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和田合戦の意味するもの

2022年10月23日、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第41話「義盛、お前に罪はない」が放送されました。

1213年(建暦三年)5月2日の和田合戦の勃発から収束。そして後日談までをギュっと凝縮した非常に濃い45分でした。

言うなれば、まさに「三谷流和田合戦」という感じでしたね。

それでは、参りましょう。

義直の出兵

ドラマでは和田義盛(演:横田栄司)が帰る前に四男・義直(演:内藤正記)がすでに出陣しており、義盛の息子たちが「もう後にはひけない」だの「北条はここで潰しておくべき」だの義盛の本意とは違う自分勝手な理屈をこねくり回しています。

『吾妻鏡』でも義盛は鎌倉殿の使者に対して、

「それは相州(義時)の当家に対するやり方が傍若無人なので、納得できる説明を求めて武装して行こうと、若い者達が談合しているだけです。私が何度も諫めているのですが、こんな老人の言うことはもう相手にされないようですな」

『吾妻鏡』

と返答しているので、その辺を踏まえての流れになっていますね。

ドラマの中で義盛は言います。

「我らの敵はあくまでも北条。この戦、決して鎌倉殿に弓引くものではない、それだけは肝に銘じておいてくれ!」

『鎌倉殿の13人』第41話「義盛、お前に罪はない」1:00あたりから

そしてトウ(演:山本千尋)義時(演:小栗旬)に和田の館から軍勢が東に向かったことが義時に報告されると、義時は「は?」というような表情を浮かべ、真顔でそれまで弄んでいた双六のコマを思いっきり右手で払い除けます。

前回のくだりで義時としては、和田潰しの考えを捨て、もう一度義盛と一緒に二人三脚で、鎌倉をうまく回していこうと思っていたのかもしれません。自分の中に芽生えていた和田潰しの心を一旦は捨てた。ところがそれを(義盛が知らない義直の出兵によって)無碍にされたわけです。

これは義時、キレていいと思います。
当然でしょう。

和田義盛と三浦義村

義盛は三浦義村(演:山本耕史)を呼び出して「向こう(義時)につくなら構わないぞ」と言います。義村は「バカを言うな」と一笑にふします。

義盛「裏切るなら早いうちに裏切ってくれ。ここぞと言うときに寝返られたらたまったもんじゃねぇからな……通じてるんだろ?」

義村「……」

義盛「……(軽いため息)」

『鎌倉殿の13人』第41話「義盛、お前に罪はない」4:13あたりから

これは今までの義盛ならあり得ない思考回路だと思いました。基本これまで難しいことはわからない脳味噌筋肉直情キャラだったのに、ここで裏で誰がどう通じているとかに思考を巡らせるなど、これまでの義盛の思考回路からは考えもしなかったことではないでしょうか。

まぁ、それだけ義時と義村の考えがわかりやすいからかもしれませんが。

義村は「なぜ(義時に通じた俺を)斬らぬ」と問いかけます。

義村「なぜ……斬らぬ」

義盛「ハッハッハ…….俺たちだって従兄弟同士じゃねぇか……その代わり、戦場では容赦無用だ……いいな」

『鎌倉殿の13人』第41話「義盛、お前に罪はない」4:44あたりから

このやりとりで義村は「義盛は死ぬ気だ」ということを悟ったのかもしれません。

YouTube動画や他のブログでも散々言われていますが、一応、補足しておきますが、この二人の関係は正直、ややこしいです(苦笑)。

義盛と義村の祖父は三浦義明でした。義明の嫡男は義宗といって、三浦の家督を継ぐと三浦の本拠衣笠城(神奈川県横須賀市衣笠町)の北に杉本城(神奈川県鎌倉市二階堂)に杉本城を築き、そこを本拠としました。そのため義宗はその地の苗字にして「杉本義宗」と言われます。

義宗は長寛元年(1163年)におきた安房の長狭常伴(ドラマの中で安房頼朝を襲おうとして逆に義村に討たれた豪族)との戦いで討死しました。

この義宗の嫡男が義盛です。このとき、義盛はまだ16歳で、相模国三浦郡和田荘を譲られていました。

しかし、三浦の当主となるには若すぎるという先代・義明の判断から、義明の次男、つまり義盛の叔父にあたる義澄(演:佐藤B作)が36歳で三浦の家督を継承しました。

そして義澄の子が義村で三浦氏の現当主となっています。つまり三浦氏は一族としての嫡流と家督継承者の血統が分かれるねじれの現象が起きていました。

三浦が北条についた私的考察

私(このブログの筆者)は、和田合戦で三浦が北条についた理由は、この「ねじれ」にあると考えています。

義盛は鎌倉幕府侍所別当という幕閣の一人です。侍所別当とは鎌倉幕府の御家人を統率管理し、なおかつ鎌倉の治安を守る軍事責任者のポジションでした。それゆえに御家人の人望も厚かったと考えられます。

三浦の当主は義村です。しかし義盛は三浦義明の長男(いわば嫡流)の流れで上記の理由から三浦一族の中でも「長老」としての発言力の大きさがあったと考えられます。そこに当主である義村がどのような感情をもつかは容易に推測できるかと。

つまり、三浦氏が内部に抱える「ねじれ現象」の解消。それは義村にとっては三浦氏当主の権威を取り戻す課題であり、そのためにこの合戦を利用したのではないかと考えています。

なお、『吾妻鏡』での合戦の勃発は八田知家(演:市原隼人)の嫡男・知重(小田氏の祖)が和田義盛の屋敷が騒がしいのを聞き、大江広元(演:栗原英雄)の屋敷に走ったことがキッカケとなっています。

広元はこのとき友人と酒を飲んでいましたが、急ぎ御所に向かいました。
一方で、義時は屋敷で囲碁を打っていましたが、義盛の出兵を知らせたのは三浦義村と三浦胤義(演:岸田タツヤ)です。そのときに起請文を反故にして源氏に味方すると言っています。

和田義盛の戦略

義時の屋敷に戻った(?)義村は義時とトキューサ(時房/演:瀬戸康史)に義盛の戦略を伝えます。

義村「和田勢は三手に分かれて、三カ所を襲う手筈になっている。大江殿の館にここ(義時邸)、そして御所だ」

時房「ここにも攻めてくるのかよ……」

義村「向こうの狙いは……お前(義時)だ」

『鎌倉殿の13人』第41話「義盛、お前に罪はない」6:10あたりから

和田勢が三手に分かれて攻撃するのは『吾妻鏡』にある通りですが、攻撃目標が違いました。『吾妻鏡』にある攻撃目標は

御所北門
義時邸
御所南門(大江邸の隣)

となっておりました。三隊のうち二隊を御所に向けていることから、実朝を確保するというのが和田勢の最重要ミッションだったことがわかります。
さらに義時邸から御所に軍勢をださないように、義時邸も動けないようにしていたわけですね。

これに対して幕府側の迎撃体制は

北条泰時(義時嫡男)
北条朝時(義時次男)
足利義氏(足利氏三代当主/政子の妹の子=義時の従兄弟)
武田信光(武田氏二代当主/武田信義の子)

が主となって防ぎました。

ドラマではここで義時が実朝を鶴岡八幡宮の別当に移していますが、『吾妻鏡』では、このとき別当館に移されたのは御台所と尼御台だけです。
実朝は御所が火事になって、将軍御所北側の法華堂に移っています。

妻に嘘をついた義時

ドラマの義時はのえに一緒に御所に行くか、実家である二階堂の屋敷に匿ってもらうかの決断を迫っています。その時に義時はのえに言いました。

「敵の狙いは鎌倉殿だ。かなり危険だが構わぬな?」

『鎌倉殿の13人』第41話「義盛、お前に罪はない」7:36あたりから

ちょっと義時さん、あなた、さっき義村から「敵の狙いはお前だ」と言われましたよね?自分の妻にそこで嘘つきますか?

期待されない弟からの直球諫言

一方、泰時は二日酔いで使い物にならない状態でした。
水を飲もうと、盛綱にビンタされようと酩酊状態から回復しません。
盛綱が義時からの命令(御所の西門を守れ)を伝えても「任せた……」と言ってまた寝ようとします。

朝時は「真面目一徹の兄上にこんな面があったとは……」と少々驚きながら、「酒に逃げるわけはなんですか?」と尋ねます。泰時は言います。

泰時「……私にだって悩みだってある……なぜ父上は私に指揮を……」

『鎌倉殿の13人』第41話「義盛、お前に罪はない」11:53あたりから

そうぼやく泰時に対し、朝時が言います。

朝時「信じてるからに決まってるじゃないですか」

泰時「……」

『鎌倉殿の13人』第41話「義盛、お前に罪はない」11:53あたりから

朝時の言葉に泰時が一瞬「え?」という表情を見せます。
朝時は寝転がっている泰時に近づきながらさらに言います。

朝時「期待されて生きるのが、そんなに辛いんですか?……誰からも期待されないで生きている奴だっているんだ。そいつの悲しみなんて、考えたことねぇだろ!

『鎌倉殿の13人』第41話「義盛、お前に罪はない」12:10あたりから

おそらく朝時のこれまでのストレスが爆発した瞬間だと思います。

歴史上の話になりますが、朝時は義時の最初の正室(比奈)の子です。元服時の烏帽子親も実朝で「朝」の字を賜っています。つまり嫡男・嫡流のポジションにあったと言ってもいいものです。

しかし、ドラマ上で義時の期待は泰時にかけられていました。それは義時が最初に愛した女性・八重の子だからでしょう。本来は嫡流は自分なのに、父は自分は見てくれない。そして期待されている兄貴は二日酔い。これでは朝時がキレるのも当然ですね。

和田合戦・初日終了

『吾妻鏡』は和田合戦は和田勢が午後4時頃に出兵し、午後6時頃、御所南門を突破。御所に放火したため、実朝は御所の北門から脱出し、法華堂に移動したとあります。

戦いは星が出る時間になってもやまず、明け方近くになって和田勢が矢が尽きたこともあり、由比ヶ浜に引き上げました。
なお、泰時はこの明け方近くまで戦っていたようです。

そしてこのタイミングで大江広元が政所に向かっております。警護の御家人をつけていたようですが、ドラマの広元は必殺仕事人のようにバッタバッタと敵兵を斬り殺していました。文官だけの人ではなかったようです(汗)。

義時の策謀

日が変わって5月3日、寅の刻(午前4時頃)
武蔵七党の1つである横山党の軍団が義盛に援軍としてかけつけてきました。横山党は義盛の血族に連なります。ここで和田勢は馬と武具、食糧の補給を受けます。

辰の刻(午前8時)になると、相模の御家人軍団(曽我・中村・二宮・河村)が蜂起し、扇ヶ谷や稲村ヶ崎等に陣を張りました。実朝が召喚状を出しましたが、模様を眺めて動きません。

ここでドラマの義時は計略を鎌倉殿に仕掛けます。

義時「和田に加勢するために、西相模の御家人たちが鎌倉に向かっております」

広元「曽我、中村、二宮、河村……」

義時「これらの御家人に『我らに味方するように』と鎌倉殿の名で御教書を送ります」

『鎌倉殿の13人』第41話「義盛、お前に罪はない」20:43あたりから

「戦は大義名分がある方が勝つ」

義時が言った言葉です。この場合の大義名分は「どちらが鎌倉殿を擁しているか」にかかっています。すべての御家人は鎌倉殿と主従関係を結んでいるからです。

つまり御家人に対して命令できる存在・鎌倉殿=実朝を手中におさめている義時が圧倒的に有利なわけです。

和田一族の大義名分は、北条義時を討って幕政を正常化することです。しかし、御家人に命令できるのは鎌倉殿だけ。鎌倉殿の名前で命令が出されれば、御家人は従わざる得ません。

これに問注所執事・三善康信が異議を唱えます。

康信「この戦、和田の狙いは北条にございます。和田は鎌倉殿に対して兵を挙げたわけではございません」

義時「何が言いたい!」

康信「……かような御教書が出回れば、北条と和田の争いが、鎌倉殿と和田の争いに……形を変えることになりますまいか?

『鎌倉殿の13人』第41話「義盛、お前に罪はない」21:29あたりから

康信の指摘は道理です。この戦いが和田と北条の権力争いに端を発しているのは皆わかっていること。しかし義時はこの戦いに勝利するために鎌倉殿を盾につかっている。今までは成り行き上仕方がなかったですが、御教書を出すとなると、和田は正式に謀反人となってしまいます。

実朝も康信の指摘に反することはできなかったと思われます。

実朝「小四郎」

義時「和田は御所を攻めたのです。これを謀反と言わずしてなんと言うか……」

実朝「……御教書は出せぬ……」

義時「……(康信を睨みつける)……大戦(おおいくさ)になってもよろしいのですか?敵の数が増えれば、それだけ死者も増える」

実朝「……」

義時「鎌倉は火の海となります……それを止めることができるのは、鎌倉殿、あなただけなのです」

広元「ここはどうか……我らに任せていただけないでしょうか」

『鎌倉殿の13人』第41話「義盛、お前に罪はない」21:52あたりから

康信に痛い所つかれた義時はこんどは鎌倉の町、市民を盾にして鎌倉殿に御教書の発行の裁可を求めます。

鎌倉殿として御家人同士の争いに介入することはできなくとも、鎌倉の街を守るのは鎌倉殿の責務。そこを突いてくるとは、なんとも陰険な手段だなと思いました。

『吾妻鏡』によれば、将軍花押入りの御教書に加え、武蔵国など相模国周辺に下記の内容の文書がだされたとのことです。

「鎌倉周辺の御家人に告ぐ。和田左衛門、土屋兵衛、横山党の連中が、謀反を起こして将軍御所を急襲した。将軍ならびに御台所などの身に危険はないが、敵は散り散りに逃げたので、急いで討ち取って申し出よ」

大膳大夫(大江広元) 花押
相模守(北条義時) 花押

『吾妻鏡』建暦三年五月三日

この文書によっての動きかどうかはわかりませんが、同じ頃、千葉成胤(常胤孫)が義時軍に加わっています。
これで義時の勝ちは決定的になったのです。

和田義盛、再び御所を攻める

『吾妻鏡』によれば、体制を立て直した和田勢は再び御所を攻めようとします。しかし、昨日と違い、幕府側にも応戦準備を整える時間がありました。
幕府側は以下の布陣でこれに臨みます。

▼若宮大路(由比ヶ浜から鶴岡八幡宮に通じる参道)
北条泰時(義時嫡男/修理亮)
北条朝時(義時次男/武蔵守)


▼大町大路(若宮大路を横切る脇道)
足利義氏(政子の妹の子=義時の従兄弟/足利家三代当主)


▼名越切通付近(現在の長勝寺あたり)
源頼茂(源三位頼政の孫/近江守)


▼将軍御所周辺
佐々木義清(佐々木秀義の四男/出雲源氏の祖)
結城朝光(長沼宗政の弟/結城氏の祖)

なので、ドラマで描かれた「和田義盛 VS 北条泰時」の構図は、おそらく若宮大路での戦闘だったと思われます。

幕府の迎撃体制は万全で 和田勢の進撃は思うように進みませんでした。
午後4時になり、義盛四男・和田義直が討たれました。
そのショックで義盛は放心状態となり、フラついていたところを討ち取られたと言われます。

そして和田義重、和田義信、和田秀盛等、義盛の一族は次々と打ち取られていきました。朝比奈義秀(演:栄信)は安房に逃亡したと言われます。

こうして和田合戦は終結しました。

和田合戦の総括

和田合戦により御家人としての和田氏は滅亡しました。
義盛の子供たちが最終的にどうなったのかを検証してみます。

和田義盛(当主):討死。
和田常盛(義盛嫡男):甲斐国に逃亡。自害。
和田義氏(義盛次男):手越宿(駿河国)で討死。
朝比奈義秀(義盛三男):安房国に逃亡。消息不明。
和田義直(義盛四男):討死。
和田義重(義盛五男):討死。
和田義信(義盛六男):討死。
和田秀盛(義盛七男):討死。

和田朝盛(常盛の子/義盛嫡孫):逃亡。承久の乱で上皇方について捕縛。

佐久間家盛(朝盛の子/義盛曾孫/佐久間家村の養子):安房国に逃亡。承久の乱で軍功を上げ、上総、尾張に所領を与えられる。戦国武将佐久間氏の祖。

Wikipedia

また、和田以外にも族滅の憂き目にあった御家人が多くいました。
まず武蔵七党の横山党は壊滅し、以後歴史からその姿を消しています。

その他、和田一族以外でこの合戦で犠牲になった著名な御家人は以下の通りです。

岡崎実忠(岡崎義実<演:たかお鷹>の孫/討死)
土屋義清(岡崎義実の子/討死)
土肥維平(土肥実平<演:阿南健治>の孫/捕虜となり処刑)
土肥仲平(維平の子/討死)
梶原朝景(梶原景時<演:中村獅童>の弟/討死)

大江広元と北条義時は乱が収束した日の夜、在京御家人の佐々木広綱(佐々木四兄弟の長兄・定綱の子)に急ぎ書状を送っています。

それは和田合戦で逃亡した者が多く、その者が京に潜伏して軍事活動を起こされては困るので、見つかったら討ち取れというものでした。

これは牧氏事件の余波で平賀朝雅を討った際、京で軍事活動に及んだ反省があったのではないかと思われます。

また広元と義時は5月9日にも広綱に書状を送っています。
その文面は

「京都の御家人は関東に来てはならない」
「関東の騒動はもう鎮圧された」
「院の守護を第一とせよ」
「和田の残党が九州に渡ったという話がある。油断するな」

とありますので、和田合戦を聞きつけて京都から鎌倉に入る御家人が結構いたのではないでしょうか?

また合戦が終わった夜、泰時の屋敷で酒宴が開かれ、その場で泰時はこう言ったそうです。

「これから先、私は酒を断とうと思う。実は一日の夜に飲み会があって、その翌日の明け方に和田義盛が攻めてきた。私はなんとか鎧兜を着けて馬に乗ったけれど、酩酊していて呆然としてしまった。なので、今後は断酒を神に誓ったのだ。しかしながら、何度も戦っているうちに喉が渇いたので、飲み水を探していると葛西六郎なる武士が小さな水筒の蓋を取って勧めてくれた。その時、前の誓いも忘れて、これ(酒)を呑んでしまった。しかもお流れを景綱(尾藤景綱)に与えてしまった。人の心なんて定かなものじゃない。まったくおかしな話だ。但し、これからは大酒は控えることにする」

『吾妻鏡』建暦三年五月三日

ドラマの中の泰時の二日酔いの話は、これがヒントになっていますね。

梶原、比企、畠山、和田と続いた鎌倉幕府における御家人の粛清はこの和田合戦でひとまず終了することになります。次に御家人が粛清されるのは、これより30年以上後の1247年(宝治元年)におきた宝治合戦です。

その時は義時の曾孫・五代執権・北条時頼の時代になっていました。

執権誕生と朝時の帰参

1213年(建暦三年)5月6日、実朝は義時に侍所の別当職を任じます。
ここに義時は侍所、政所、両別当職を兼職し、鎌倉政権の軍事・政務の実権を掌握しました。私はこの段階を以て、執権の成立だと考えています。

またこの和田合戦の功績を認められて、駿河に蟄居謹慎中であった次郎朝時は御家人としての帰参を許されています。史実では猛将として知られる義盛三男・朝比奈義秀と戦って負傷したと言われています。

ただ、ドラマの中で義時が言った

「これよりまた私に仕えよ」

『鎌倉殿の13人』第41話「義盛、お前に罪はない」40:00あたりから

は、ちょっと意味が違うかなと。

御家人の主人は将軍です。執権ではありません。
義時の言った「これよりまた私に仕えよ」では、北条家の家人(すなわち盛綱と同格)としての身分を与えているのに過ぎません。

御家人として復帰するのであれば、改めて実朝への取りなしを義時がする必要があると思います。

これより以後、義時の存命中に御家人同士の争いや合戦はありませんが、それを超えるような大きな事件や戦いがまだ続きます。

仁義なき戦いはまだ続くのです。

昔の和田合戦の考察

私のマガジンの中に「日本の内ゲバは鎌倉幕府から」というシリーズがあり、そこで和田合戦の考察を物語風に綴っています。
下記にリンクを設置しておきますので、興味がありましたらお読みください。


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