見出し画像

祈りは共同体を面で包摂する?

蚕都Grantsを始動して以来、情報入力が多すぎて処理が追いつかず取りこぼしながらも衝動と脳汁ニトロでオーバーヒート上等!で走り続けてきたような気がします。
喋るなり書き出すなりして反芻して体系化したいのですが、なかなか時間がとれませんでした。
そして今、インフルエンザ感染による家族の入院の付き添いであらゆる仕事がキャンセルになったのでおかいこさんフェスティバルを回想しています。

蚕業遺産の展示の中で養蚕にまつわる「信仰」をテーマにしたコーナーがありました。そこで考えたことを忘れないようにメモしておきたいと思います。

・想像したこと
共同体成員をつなぐものの一つに「祈り」の共有があった。村あげての養蚕には、同じ厄災を畏れ、同じ超越的なものに祈り感謝するという過程があり、それが共同体を共同体たらしめていたのかしら?
点と線モデル
「理念・規則・規範」)(課題意識)の共有による繋がりは共同体成員人口が増えると汎用性が上がるため個々への親和性がおちる。限定される属性が多いためか包摂する領域が狭い?結びつきは強いが排他的になりやすく範囲も限定的かしら?
・面モデル
一方、(カルトを除く)共同体における「祈り」の繋がりは、個々に自分なりに理解した超越的な存在の意思(つまり自分の意識)によって汎用性も親和性も決定される。よって、その度合いは安定しない。がゆえに信仰の強弱は成員間で共有する必要がない。かつ、属性の縛りは緩く包摂する領域は広くて多様性を受容しやすい?

以上メモでした。

以下、雑考。

ウェルビーイング×おかいこさん×地元のお寺
みたいなイベントとかやってみたいな。
にわか仏教哲学ファンとしては、仏教が葬式仏教と揶揄されるのはなんだかモヤっとする。今ここからが仏教の真価が問われる時代になっていくのだろうと思ってみたり。

おしまい

私たちの活動に興味を持ってくださった方は、ぜひサポートをお願いします! 蚕都Grantsは精神・発達障害者の「経済的自立」を目指しています。頂いたサポートは、プロジェクトの活動資金にあてさせていただきます。