひたすら「いつか死ぬ時」に向かった。

おそらくそれこそが「不安」の「不安」たる所以だろう。
身近な、すぐにどうにかできることではなく、遠い未来の、どうにもできないことで悩むこと。心配と不安の違いはそこにあるのだと思う。それを、ただの杞憂だと切り捨てることもできる。

一方で、いつか来る未来に備えて、どこかで「選択」が必要になるのもまた事実である。

初めて記事を読んだ時から、ずっと虜の由。さんの文章を読んだ時にも、まさにそれを感じた。「暮らすこと」「生きること」って、そうそう簡単なことではないのだ。それが異国であれば、尚更。

だけど、まだ来ていない未来の不安のために備えることだけが人生だとしたら、そんなのはつまらなすぎる。生きているうちにしか、感情は感じられない。死ぬ時に持っていけるのは思い出だけだ。仮にその時もう私の記憶力がもたなかったとしても、いや、もたないとしたら尚更、今だからこそ感じられる感情を感じなくては、生きている甲斐がないではないか。

何が幸せだとか、どうなりたいかということ自体、自分にしか決められない。
私は一体どこで、どうやって死にたいのだろう。そんなことを考えるようになった。


2022年に一度「決心」した移住の夢は、2023年にかなり停滞した。
家族をめぐるドタバタに気を取られていたが、きちんと犬と父を見送れたことは満足している。でも、毎日生きることに必死すぎて、自分自身の今後について考えている余裕はなかった。

なんとか生き抜いて、そうして2024年3月、私は再びドイツに戻ってきた。
移住ではなく、3週間弱の出張だが。

それでも、2023年には実現の難しかった長期出張である。
ほぼ何も考えられなかった一年を経て、今の自分が何を感じるのか、久しぶりの長期フライトは不思議な気持ちで過ごした。

というわけで。
金曜の仕事後に空港に向かい、実は土曜日からベルリンで過ごしている。
自分が何を感じるのか、来る前は想像もできなかった。今でも、まだ掴みきれていない。あと2週間ほどの滞在で、自分の気持ちがどこに向かうのか、わかったらいいなと思う。

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