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DANCE to the Future: Young NBJ GALA(於新国立劇場、11月25日)

 11月25日、26日に新国立劇場にて開催された『DANCE to the Future: Young NBJ GALA』は主に若手のダンサーを中心としたプログラムであった。

 一幕ではパドドゥを四つ。二幕ではプリンシパル、ソリスト等ベテランたちの振り付け及び出演によるコンテンポラリー。三幕はナチョ・ドゥアト振り付けによる八年ぶりの再演「ドゥエンデ」である。


 第一幕は若手ダンサー四組によるパドドゥである。一幕全体を通して言えることだが、若さが目立つ踊りであった。剥き出しの踊りと言う感が些か拭えずダンサーたちの余裕というものをあまり感じ取ることができなかった。

 最も目立ったのは要所要所のパの失敗である。例えばグランフェッテであるとかジュッテマネージであるとか。バレエにおいてパの失敗は多々ある(特に床との相性が要の大技)ことだ。だが、プリンシパル、ソリストといったレベルになると、それのリカバーも又一流であるから、それをそうと見せない方法を心得ている。しかし、今回(勿論彼/彼女らは若手である)はそれが見えず、失敗は失敗として私の目に映ってしまった。

 前記した通り剥き出しの踊りであった。つまり”踊り”という面が強調されすぎてそれぞれの役柄に入りきれていない様に思えた。まるで、コンクールで優等賞を得たダンサー踊りの様にそれは上手な踊りの他なかった。

その様な感想を抱いたパドドゥであったが、私は仲村啓のアルブレヒトに中でも大きな好意を抱いた。踊りという以前に役を演じるという点では彼がその仕事を最も忠実に成し得ていたと感じる。彼の踊りの背景には確実にジゼルの物語があったし、何よりも彼はアルブレヒトであった。ヴァリエーションの最後、横たえながらのポーズはとても素晴らしく大きな印象を私に与えた。


 第二幕はベテランたちの振り付け、出演によるコンテンポラリーである。率直に言って一幕と経験の差が歴然と言うべきであろう。一つ一つの踊りに広がりがあり、又新鮮さがあった。

 最初は木村優里振り付けによる「Coppélia Spiritoso」は「Coppélia」の独自解釈とでも言うべき作品だ。人形という人を模った物に命を与えそれとコミュニケーションを図ろうとする内に人間の物との境界線が曖昧になっていく。一見平和的な踊りだが後半に進行するに従って怪しくなる。出演した木村優子と木村優里のまるで鏡の様に息のあった舞踊は感嘆せざるを得ない。

 木下嘉人振り付け、米沢唯、渡邊峻郁出演による「人魚姫」は感動の作であった。声と引き換えに人間となった人魚姫の悲しい物語。それを表現するのにコンテンポラリーの自由な動きは大変に役立っており、とてもミニマムなストーリーでありながらその世界観を過不足なく演出している。セットもなく照明のみでの演出ではあるが、最後人魚姫が男に声をかけようにもかけられず別れの言葉も言わぬまま舞台奥に消えるというのは涙を誘った。今公演のハイライトと言うべきだ。

 同じく木下嘉人による振り付け「Passacaglia」は小野絢子、福岡雄大、五月女遥、木下嘉人、四人のダンサーによって展開される舞踊である。これは前記した「人魚姫」と全く趣を異としているものであった。「人魚姫」が物語の詩情に重点をおいていたと表現するのならば、こちらは舞踊と身体の美にフォーカスした作品であった。肉体の筋肉や浮き出る骨がシンプルな衣装と照明により強調されており、それによって自ずと人間の肉体から奏でられる踊りという美を感じられた。


 三幕の「ドゥエンデ」は今公演において最もダンサーの人数が多い。直塚美穂、赤井綾乃、木村優子、徳永比奈子、花形悠月、山本涼杏、中島瑞穂、山田悠貴、石山蓮、小川尚宏、西一義、森本晃介、総勢12名によるコンテンポラリーだ。

 このコンテンポラリーは一つの舞台として大変興味深かった。ドビュッシーの音楽を背景にしながらバレエ的なしなやかな動きを一切廃して直線的な動きと停止を繰り返すその舞踊は二幕に踊られたどのコンテンポラリーとも全く異なった動きである。


 以上、三幕それぞれ全く異なった踊りが披露された。今回の様に若手とベテランがそれぞれ分かれて踊る舞台は、その経験が歴然と現れることから鑑賞する方も、どの様にして見せられると良いと感じるのか、勉強になると言うべきである。

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