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障害の「超社会モデル」または「脱社会モデル」?

インペアメントとディスアビリティ
どちらの概念も日本では明確に別けて考えられることが少ないと思いますが、本来はインペアメント=身体的機能の特徴、ディスアビリティ=社会的環境による障壁といった意味を持っています。

自己理解や支援をする上で「個人の努力で克服するもの/社会の責務として解決すべきこと」といったように別けて考えるととても合理的で、障害者の社会生活が円滑になり自立に役立つ機能は確実にあります。

しかし、精神・発達障害においては、インペアメントとディスアビリティを別けることが難しいと思います。身体障害のように「特定の当事者の障害は社会的環境による障壁によるものであり、変わるべきは社会の側である」と判別できないところがあり、社会モデルが機能しないことがあります。(※ディスアビリティが解消されてもインペアメントが消えるわけではないことも重要な視点です)

機能しないどころか、発達障害によるとある困難をインペアメントに起因するものとして当人が自覚した場合、その自覚自体が「マジョリティの価値観ベース」によるものとなってしまっていることがあります。本来、ディスアビリティかもしれない障害までもがインペアメントであると自他共に判断した場合「変わるべきは障害者の側」となり、当事者は「克服できないかもしれないものを克服しようとする徒労」を負うことになりかなり危険だと思います。なんなら社会にとっては好都合とも言えると思います。

もし、発達障害当事者が特有の文化を形成している(または形成できる)のであれば、特有の文化圏ができて、マジョリティ文化を認めつつ自立して生きられるコミュニティを構築する方が合理的ではないでしょうか。

当事者団体はもしかしたら、医療にも福祉にも描けない、自ら(または自分たち)を主体とした新たなストーリーを描けるかもしれません。
属す当人が別に描いてなくたっていいし、属す資格が必要というわけでもありませんが、属して楽ならきっと属すでしょう。
そのストーリー実現に向けて挑戦することの価値は、当事者だけでなく非当事者にも有益なものであると思っています。
社会学の専門家から助言を頂戴したいけどあてがないので独学でがんばるか。。。

だからやっぱり「変える」ではなく「つくる」がいいと思うんだが…
超社会モデルとか脱社会モデルとかどうかな…

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