【118球目】なんで変われた?
三陽工業は、元々明石にあった小さな会社です。
どこにでもある地域の特定の大企業に依存した、よくある会社でした。
そんな会社は、この日本全国に山ほどあると思います。
そんな会社の特徴は、変われないこと。
変われないし、変わらないんです。
それが良さと感じてもらえる人もいるかもしれませんが、今のご時勢、それでは生き残ることができません。
では、なんで変わることができたのか?
リーマンショックがあったからと言ってはいますが、その中での自分自身の思考と行動を少し振り返ってみたいと思います。
リーマンショック前の思考と行動
三陽工業に入社した直後は、「何かを変えよう」と考えていました。
ただ、いきなりそれをやっても難しい。
まずは、私自身が三陽工業を理解する必要があると感じましたし、その中で様々な気付きもあるはずだと考えていました。
なので何かを変えようと思いながらも、具体的な行動は起こしていません。
ただ、当時のことを振り返ると、物流部門の責任者の方はとても考え方が柔軟で、今も継続している構内作業に対しても迅速に柔軟に対応していました。
構内作業とは、簡単に言うと突発に発生する依頼に対して、その日中に作業対応を行い、数時間から数ヶ月の期間で作業完了まで持っていく仕事です。
ですから対応していくことが、そもそも変化への対応でした。
それ以外にも、川重明石工場の溶接部署に対しての初期導入教育を自社の研磨工場の一部を使ってやりました。実際に溶接機を準備し、端材を持ってきて、全くの未経験者がそこでトレーニングを行う。
そのトレーニングを実施したのちに、配属へとつなげる。
働く社員は未経験での不安を少しでも解消できますし、実際に数十名がそのルートで溶接職場へと配属になりました。
川重明石工場という限られた世界ではありましたが、その中で働く人に、川重明石工場に対して価値を提供するにはどうすれば良いかは考えて行動していました。
が、それを川重明石工場以外でやろうとは、その時点では考えが至りませんでした。
特定の企業への依存は危ないと分かっておきながら、動けなかった状態。
それが正しい表現だと思います。
リーマンショックの時
あの時の恐怖。忘れもしません。
会社が無くなるかもしれない。本気でそう思いました。
そこまで言って動かない人はいないでしょう。
今まで自分の中に溜まっていたものが全て外に噴出した、そんなイメージです。
変わらないといけないと思いながら変われていなかった状態が、そこにはありました。変わりたいと思いながらも、具体的行動へと繋がらなかった、そんな状況がそこにはありました。
そして、リーマンショックの時に、その思考が行動へと繋がります。
もしも、変わりたいと思っていなければ、変わっていないでしょう。
そのままでいいやと思っていたならばそのままでしょう。
今の三陽工業はこの世界に存在していません。
そんな世界線が、この世のどこかにあるかもしれませんね。
最初は思っていただけ。
それが少し強く思うようになったけれど、具体的な行動へと至らなかった。
リーマンショックがトリガーになって、その思いが想いへと変化し、その想いがより強くなっていき、具体的な行動へと繋がっていきました。
三陽工業に入社した時から、やる気は持ち合わせていました。
その気になったのは、リーマンショック直後からです。
それからずっと、その気になっているままです。
強く想えば行動へと移すことができるという経験が習慣になり、今はもうそれが当たり前になっています。
前へ進んでいないと、逆に不安になります。
変化していないと、とても怖くなってきます。
1回それを経験してみると、実はとても簡単であることにも気づきました。
でも変化する時は不安になります。
だからこそ生まれた言葉。
「やったことがないことをやってみよう」です。
そんな想いを持ちながら、今日も変化していきます。
本日もありがとうございました。
明日もよろしくお願いします。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!