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日本の内ゲバは鎌倉幕府から(12)-執権誕生-

西暦1213年(建暦三年)5月2日から3日かけて鎌倉を舞台に繰り広げられた和田義盛の反乱(和田合戦)幕府方の勝利に終わりました。

和田氏当主・和田義盛および義盛四男義直、五男義重、六男義信、七男秀盛が次々と討ち死にし、嫡男常盛三男義秀、八男義国は逃亡しました。

常盛は、翌日の5月4日、武蔵横山党の横山時兼(妻が和田義盛の娘)と共に甲斐国坂東山償原別所(山梨県都留市大菩薩峠)で自害しているのが発見されています。

戦いが終われば、論功行賞となるのですが、この前回、この戦いは「北条氏の家格を他の御家人と一別する地位に押し上げた戦い」と言って締めました。

その訳をお話しせねばなりません。

執権誕生

西暦1213年(建暦三年)5月5日、将軍実朝は、和田義盛、横山時兼らの謀反人の領地を没収して、軍功ある者に与えるように、政所別当である北条義時ならびに大江広元に命じました。

加えて、将軍実朝は空席となった侍所別当職を北条義時に任じ、さらに美作国(岡山県北東部)の守護職に任じました。

これによって北条義時は侍所および政所の別当を兼任することになり、将軍を別格とすれば幕府内での最高権力を掌握することになります。侍所は御家人の統率と治安の維持(すなわち軍務)を司り、政所は政務全般を司っています。現代で言うならば、内閣官房長官 兼 防衛大臣 兼 警察庁長官というところでしょうか。

鎌倉幕府においての「執権」のはじまりについては、北条時政が実朝を将軍に擁立して政所別当職に就いた時や、義時の子・泰時の時代に任じられたものなど様々な説がありますが、私は義時が侍所と政所の別当職を兼任したこの時を以って「執権」に任じられたと考えています。

なぜかと言われれば、幕府の政務、軍務の両方を一人が司ることは将軍以外誰も抑えることができないポジションに就いたと考えられるからです。「執権」という言葉が「権力を執行する」意味であるならば今の義時がまさにそのポジションであると思う訳です。

残務整理と論功行賞

5月6日、将軍実朝は、この合戦で将軍御所が焼失してしまったので、大江広元の屋敷に移ると、そこで御台所・坊門姫と再会しました。

侍所別当に任じられた義時は、側近の金窪行親を侍所所司に任じ、二階堂行村、安東忠家と共に今回の合戦で亡くなった者をリスト化するように命じました。

大別すると以下のような内容になります。

反乱軍死者:142名>
和田氏:13名
横山党:31名
土屋氏:10名
山内(岡崎含む)氏:20名
渋谷氏:8名
毛利氏:10名
鎌倉(梶原)氏:13名
その他:37名

<反乱軍捕虜:26名>

<征討軍(幕府)死者:50名>


翌5月7日、合戦で主だった武士たちへの恩賞第一陣が発表されました。
このnoteに出てきた人もしくはそれに準ずる人だけ抜粋します。

武田信光(武田氏当主):甲斐国初狩本庄(山梨県大月市)
伊賀光宗(政所執事):甲斐国岩間(山梨県西八代郡市川三郷町)
北条義時(幕府執権):相模国山内庄(神奈川県都築郡内)
大江広元(政所所司):武蔵国横山庄(東京都八王子市付近)
北条時房(義時弟):上総国飯富庄(千葉県袖ケ浦市飯富)
三浦胤義(三浦義村弟):上総国伊北郡(千葉県大多喜町、いすみ市の一部、勝浦市の一部)
伊賀朝光(義時舅):常陸国佐都(茨城県久慈郡佐都村)
北条泰時(義時嫡男):陸奥国遠田郡(宮城県遠田郡涌谷町、美里町)
三浦義村(三浦氏当主):陸奥国名取郡(宮城県名取市、岩沼市周辺)


この恩賞について、泰時(義時嫡男)は何度も辞退していました。
大江広元が「なぜ辞退するのか」と泰時に尋ねると、泰時はこう言いました。

「左衛門尉殿(和田義盛)は決して御上に対して叛逆の心はありませんでした。ただ、父・相模守(義時)対して兵を挙げただけです。結果としては、それを防ごうとして多くの御家人が亡くなりました。ならば、私に下さるこの領地を、亡くなった者たちの家族へ分け与えれば良いと思いました。私は父・相模守の敵を攻撃しただけです。御上から恩賞を頂くようなことはしておりません」

上記は吾妻鏡の記述なので、これが本当かどうかはわかりません。
ただ、最終的には実朝は重ねて恩賞を受け取るように命令し、泰時はしぶしぶ受け取ったそうです。

ちなみに泰時の弟である北条朝時はなんら恩賞に預かっておりせんが、この合戦が起きる前、朝時は不義を働いて父・義時から勘当されて駿河に蟄居謹慎を命じられていました。

しかし、この合戦で将軍御所の守備に軍功あり、特に義盛三男・朝夷名義秀と切り結んで重傷を負ったことは高く評価され、この合戦を期に蟄居謹慎を解かれ、鎌倉幕府の御家人に加わることになります。

和田合戦 総括

鎌倉幕府二代将軍・源頼家の時代、「十三人の合議制」が成立しました。
その時、将軍家を支える13人のうち、幕府創設の功臣と言われたのが

北条氏
梶原氏
比企氏
和田氏
三浦氏


上記の五氏でした。
しかし、梶原氏は梶原景時の変で没落し、比企氏は北条氏の策略で族滅し、そして今回の和田合戦で和田氏も主家が滅亡するに至りました。

成り上がりの北条氏から見れば、相模の名族・三浦氏の嫡流である和田氏の存在は、幕府内において重要なファクターとなることを目指す北条氏にとって、いつかは排除しなければならない存在でした。

結果として和田義盛は北条義時の挑発に乗り、将軍家を手中に収めて義時を排除するつもりでしたが、同族である三浦義村の裏切りによってその願いは断たれてしまいました。以後、鎌倉幕府は北条・三浦が車の両輪となってしばらくは運営されていきます。

その後の和田氏についてですが、まず出家遁世したにもかかわらず、鎌倉に連れ戻された弓の名手・和田朝盛(義盛嫡孫)は、鎌倉を脱出し、安房国狭隈郷(千葉県安房郡鋸南町下佐久間・上佐久間)に逃亡。

朝盛の子が土着して、その土地名から佐久間家盛を名乗り、承久の乱で幕府方に功績をあげ、尾張国御器所(愛知県名古屋市昭和区御器所)に所領を賜るとそこを拠点に勢力を拡大、後に織田信長に使える尾張佐久間氏の祖になりました。

また、義盛の甥にあたる高井重茂は、和田合戦の際には和田氏に反して幕府方について討死にしますが、その子・時茂義盛弟・和田宗実の家督を相続することが認められ、越後国奥山荘(新潟県胎内市)を継承します。
この血統は越後中条氏越後黒川氏を排出し、揚北衆という一大勢力に発展します。

この和田合戦の後、鎌倉地震を挟んで御家人同士の武力抗争はしばらく落ち着きを取り戻します。

しかし、和田合戦から6年後、今度は将軍家において鎌倉幕府の屋台骨を揺るがす大事件が起きるのです。




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