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日本の内ゲバは鎌倉幕府から(10)-和田合戦その1-

西暦1213年(建暦三年)5月2日、昼下がり、鎌倉はにわかに騒がしくなりました。

和田義盛邸近くに八田知重という御家人がいました。八田知重の父は八田知家といい、鎌倉幕府「十三人の合議制」のメンバーの一人で、幕府の重鎮の一人でした。その子にあたる知重は後に「小田氏」を名乗り、常陸(茨城)の国衆・小田氏の祖になる人物です。

その知重は隣から何やら大きな物音が続くので「何をやってるんだろう」と隣の和田義盛邸を見てみると、続々と兵が義盛邸に入っていく状況でした。

「これは、おかしい....」

そう感じた知重はすぐさま大江広元に遣いを出します。
ちょうどその頃、広元は久方ぶりに会う友人と酒を酌み交わしていました。
広元の家人が「八田知重の遣いが来た」と伝えても「無粋な.....」と言って会おうともしませんでした。

待たされていた知重の使者はとうとう痺れを切らし「大膳大夫(広元)にお伝えくだされ、和田左衛門尉殿の屋敷に兵馬が集結しております。これ、謀反の兆しにあらずや?」と再度の取次をお願いして、初めて広元が腰をあげました。

子細を聞いた広元は客人をそのまま待たせて急ぎ、将軍御所へ向かいました。

そしてちょうどその頃、三浦義村の屋敷から出た二頭の馬が北条義時の屋敷目掛けて突っ込んでいたのです。

三浦義村の仁義

その馬に乗っていたのは三浦氏当主・三浦義村、そしてその弟の胤義。二人は義時の屋敷に押しかけると、義時邸は門を閉じ、義時の家人が櫓に登って弓に手をかけました。

それをみた義村はすぐさま馬から降りて、櫓上の義時の家人にこう言いました

「俺は三浦義村だ。相州(義時)に話があってまかり越した。お取り次ぎをお頼申す」

アポもなしに馬でやってきた行為そのものが非礼であるものの、幕府を支える有力御家人である三浦氏の当主の願いを家人レベルで却下するわけにもいきません。

義時の家人は門を開け「お腰の刀をお預かり申す」と言うと、それを義村は承知しました。

一方の義時は囲碁の対局中でした。碁は終局に向かって動いており、義時は終始上機嫌で過ごしていました。そこに義村がやってきたことを家人が伝えると、「構わないから、この場に通せ」と言いました。

三浦義村と胤義が兜を脇に抱えて、着座すると義時に一礼しました。

「平六殿か。そのような物々しいお姿でいかがなされた?」

碁盤から目を離さず、義時は目を数えながら言いました。

「和田左衛門尉、ご謀反」

と義村が答えると、目を数える手が一瞬止まりましたが、何事もなかったかのように数え続けながら

「それで......?平六殿は私の首を取りにこられたのか?」

と言うと、義村は「チッ」と舌打ちし

「だったらこうして会いには来ぬ。手勢連れて門をこじ開け、屋敷に火をかけ、軍勢を突入させればせんなきこと」

義時は目を数え終わり、対局の相手に一礼をすると、義村に向き直りました。

「ならばそうすれば良いではないか。左衛門尉殿の謀反に同心し、ワシを殺して政所別当の座にそなたが着かれれば良い。そなたならワシも安心してお任せできるというもの......」

と義時が言い終わらぬうちに、義村が義時の前にずいっと出て

「小四郎(義時).....てめぇ。いい加減にしろよ」

と目を血を血走らせながら言いました。
義時はニヤニヤしている顔から真顔に変わり

「いったいどういう企てでござるか?」

と義村に尋ねました。
義村は後ろの胤義に目で合図すると、胤義は義時に一礼して

「まず左衛門尉殿の本隊が将軍御所の南門と東門を固め、我ら三浦党が西門と北門を押さえる予定でございました。これで将軍御所の出入口はなくなり、左衛門尉殿は御上(実朝)の身を制圧できます。その後、御上の御教書を以って、相州殿追討の命を頂き、この屋敷に攻めかかる所存」

胤義の言葉を聞きながら義時はウンウンと頷き

「なるほど。御上の権威を利用して、この義時を討つと。そのための挙兵だと」

「そうだ。我ら三浦一族は左衛門尉の企てを内々に打ち明けられていた。そして必ずや同心(味方)すると起請文まで書いた」

義村は吐き捨てるように言いました。

「では平六殿はなにゆえ、この義時の元に参られた?。今の話であればワシはそなたたちの討つべき敵ではないか」

「あー、そうだ。その通りだ。お前は敵だ!」

義村は義時の言葉にイライラが募り、ついに立ち上がりました。

「聞け!相州!われら三浦の家の祖である三浦為継殿は、八幡太郎義家殿に従って奥州で清原武衡・家衡を征伐(後三年の役)した。それ以降、我が家は源氏から数々の恩恵を受けて今日まで栄えてきた。そして左衛門尉殿は今では和田を名乗っているが、もともとは我が家の嫡流の者、いわば棟梁の座にあるべき者、我らとしては左衛門尉に助勢するのが筋だ!」

義時は黙って義村の「演説」を聞いていました。その言葉に一言も口を挟むことなく、義村の次の言葉を待っていました。

「しかし!わが三浦が今日あるのは源氏のおかげ、いくら我が家の嫡流の者とはいえ、主筋に戦いをしかけては、我が家に天罰がくだるやもしれない.....それゆえ、起請文を反故にしてでも、わが愚かな親戚の謀略を幕府に通報すべきだろうと、政所別当たるそなたのもとに参ったのじゃ!」

義村の大声の演説が終わると、義時はふうっとため息をつくと

「誰かある!」

と声をあげ、近習2名が書院に入ってくると

「これより急ぎ御所に参る。用意いたせ」

と申し伝えると

「お聞きの通り、ワシはこれより御所へ参る。平六殿たちはおのが屋敷に戻られて御上の下知を待たれよ」

とだけ言うと、着替えのために奥に引き篭もり、この場には義村と胤義の二人だけが残された形になりました。

「兄者、これでよかったのでしょうか」

胤義が不安そうに義村に尋ねると

「この戦いは、左衛門尉と相州の因縁の戦いではあるが、我ら三浦一族にとっては、歪んだ我が家の嫡流を本来あるべき姿に戻す戦ぞ。三浦の正当な家督たる嫡流は左衛門尉ではなく、この俺だとな」

義村はそう言って、「屋敷に戻るぞ」と外に出ていきました。

将軍御所襲撃

同日、申の刻(午後4時)、和田義盛はついに決起しました。150騎の手勢を率いて一目散に将軍御所を目掛けて駆けていきます。

吾妻鏡によれば、義盛に加わった御家人は

(和田一門)
和田新左衛門尉常盛(義盛嫡男)
和田新兵衛尉朝盛入道(義盛嫡孫・実朝側近、出家後連れ戻される)
朝夷名三郎義秀(義盛三男)
和田四郎左衛門尉義直(義盛四男)
和田五郎兵衛尉義重(義盛五男)
和田六郎兵衛尉義信(義盛六男)
和田七郎秀盛(義盛七男)


(和田一族以外)
土屋大学助義清(頼朝挙兵時の一人・岡崎義実の次男) 
古郡左衛門尉保忠(武蔵七党の一人。横山党の一族)
渋谷次郎高重(渋谷高国の子)、
中山四郎重政(渋谷氏一族)
中山太郎行重(渋谷氏一族)
土肥次郎左衛門尉惟平(土肥実平の孫/妹は三浦義村の妻)
岡崎左衛門尉実忠(頼朝挙兵時の一人・岡崎義実の孫)
梶原六郎朝景(梶原景時の弟)
梶原次郎景衡(朝景の子)
梶原三郎景盛(朝景の子)
梶原七郎景氏(朝景の子)
大庭小次郎景兼(大庭景義の嫡男・大庭家当主)
深沢三郎景家
大方五郎政直(下総国大方郷の一族)
大方太郎遠政(下総国大方郷の一族)
塩谷三郎惟守(源姓塩谷氏)
以上の皆様です。

義盛は150騎を3つに分けて、将軍御所の南門に一隊、義時邸の西門に一隊、北門に一隊で囲みました。義時はすでに御所に行っていたので、義時邸は留守の者等で戦うことになりますが、この時、義時側の兵士はかなりの死傷者を出しています。

義盛は将軍御所の北門と西門は三浦義村と胤義が固めている約束だったため、南門を固めれば、将軍実朝の逃げ場は東門しかないないと考えていました(東門の近くには旧和田胤長の屋敷があり、今は義時の家人がいる)。

しかし、前述の通り、三浦義村、胤義兄弟は義盛を裏切ったため、将軍御所は北、東、西が手付かずの状態でした。そのため、将軍御所に向かった義時は、先着していた大江広元とともに、実朝に上申し、尼御台・北条政子御台所・坊門信子を安全のため、将軍御所の北にある法華堂(現在の源頼朝墓所)に避難させることが可能だったのです。

義時は御所の守りを北条朝時(義時の子、元嫡子)足利義氏(足利宗家三代当主)らの軍勢で固めます。

酉の刻(午後6時)になり、戦い疲れたのか将軍御所の南門付近の軍勢が崩れ始め、朝時と義氏は果敢に防戦しますが、ついに敵将・朝夷名義秀を将軍御所の南庭に乱入させてしまいます。

義秀はその怪力で守りを固めていた御家人らを次々と討ち取ると将軍御所に火をつけたので、屋敷内の事務棟も住居棟も全焼してしまいます。

この時、将軍実朝も居場所がなくなり、義時、広元とともに法華堂に逃れることとなります。

戦の勢いは明らかに義盛にありました。


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