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暮らしは虚しい



先日、街中で通りがかった普段なら決して入らないような店で、意識の高いランチを食べてみた。別に急に意識が高くなったわけじゃない。二日酔いで優しいものしか受けつけない体だっただけである。
とはいえ、その手の意識に、なんら親和性を感じないというのも嘘になる。
温かみを演出する店の意匠。そこに流れる、民藝的美意識とでもいうようなもの。それには身に覚えがある。古道具坂田でも生活工芸でも無印良品でも丁寧な暮らしでもクウネルでもなんでもいいが、そういったものの周辺。そこで俺も器を買ったり、本を読んだりしている。
1、2年ほど前からそうした趣味に淫して、列挙したそれらの概念に差異があることを知識としては知ったが、今でも野暮天の俺の目にはおおかた同じものとして映っている。要は、目の前の暮らしをまず肯定するための美意識。その店は「そういう雰囲気」を強く放っていた。

料理はどれも素晴らしく美味しかった。
馬鹿舌なので詳しいことはわからないが、とにかく野菜も自炊も嫌いで普段はジャンクフードばかり食べている俺でもパクパク食べられたのだから、よほど美味いことは確かだ。少なくとも、メニュー表から店の壁の貼り紙まで至るところで強調されている自然派食材を、素朴なまま突き出すのではなく、商品として成立させるため、繊細な工夫が為されているはずだ。そうでなくては俺のような者に食えるはずもない。
値段は千円ちょっと。特段高くはないが、安くもないだろう。自然な食材を使用していることと併せて、いかに健康に留意した献立であるかを謳う文字がメニューのあちこちを飾っている。契約農家から仕入れた食材による、体にやさしい、手づくり家庭料理。
広い意味で「自然さ」を誇るこの料理を、千円ちょっと払って食べることに俺はどこか奇妙さを覚えながら箸をすすめた。
店のテレビではミヤネ屋が点いていて、コメンテーターが統一教会を糾弾していた。

富岡多惠子のあるエッセイに、食通(その多くが男である)の躁的美文に鼻白む、というような文章がある。
どうしようもない覚えの悪さで、題さえ忘れてしまったのだが、料亭の飯にああでもないこうでもないと昂奮する食通たちの空騒ぎに、鋭い舌鋒というよりはただ白けた視線を向ける、その文章の気配はよく覚えている。
そこで富岡は、ある書籍を、彼らの文章と対置して称揚する。その書籍の名もまた忘れてしまったのだが、それはたしか、長く台所に立ってきた高齢女性からの聞き書きによって、各地方の家庭の食卓にのぼってきた料理を、ひいてはその土地に息づく食生活を、淡々と記述したある種の生活誌的なものであった。つまるところ富岡は、より正確に言えば俺の記憶の中の富岡は、芸術的食事に対して「暮らし」を肯定したのだった。
温かみに溢れた店内で食事をしながらまず思い出したのは、富岡のこの文章のことだった。
富岡ならなんと言うだろう、と思ったのだ。
誰の舌にも合うように整えられた、商品としての「自然」を、この不自然な「自然」を目の前にして。

丁寧な暮らしへの嘲りは、そのほとんどが自意識を嗤う自意識という稚気以上のものではないように思えて、特別の関心はない。
しかし以前、ツイッター上で一度「ただの家事じゃないか」という言葉を見かけたことがあり、これだけは深く記憶に残っている。
丁寧な暮らしという美意識は、それを詐術だと頑なに嗤う者が思うほどには、人の真情から遊離していないだろう。それを嗤う者のほうがむしろ何らかの詐術にハマっている。その詐術の名前は資本主義だろうか?
俺みたいなものには見当もつかないが、いずれにせよ、貧しさの言い訳だと言い張りたがる者は、豊かさを、求めているというよりは求めさせられているように見える。踊らされているのはどちらだろうか?
それよりも、単なる生活だ、という指摘のほうが、本質的な批判である。
暮らしそのものの肯定が、いつしか暮らしの商品化へすり替わってしまっている。
食事を終えて店を出た時、表に貼り出してあったメニュー表を改めて眺めていると、ダイエットの観点から購買意欲に訴求しようとする文言が多いことに気づいた。健康とダイエットは、必ずしも矛盾はしないだろうが、しかし決して同義ではないはずだ。
素朴な器に盛られた色とりどりの料理の写真と、ダイエット効果を謳う文言。その光景が、商品と化した自然が、他者に見られる体へ寄せる共感のように見えて、痛ましかった。
暮らしの美学の形骸化は如何なものか、などとは思わない。そもそも俺も、それが商品でなかったならば、惹かれはしなかった浅ましい人間の一人である。
暮らしは虚しい。どうしようもなく虚しい。その虚しさに耐え得ない俺が、何を、誰をあげつらおうか。
俺は馬鹿舌のくせに美食の真似事をしたがる男で、有り金のほとんどを飲食に使ってしまう。自分の行った店は逐一記録しているのだが、再訪しようと思って忘れた店名なんかを調べようとそのリストを繰るたび、どれだけ飯に金を使っているか痛感して卒倒しそうになる。
飯を食うことは虚しい。食っても食っても、またどうせ腹は減るからだ。虚しく、きたならしい。そのことから目を背けるように、より工夫された、より奇異なる味を求めてさまよう。
あらゆる暮らしの美学は商品化してゆく。然り。だからこそ俺のような暮らしそのものに耐え得ない者にも悦びなのである。

最近、結びの似た二つの文章を読んだ。
一つは三品輝起『すべての雑貨』。読んだばかりなだけにこれは題もちゃんと覚えてる。
雑貨屋を営む著者が、物たちが背負う歴史を洗い流されて「雑貨」へと鞍替えしてゆく世界を、静かに観測するエッセイ集だ。軽やかな消費のサイクルと化す世界に、他でもなく雑貨を売る当人として煩悶するこの本は、雑貨の虚しさにむしろ安住するかのような文章で結ばれる。
もう一つは小林秀雄の『骨董』。骨董の魔性について書かれたものだが、使用という側面が痩せ衰え専ら鑑賞されるための観念的な美としての近代的芸術(とその尻を追う現代人)を冷淡に眺め、この克服し難い病に侵された我々の日常の滑稽さは、骨董を弄るという一種の悪徳ぐらいでしか痛感さえできないと洩らし、この文は結ばれる。
いずれも、もはや致し方ない光景を前に、颯爽と希望を紡ぐのではなく絶望に立ち止まって、それを諦念めいた静けさへ磨き上げようとするかに見える。
昼食をとった後、そもそもの用事のために家具屋の集まる辺りに向かって歩いた。俺もそういう心持ちになれるだろうか、と思った。信号待ち、食後の一服、煙草をぼんやりと吸う。
引越し前に、ほとんどの家具を処分したのだった(と言っても狭い部屋だったから大した荷物もなかったけれど)。その買い直しのために、近頃は家具屋から古道具屋、果ては手当たり次第に蚤の市まで駆けずり回っている。前は、安さだけを重視して家具を選んだから、今度は本当に美しいと思える物だけを集めてみたい。
そうやって、洗練された場所に置かれた、洗練された物たちを前にして、自分の眼をうんと働かせ、より美しい物を選び取ろうとする瞬間。心いっぱいに広がる悦びの片隅に、仄かな後ろめたさの滲むことが稀にある。
両親兄弟との不和を抱える一人の知人が、実家には自分の荷物は何一つないと言っていたことを、ふと思い出すのである。一度家を出て暮らした、その間に全部捨てられてしまったそうだ。卒業アルバムも、幼い頃に大事にしていたぬいぐるみも、何もかも。
夥しい物を、選び、排し、集め、そうやって一喜一憂している瞬間に彼の話を思い出すといつも、自分はなんてくだらないことをしているんだろう、と全身の力の抜けるような気がする。
家具屋への道中、煙草の香りと混ざりつつ、口に昼飯の味が残っていた。
なぜか俺は、彼の寂しい話がふと鮮やかに蘇る瞬間の、言いようのないあの虚しさで体じゅうを満たしたくて仕方がなかった。
虚しい物を買いたい、と思った。



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