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「わたしは仕事ができない」と自覚したい:仕事人としての段階(3/6)【さらば、noteを書く理由(10)】

1、2はこちら。

それなりの実力と経験を積んできた……はずだった

それまでわたしは仕事の上で、あまり低い評価を受けたことがありませんでした。
もちろん自分が並外れて優秀などとうぬぼれたことはありません。ただ、創作を続けるために、一定以上の成果を出し続ける必要があると考えていたわたしは、おそらく周囲よりはストイックだったのでしょう。

仕事の内容としては、広い意味でずっと「企画」をしてきました。
働く部門や拠点、厳密な意味での職種は何度か変わり……商品の企画をしていたこともあれば、新規事業の企画をしていたこともあります。後者のときは仕事の性質上、営業も行っていました。
首都圏でも地方都市でも働きました。担当もリーダーもマネンジメントもやりました。退屈が嫌いなわたしから見て、そこそこ「いろいろやったなあ」と思います。それもころころ変わったわけじゃなく、どれも腰を据えてやれた実感があります。

だからまあ、世の中的にめちゃくちゃ優秀な仕事人ではないにせよ、「創作を続けるために仕事をしている人間としては、わりとよくやってると言ってもいいんじゃないかなあ」と思っていました。

そしてそれが救いようのない勘違いだということを、思い知らされることになるのです。

大人になってから、初めて本気で叱られた

数年前、わたしはさらなる「実力と経験」を求め、とある社外の師匠に弟子入りしました(リアルでそういう言葉を使ってはいないのですが、この言い方がしっくりくるので便宜上)。

なんの弟子かというと、平たく言えば「経営と戦略」です。
わたしは経営者になりたいわけではないのですが(経営とはビジネスに人生を懸けるひとだけが手を出していいものだと思っていたので、創作に人生を懸けると決めたわたしには無理だと考えていました)、一介の仕事人であっても、経営や戦略を学ぶことには意味があると考えました。

もう、この気構えの時点でなにもかも間違っていたのだと思います。
そんなに甘いものじゃない、ということはすぐに解りました。

師匠が説く内容は、いつも聞けば「当たり前」で解りやすいものでした。
ですが、裏腹にそれを「実践してみる」という段になると全く上手くいきません。

「なるほど!」と思うのに、やってみると「あれ……?」となる。
「解る」と「できる」には雲泥の差がある……という話ですらなく、やってみた結果「本当は理解できてなかったんだ……」と思い知る日々が続きました。

仕事を辞めて弟子入りしたわけじゃないので、教えを受けながら並行して仕事もしていましたし、創作もしていました。極めて難易度が高いことに挑んでいるのに、十分な時間を費やせないわたしは、知らず知らず手を抜くようになっていきます。
そしてある日師匠にそれを見破られ、面と向かって叱られました。

大人になってから、初めて本気で叱られたと思います。
いやもちろん、それ以前にも仕事を教えてくれた先輩や上司にたしなめられたり、取引先にお叱りを受けたことは何度もあります。

怒られたことならさらに数知れません。
特に、そのとき直属の上司だったひとは(わたしの感覚では)パワハラ気味で、理不尽さを感じるような小言や嫌味を日常的に喰らっていました。

だからわりと、わたしは誰かに叱られたり怒られたりすることには(悪い意味でも)耐性があるのですが、ここで強調したいのは「本気で」というところです。

どのくらい本気だったかというと。
夜から、朝方までぶっ通しで叱られました。

ひとがひとを変えることはできないと言っていたひとの本気

長時間が「本気」のバロメーターだと言うつもりはありませんし、師匠の行為を手放しで肯定する気もありません。正直わたしは、師匠を異常なひとだと思っています。

その師匠は以前、「ひとがひとを変えることはできない」と言っていました。

「人間は誰でも"自分の価値観"を両手で握りしめて、大事に胸に抱えている。だから他人が違う価値観を押し付けても、両手が塞がっている以上、絶対に変えることはできない。むしろ余計に"自分の価値観"を握りしめる力が強くなるだけだ」

そしてそれから、こんなふうに続けました。

「可能性があるとしたら、"違う価値観"をそのひとの目の前に置いて、興味を引き出すことだ。興味を持って手を伸ばしてきたら、そのとき、そのひとの"自分の価値観"を抱えている手はひとつになる。さらにそのひとが"違う価値観"を手に取って、吟味して、『やっぱり要らない』って手を放すことも十分ある。そこで"自分の価値観"と『交換しよう』ってなると、初めてそのひとの価値観は変わる」

だから「変わるべきときは、そのひと本人が決める」というのが師匠の持論でした。この話は、それまでの人生で幾度となく「ひとを変えられなかった」わたしとしては、深く心に残る教えでした。

その師匠が、日が変わっても延々説教を続ける姿に、わたしは大きな矛盾を感じました。確かに自分にも非はあったかもしれないけど、言っていることとやっていることが違うじゃないかと、反発する思いがありました。

言っていることは解る。だからもう勘弁してほしい……と、自分が悪いことは棚上げし、内心早く終わらないかと思っていたのです。

わたしが非を認めてからも話は続き、結局朝方になってようやく解放されました。


それから数日後のことでした。
わたしが、とんでもない思い違いをしていたことに気付いたのは。

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