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木曾義仲が嫡男義高を頼朝に預けた真意

2022年4月3日(日)、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第13話「幼なじみの絆」が放送されました。

ここ数回、結構、歴史事象をギュッと詰め込んで、その他の人間ドラマに時間を割くケースが見受けられますが、今回もそんな感じでしたね。

それでは行ってみたいと思います(どこに?)

源氏の問題児・源行家三度目の登場

これまでの流れから墨俣川の戦いをアッサリ流したので、源行家(演:杉本哲太)は、あの敗戦からすぐに源義仲(演:青木崇高)のところに泣きつく流れにするのかなと思っていたら、ちゃんと鎌倉に「おねだり」にきましたね。

頼朝「今更所領をくれと言われても」

行家「ワシはこれまで平家と11度戦い、8度勝ってきた」

義時「こちらの調べでは8度戦い、6度負けております」

行家「……兵衛佐、国の1つくらい差し出すのが筋である」

盛長「国?」

行家「もとはと言えば、ワシが御令旨をもたらしたのだぞ」

頼朝「では言わせてもらいますが、あなたは弟・義円を巻き込み、敵に無謀な戦を仕掛け、義円を死なせた!」

行家「……」

頼朝「はっきり申し上げる。金輪際、この鎌倉に足を踏み入れないで頂きたい!さらばでござる」

『鎌倉殿の13人』第13話「幼なじみの絆」4:24頃から

上記のやりとりは『源平盛衰記』巻之二十八「頼朝義仲中悪事」に書かれていることが元になっています。

墨俣川の戦いで敗れ、その後、熱田神宮(愛知県名古屋市熱田区)で勢力を立て直した行家は、矢作川(愛知県)で再度平家の追討軍と戦いますが、ここでも敗れて相模に落ち延びて頼朝を頼っていました。

頼朝(演:大泉洋)としては異母弟・義円(演:成河)を殺されているので、決して平穏な気持ちではないと思いますが、叔父・甥の関係から、とりあえず生活が成り立つように相模国松田郷(相模国足柄上郡松田町)にあった大庭景親の屋敷に住まわせています。

ところが行家はそれに飽き足らず、自らが兵馬を養える領地を要求するわけです。

頼朝はこの当時、上総、下総、安房、常陸、武蔵、安房、相模、駿河の八カ国を従えていたはずですが、御家人としての働きもない者に一国与えられるはずがありません。

頼朝の拒絶は当然でしょう。
そして行家は頼朝を見限って、すでに信濃に勢力を張っている源義仲(木曾義仲)を頼ることになります。

信濃源氏・源(木曽)義仲

木曽義仲(演:青木崇高)
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源義仲は、源義朝の弟・義賢の子です。すなわち頼朝の従兄弟にあたります。

義仲の話をする前に、父親である義賢の話をしなければなりません。

源為義(頼朝と義仲の祖父)為義の嫡男・義朝(頼朝の父)の間に亀裂が生じ、父を見限って東国に向かった義朝は、相模国鎌倉を本拠としました。

そして各地の豪族間の土地をめぐる争い(相馬御厨、大庭御厨)に介入し、その結果、豪族たちの信頼を得て、東国に独自の勢力を築いていきました。

これを恐れた為義は、義朝を牽制する目的で次男・義賢を上野国に派遣しました。これが義仲の父です。

義賢は武蔵国で最大の軍事力を擁する秩父平氏棟梁・秩父重隆の娘と結婚して武蔵国の勢力を加え、上野国、武蔵国の両国の勢力を掌握しました。

当然、隣国である相模国の義朝の勢力と接することとなり、両者の衝突は時間の問題でした。

1155年(久寿二年)8月、義朝の代理として相模国の勢力の統括していた源義平(頼朝の兄)が、義賢の住む武蔵国大蔵館を急襲し、義賢と秩父義隆を殺害しました。

この時、義賢の遺児・駒王丸は、義平から殺害命令が出ていたにもかかわらず、秩父重隆の甥の畠山重能(畠山重忠の父)の手で命を救われ、斎藤実盛の手を経て中原兼遠(駒王丸の乳母の夫)に預けられました。

この駒王丸が後の源義仲になります。

挙兵

義仲の初の軍事活動は1180年(治承四年)9月7日の「市原合戦」です。

この戦いは、平家側の豪族・笠原頼直(諏訪氏庶流/信濃国伊那郡笠原の領主)源氏方の豪族・村山義直(信濃源氏・井上氏一族)らが、信濃国水内郡市原(長野県長野市)で武力衝突した戦いです。

この戦いの最中、義仲は義直から援軍を請われ、手勢を率いて途中から加わったところ、「これはかなわん」と思った笠原勢が撤退。そのまま越後の城助職(越後平氏棟梁)を頼って落ち延びました。

翌1181年(治承五年)6月、前述の城助職笠原頼直の連合軍約10,000騎が信濃に侵攻してきました。

義仲は父の旧領である上野(群馬県)、自分の本拠である木曽(長野県南西部)、同じ源氏一族である平賀義信ら佐久(長野県佐久市)の勢力を集め、3,000騎でこれを迎え撃ち、見事撃退に成功します。

さらに義仲は越後国府を襲撃。助職を会津に引き退かせて越後一国の実効支配に成功します。

この後、源行家が義仲に加わるのですが、もう一人、ドラマには出てきていない人間が義仲を頼っていました。その人の名前は「源義広(みなもとのよしひろ)」と言います。

ドラマから存在を消えた男・源義広

源義広は源為義の三男で、義仲の父・義賢は同じ母の兄にあたります。

為義の命令で兄・義賢が上野国に下った際に同行し、常陸国志田荘(茨城県稲敷市)を開発してそこを本拠としました。

その後、中央の政変である保元・平治の乱に関わることなく、常陸国南部に独自の勢力を張っていました。

頼朝挙兵後、常陸で起きた「金砂城の戦い」の時に頼朝と対面したそうですが、そこでは頼朝に従わず、挨拶だけしてそのまま志田荘に帰ったと言われます。

しかし、1183年(寿永元年)鹿島神宮の社領を横領した際に、頼朝から因縁をつけられました。怒った義広は、以前より反頼朝勢力だった下野国の足利俊綱、足利忠綱ら(藤姓足利氏/源姓足利氏とは別族)を味方に加えて総勢20,000騎を率いて下野国に侵攻します。

しかし、頼朝の御家人である源範頼、小山朝政、結城朝光、長沼宗致らの反撃にあって敗れ、逆に本拠地である志田荘を失いました。

本拠地を失った義広は実の兄の子(甥)にあたる義仲を頼ります。
実は頼朝と義仲の衝突は、この義広を義仲が匿ったところにあると言われています。

頼朝と義仲の和睦

ドラマでは武田信義(演:八嶋智人)「義仲は源行家を通じて平家とコンタクトし、鎌倉に攻め寄せる噂がある」として頼朝をけしかけます。頼朝側近の大江広元(演:栗原英雄)

軍勢を信濃に送るのです。平家との噂が偽りなら、その証に人質を出せと迫ります。断れば噂は誠。そのまま攻め込んで木曽殿の首を取る。

『鎌倉殿の十三人』第13話「幼なじみの絆」12:43頃

と頼朝に献策しますが、これはかなり無茶苦茶な話でした。

義仲が頼朝麾下の御家人なら、頼朝への謀反ではない証に人質をだせという話は道理が通ります。しかし義仲は御家人ではありません。信濃源氏という頼朝とは別個の武士団の棟梁であり、独自勢力です。

義仲から見れば、頼朝は源氏の一族ではありますが流人で罪人にすぎないでしょう。

この話は

三浦義澄(演:佐藤B作)
三浦義村(演:山本耕史)
和田義盛(演:横田栄司)
岡崎義実(演:たかお鷹)
畠山重忠(演:中川大志)
土肥実平(演:阿南健治)
千葉常胤(演:岡本信人)

らの反対で「使者を送って、真意を糺す」という形で落ち着きますが、ここで私が気になっているのは、頼朝の評定での比企能員のセリフです。

鎌倉殿への敬いが全く足りませんな

『鎌倉殿の十三人』第13話「幼なじみの絆」16:16頃

これは比企能員(比企家)自体が東国武士ではないことの表れだと思っています。前のエントリーで書いたように、比企はもともと京にゆかりのある一族で、頼朝の伊豆流罪にしたがって東国に来ました。

したがって、このセリフは今後起きるであろう鎌倉幕府の政争においても、「自分は東国武士とは違う」一線画する立場であることを匂わせていると思いました。

さて、肝心の頼朝と義仲との間のやりとりですが、実は「吾妻鏡」はこの部分(すなわち寿永二年の部分)が欠落しているのです。なので、「平家物語」からこの部分を補填したいと思います。

寿永二年三月頃、頼朝と義仲の間で揉めごとが起きた。頼朝は十万騎を超える兵力で信濃に向かった。木曽は信濃と越後の境である熊坂山(長野県上水内郡信濃町野尻)に陣を張ってこれに対抗した。

頼朝が善光寺に到着した際、義仲は今井兼平(演:町田悠宇)を使者として使わした。

「なんの理由があって義仲を討とうとされるのか。佐殿は坂東を平らげ、東海道より平家を駆逐しようとしている。義仲は北陸道から平家を追い落とそうとしている。なぜ同族同士戦わねばならないのか。このような様を見れば平家から笑われますぞ。ただ、十郎蔵人(行家)殿が佐殿に恨みありと申して義仲の元にきましたが、それを理由に義仲まで恨みに思われるのは心外です。義仲は佐殿に遺恨は全くありません」

これを受けて頼朝は

「そなたはそのように申すが、我が家人の中に義仲がワシを討とうとする確かな企みがあると申す者がおる。そなたの話を信用することはできない」

と答え、土肥実平、梶原景時らを先鋒として軍勢をなお進めた。

義仲は頼朝に遺恨がないことを示すために、今年11歳になる清水冠者源義重(義高)に四名の武士を付けて頼朝に元に遣わした。

頼朝は

「義仲の遺恨なしのこと確かに承った。ワシにはこの年頃の子がおらぬ。ワシの養子として受け入れよう」

として、鎌倉に引き揚げた。

『平家物語』巻之七「清水冠者」

この時の状況として、義仲は越後と信濃(新潟県と長野県)および上野の一部を実効支配し、確固たる勢力を築いていました。

しかしそこから坂東に討ってでなかったのは、坂東が頼朝の勢力圏内であり、かつ同族同士が戦うことで平家に時間を与えてしまうのが義仲の本意ではなかったからです。

一方の頼朝も東海道から平家追討軍が向かっている情報もあり、義仲と戦になれば2つの敵に立ち向かうことになり、それは当時の鎌倉の軍事リソースでいえばなかなか大変な話でした。

そのため、義仲としては「とにかく頼朝と戦いを回避したい」という思いがあり、そのために嫡男を人質に出したのだと考えています。

また、義仲は(どう考えても厄介者である)行家と義広を終生見捨てることはしませんでした。
「自分を頼ってくるものは見捨てることはしない」
これが義仲という男を端的に表していると思います。

御台所の立場と品格

今回のお話でもっとも頼朝の株を下げたと言われるのが、「亀の前詣で、かーらーのー、八重さん詣で」になるのでしょう。

亀(演:江口のりこ)の家に政子(演:小池栄子)が一人で来ていて、逃げ出すように出て行った後、「このままでは帰れん!」と憤る頼朝が江間館に侵入し、八重さん(演:新垣結衣)を押し倒そうとするあたりは、まさに抑えきれない性欲をぶつけんばかりの醜態と言えました。

しかし、創作とはいえ、亀の前にああいう役どころを演じさせるとは見事な配役としかいいようがないですね。

黒髪の 乱れも知らず うち臥せば まずかきやりし 人ぞ恋しき

『後拾遺和歌集』

亀が詠んだ歌は1086年(応徳三年)に完成した『後拾遺和歌集』に収められている歌です。

亀「伊豆の小さな豪族の家で育った嫁き遅れがさぁ。急に『御台所』『御台所』って、勘違いしてもしょうがないけど。大事なのはこれから」

政子「…….」

亀「自分が本当に鎌倉殿の妻として相応しいのか、よく考えなさい!」

政子「……」

亀「足りないものがあったらそれを補う」

政子「……」

亀「私だって文筆を学んだのよ」

政子「……」

亀「あなた、『御台所』と呼ばれて相応しい女になんなさい。憧れの的なんだから、坂東中の女の」

政子「……」

亀「そんな風に考えたことあった?」

政子「…………考えたことありませんでした」

亀「……では、よろしくお頼み申します」

『鎌倉殿の十三人』第13話「幼なじみの絆」35:01から

人は置かれた立場によって変わっていくと言います。民には民の、領主には領主の、そして支配層には支配層のそれぞれの立場に応じた、立ち振る舞いと相応の教養が求められます。

現代でもそれはありますが、この時代はもっとシビアです。頼朝にしろ政子にしろ「取って代わられるような存在」であれば、いつでも覆せる時代です。問題はその存在がどれだけの人間から支持されるかどうか。

ですからトップというのは付け入る隙を作ってはいけない。
御台所と呼ばれる存在は坂東に住む多くの女性から慕われ、憧れるような存在にならないと、頼朝はいつかまた誰かに心奪われるよ、と暗に言っているように思えました。

怪僧・文覚

今回のエピソードを締めるにあたり、この人物について触れないわけにはいきません。

文覚(演:市川猿之助)
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文覚は本当に謎の多い人物です。

もともとは摂津源氏の武士団・渡辺党(摂津国西成郡渡辺津を本拠とする武士団)の出身で、北面の武士(院の警護兵)でした。

19歳の時出家し、神護寺の再興を後白河法皇に強訴したため、伊豆に流罪となり、そこで頼朝と出会ったと言われます。

ドラマの中で演じているのが猿之助ということもあり、どうみても「怪僧」としか見られないのですが、歴史的には神護寺をはじめ、東大寺など多くの寺院仏閣を復興しただけでなく、のちに超人僧と言われた明恵を指導しています(系譜的には孫弟子にあたります)。

文覚が謎多い人物なのは、書かれている書物によって全く異なる人物評を述べられているからです。

「木曾義仲の入京後、頼朝の使者として義仲への糾問使として赴いた」
(「玉葉」)

「乱暴者。行動力はあるが学識はなく、人の悪口をいい、天狗を祀る」
「文覚と頼朝は四年間朝夕慣れ親しんだ仲」
(「愚管抄」)

「海の嵐を沈める修験者」(「平家物語」)

Wikipedia

謎が多いだけに怪演できる出演者を選んだとも言えますね。

あれ?そういえば、前回(第12話)のラスト
大江広元の

ただ……1つ気になったのが……

『鎌倉殿の十三人』第12話「亀の前事件」42:25

が何だったのか?
が気になります。

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