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日本の内ゲバは鎌倉幕府から(8)-波乱の前兆-

西暦1213年(建暦三年)2月、信濃国小県郡小泉荘(長野県上田市小泉)を本拠とする御家人・泉親衡が、亡き幕府二代将軍・源頼家の遺児を盛り立てて反乱を計画しました。

これは事前に露見し、幕府侍所別当(長官)職の和田義盛の一族である和田義直(義盛四男)、和田義重(義盛五男)、和田胤長(義盛甥)らが加担していたことが判明し、政所の手の者によって捕縛されました。

3月8日、事態を知った義盛が将軍御所(鎌倉市雪ノ下3丁目一帯:現在の清泉小学校あたり)に赴き、赦免を願い出ました。将軍実朝は義盛の長年の忠勤に免じ、赦免しようとしましたが、幕府政所別当(長官)職にあった北条義時「胤長はこの計画の張本人の可能性がある」と主張したため、胤長の赦免は聞き届けられませんでした。

翌日、義盛は一族九98名を引き連れて将軍御所南面に押しかけ、胤長の赦免を再度願い出ました。

義時の挑発

説明のために将軍御所南面に現れたのは将軍・実朝ではなく、政所別当・義時でした。

義時は義盛に言いました。



「昨日お伝えしたように、和田の平太(胤長)殿は、此度の泉親衡が陰謀の首謀者の一人である疑いが高い。よって、いかに左衛門尉(義盛)殿の縁者とはいえ、お引き渡しするには参りませぬ」



義盛は苦虫を噛み潰したような顔を浮かべばがら言いました。



「ならば相州(義時)に問う。詮議はどのようになっているのだ。平太が逮捕されてすでに二十日が経過している。その間、平太の罪を確定しうる証拠があったのか?」



義盛の反論に対し、義時は



「以前、疑いは晴れぬままでござる」



と残念そうに言いました。



「何をそんなに執拗に調べる必要があるのか?」



「平太殿が左衛門尉殿の縁者であるからでござる」



「なにぃ?」


義時の返答は義盛だけでなく、他の和田一族の神経を逆撫しました。

「左衛門尉殿は侍所別当。侍所は幕府において御家人を統括する最高機関。よって、この事件の詮議も、本来は左衛門尉殿が采配すべきこと。しかしながら今回の泉親衡の陰謀に和田の一族が関与しているとなればそうもいきません。また、平太殿が和田の一族であるからこそ、詮議は特に入念に行わねばならんのです。

」

義時のこの説明には道理がありました。さすがの義盛も何も返せなかったのです。




「なれど....」



と義時は言葉を続け



「和田一族の皆々様がこの場にいらっしゃることを鑑み、この場で、平太殿の顔をお見せすることをこの相模守の職権を以て取り計らいましょう」



と言ったため、義盛の後ろにした一族の者は喜びの声を上げました。
それを見届けた義時は



「和田の平太殿をこれへ!」



と家臣に命じました。やがて、金窪行親と安東忠家が、縄で縛り付けた一人の人間を連れて南面に現れました。義盛はそれを見て、目を大きく明けました。そこに縄で縛られている人間は、紛れもなくやつれた胤長の姿だったのです。



「こ......これではまるで罪人同然の扱いではないか!!」

義盛の意見に対し、義時は

「心苦しい限りではあるのですが、現状、乱の首謀者の嫌疑がかかっておりますれば、致し方もございません。」

義時は目を瞑ったまま、義盛を諭すように言いましたが、義盛は地面に手をついて

「頼む!相州。平太の縄目を解いて我らに返してくれ!」

と平伏し、一族の者もそれに習いました。

「左衛門尉殿。お手をお上げくだされ。平太殿の姿を見せたのは、和田一族の皆々の嘆願を入れて、この義時の独断の計らいでござる。無理は申されてはそれがしが困りまする。それがしの立場もお分かりくだされ」

「そなたとわしとは治承、寿永の戦いを共に生き抜いてきた仲ではないか......」

「それも分かっておりまする。それゆえ、心苦しいのでございます」

義時は目を伏せ、義盛から顔を背けると

「山城判官殿を呼べ」

と供の者に命じました。

山城判官とは、京で検非違使を務めていた二階堂行村のことです。幕府創設の功臣の一人にして、政所執事、「十三人の合議制」の一人でもあった二階堂行政の子でした。



行村が御所南面に表れると、和田一族勢揃いの様子に戸惑いをうけながらも、義時に近づいてひざまづきました。



「およびにより、罷り越しました」



「和田の平太殿をそなたに預ける。そなたの手で厳しく詮議あるように」



と義時が命じると、行村は

「ははっ。かしこまりました」

と一礼し、金窪行親と安東忠家の手から胤長の縄を受け取り、侍所に連行していきました。和田義盛およびその一族の者は、それを見送るしかできませんでした。



「判官殿は侍所を代表する検断方(取調担当官)の筆頭。判官殿の詮議が終われば、平太殿は放免となり、じきにお屋敷に戻れましょう。今日のところはどうかお引き取りくださいませ」

義時はそう言って、深々と頭を下げました。
義盛は義時に反論できませんでした。義時の言っていることは物事の道理が通っていました。そして義盛の要求は「積年の忠勤」を掲げてその道理を覆そうとしていました。その上、一族を引き連れていたため、和田氏棟梁としてのメンツも失ったのです。

義時は胤長を和田一族の目前に連れ出し、その上、引き渡しを拒むことで、明らかに義盛を挑発していました。

(さて、これで、どうでてくるかな......)

襲いくる和田家の不幸

それから10日後の同年3月18日、和田胤長は、詮議の結果、陸奥国岩瀬(福島県須賀川市)に流罪となりました。当時の二階堂行村の領地が須賀川にあったと考えられますので、いわば行村の監視下におかれた形の処遇になります。

胤長が泉親衡の乱の首謀者の一人であったかどうかははっきりとわかっていません。が、ここに出てきた山城判官・二階堂行村の支配下で監視する形になったということは、確定と断ずるに足る証拠はなかったのではと推察します。

では、なぜ釈放されず、罪状不明のまま岩瀬に流される処置を行なったのか。ここに義時の和田氏への挑発の意図があるのではないかと考えています。

この事件は義時にとって、有力御家人・和田氏の勢力を押さえ込むには絶好の機会であり、和田氏にケチをつけることが北条氏の権威と家格を高めることに繋がることを考えると、義時にはメリットしかありませんでした。

しかし、その後、義時の想定外のことが起きました。胤長が流罪になった3日後の3月21日、その胤長の娘が病没したのです。父親が陸奥に流され、その悲しみのあまり床に伏した上での衰弱死でした。胤長の妻は娘の菩提を弔うため出家しています。

さすがの義時も自身の裁きの結果が幼子の命を奪う結果になったことは心を痛めたに違いありません。

胤長屋敷の奪い合い

同年3月25日、義盛は久々に御所に出仕しました。甥・和田胤長が陸奥国岩瀬への配流決定以来、義盛は抗議の意味を込めて御所への出仕を止めており、さらに胤長娘の逝去が重なり、義盛の心労は相当な重圧に苛まれていました。

そんな義盛が御所に出仕した理由は、その和田胤長の屋敷地を拝領するためでした。

当時の胤長の屋敷は現在の荏柄天神碑があるあたり(神奈川県鎌倉市二階堂76-11)と言われています。当時の御所の東門が現在の清泉小学校東(タイムス駐車場のあたり)にあったと思われるので、胤長の屋敷から御所の東門まで徒歩1分の距離でした。

義盛は幕府侍所別当職にあり、御家人の統括・警察権を持っていました。それには御所の警護も含まれており、御所東門から徒歩1分の距離にある胤長の屋敷は役目上格好の位置にありました。

また、当時、罪人となって召し上げられた屋敷は、その一族に下げ渡されるのが鎌倉幕府初代将軍・源頼朝以来の習わしでした。義盛はその大義名分と侍所別当職における将軍警護の利便性からこの屋敷地の拝領を願い出ました。

この願いに対し将軍実朝も快く認め、義盛は再び和田一族の棟梁しての威厳を取り戻しました。

しかし、それを知った義時が急ぎ実朝に拝謁を申し出ました。それは胤長の屋敷を義盛から召し上げるためでした。

将軍実朝は義時の要求に対し

「一旦下げ渡したものを、また返せと持ち出すのは、道理に合わぬ」

と一蹴しました。
ですが義時は

「和田の平太が泉親衡の反乱計画の首謀者の一人であったことをお忘れですか?。御上(実朝)はお許しになられましたが、あの計画には左衛門尉の息子たちも関与しておりました。それらを総合的に考慮すると、和田一族の御上に対する逆心はまだ存在するとそれがしは考えます。そして今回の屋敷拝領の願い、今、この時期になぜと思いまする。」

要するに義時は和田一族に心を許してはならないと言っているのです。

「侍所別当は御所の警固責任者の一面もある。義盛の要求は役目柄普通のことかと思うが」

「しかし、万が一、和田一族に逆心あれば、御上の身が危うくなりまする」

実朝は「ふっ」とうすら笑いを浮かべて

「埒も無いことを。それに亡き父上からの先例は曲げられぬぞ」

「そこを曲げてお願い申し上げます」

義時はなおを食い下がります。
実朝呆れたように

「では、どうせよと申すのだ」

吐き捨てるように尋ねました。すると義時は驚くべきことを言いました。

「平太の屋敷を、それがしにお譲りくださりませ」

「なに?」

「それがしがあの屋敷を御上より賜ったと聞けば、左衛門尉は不快に思うでしょう。しかし御上の決定は絶対。その時こそ、左衛門尉の真意がわかろうというものではありませぬか。御上の思し召しの通りか、それともそれがしの言っている通りか......」

実朝にとって、和田義盛は父・頼朝と同年齢であり、侍所別当として御家人を統率してきた頼れる存在でした。そして北条義時は、母の弟(叔父)であり、実朝を擁立した祖父・時政失脚後、政所別当として幕府の政治を大江広元と共に支えてきた頼れる親類でした。

幕府を支える有力御家人の北条氏と和田氏の両氏が共にライバル関係にあることは実朝も把握していました。それゆえに義時の行為は両者を一気に武力闘争に引き上げるリスクがあることもわかっており、そこに火をつけるようなことは実朝の心情としてはしたくありませんでした。


「相州、そなた左衛門尉を試すつもりか」

「思い違いをなさっては困ります。侍所は御家人を統括する最高機関。別当はその頂点に立つ者です。それはこの鎌倉で最大の軍事力を保持しているに他なりません。今度の反乱計画に和田一族が関わっていたのは明らかですが、左衛門尉の関与までは認められませんでした。もし、背後に左衛門尉がいたとしたら、左衛門尉は全力でそれがしの横領を阻止するでしょう。すべては御上の御為にござりまする」

同年4月2日、義時は「胤長屋敷は将軍よりこの義時が拝領した」と言い、直ちに金窪行親安東忠家に命じて、胤長屋敷に住んでいた和田家の家人・久野谷弥次郎を追い出しました。

この仕打ちを知った和田一族の者は、義時を恨みに思いましたが、義盛は「御上の仰せなら致し方ない」と一族の者を諫めたといいます。

実朝は義盛の態度に殊勝なものを感じ、義時の今回の強引な態度に不満を持ちました。

この時はこれで決着しましたが、和田一族の不満はさらに高じていくのです。





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