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大田南畝 花のお江戸に遊ぶ人 『跋 南畝の後先 或は大田家系図徜徉記』

 跋 南畝の後先 或は大田家系図徜徉記

大田南畝は明和八(一七七一)年、富原理与を妻とする。翌年、女児が生まれるが夭折。その後、幸を生む。幸は後に金兵衛と結婚しその姓を冒し富と仲、二人の子を生む。更に安永九(一七八〇)年、長男・定吉誕生。後、冬と結婚。寛政十(一七九八)年、妻、死亡。享年四十四歳。享和元(一八〇一)年、定吉に長男・鎌太郎生る。その後、定吉と冬は富、磯、鉄次郎、合計四人の子供を育てた。鎌太郎は長男・正吉を夭折して失うと、家督を相続する直系の男児がいなかったので、親戚の雄之丞(或は、権之亟とも)が嗣いだ。雄之丞の子は堅(南洋とも)。彼は南畝の『一話一言』を編集し出版した。そして堅は享を得た。大田享(大田南岳とも)は一八七三年に生まれ一九一七年に没した画家である。絵を野口幽谷に学び明治三十二年、羅臥山人の下で俳句の習業をしていた際に永井荷風と交わり訂した。更に記せば享の子は大(大正十三年没)であるが、大には子供がいなかったので南岳の妹が大石氏に嫁いだ後に出来た次男、誠を大田家の頭首とした。

文献において分かる大田家その後の行状は先の通りである。

ここで、私はその後を知りたいと思った。果たして現代において大田家はどうなっているのか、と。

五月二十四日水曜日。一昨夜から引き続いた雨もようやく止んだ。路傍の生垣に生えている紫陽花も梅雨の様な気候に騙され晴天の下、花開いていた。

白山駅で降車し都道を千石駅方面に五分ほど歩く。逸見坂入り口の一つ先。左に曲がれば電気屋の奥、左手に石の山門が現れた。表札には「日蓮宗 本念寺」とある。「お墓を参拝する際は一声かけてください」との看板があったので寺務所インターホンを押す。しばらくして縁側の戸が開き女性が現れた。こちらの要件を告げた後、質問があれば住職の所在を伺ったが生憎ながら外出中。しばらくの会話の後、本念寺オリジナル焼菓子を頂いた。

南畝の墓は墓場に入った二つ目の路地を曲がり数基過ぎた所にある。高さ一メートルは越しているだろう。その長方形の巨石に「南畝大田先生之墓」と力強くほっていた。墓碑銘などはない。かつて私が掃苔した澀江抽斎や大沼枕山の墓と比較すれば簡素と言わざるを得ない。それも、そのはずだ。貧困の為、墓碑銘にふさわしい文章を書いたのだが彫るに至らなかったのだ。その隣には南畝の父の墓(正面に大田自特翁之墓とある)がある。そしてその隣には「太田家之墓」があった。その墓石の側面には大田誠以後の二名、戒名、名前そして没した日が彫られていた。両人とも女性である。個人情報の保護を鑑みて大田誠以後の両人に対しては命日と享年のみを記す事とする。次の通り。


   太田 堅 大正十二年九月十二日 七十八才

   太田 大 大正十二年十二月二十一日 三十六才

   太田 誠 昭和三十二年十二月十八日 五十五才

   太田 〇〇 平成十六年八月七日 九十四才

   太田 〇〇 令和四年五月十九日 八十三才


以上が、刻まれていた文字だ。少々気になるのは何故「大田」ではなく「太田」と記してあるのか。裏には「昭和四十八年十一月 大田稔 建之」とあるが、私は彼については詳らかにしない。思うに大田誠の息子ではあるまいか。

大田南畝の墓の真裏に、ちょうど背を合わせる様に背の低い墓石が置いてある。正面に彫られているのは「寛政五年癸丑/晴雲妙閑信女/六月十九日」とある。これは大田南畝の愛妾・賤の墓だ。これの側面には南畝が書いたもの「不知姓為字辞仙境因仏寺寓我室/扶我酔八九年託終始命之薄病為累/書在袖衣在笥豈無従于爲涕蔵白山/覆一簣歳癸丑夏之季南畝子書(姓を知らず、賤を字と為す。仙境を辞し、仏寺因る。我が室に寓し、我が酔いを扶くること八九年、終始を託す。命の薄く、病を累と為す。書は袖に在り、衣は笥に在り、豈に涕涙に従ること無からんや。白山に蔵め、一簣を覆ふ。歳は癸丑、夏の季、南畝子書す。)」とあった。さて、大田南畝全集の月報にはこの墓石が後世になって再び発見されたとの記述がある(大田南畝全集第十三巻月報参照)。確かに、永井荷風が本念寺に訪れた際、彼女に対して一切の記述がないのはおかしいと言わねばならない。彼の性癖から察するに、その取り巻きの人間を全て調査せずにはいられないと考える故である。かつて本念寺には無縁仏となった墓石が積まれていた場所が入り口付近にあったそうな。そこから、偶然的に発見したのが、南畝の妾たる彼女の墓石だった、という訳だ。そして今は彼の背に密かに佇んでいる。

南畝の斜め後ろに一際立派な赤みがかった墓石があった。よく見ると正面には「南岳大田享之墓」とあった。その裏側に南岳による句「まつくろな土瓶つゝこむ清水かな」が彫られている。多少読みにくいがこれは荷風の『礫川徜徉記』に詳らかである。曰く、死後その文字を巖谷小波が記せりとの事。

 南岳の墓の右隣には中村家墓誌。その更に右隣には中村家乃墓があった。これは南畝が妾の末裔の姓である。南岳には大ともう一人、某女があった。思うに、彼女が後に中村家に嫁ぎ、その姓を冒したという事ではあるまいか。正面には「中村得中舎歴代」、側面には「昭和十八年六月八日赤坂區/霊南坂常國寺ヨリ改葬ス」とある。つまりこれは大田南岳の墓標が建ち、しばらくしてこちらに来た事となる。墓誌には大田南岳を含む四名が記載されていた。先に記した大田家と同様の書き方をすれば次の通りだ。


   大正六年 七月十三日 大田 享 行年 四十三才

   昭和二年 七月二十九日 中村 中 行年 二十三才

   昭和十二年 八月十六日 中村 俊 行年 六十才

   平成十八年 二月六日 中村 〇〇 行年 九十七才


最も後の人のみ女性である。彼女は平成十八年に亡くなった訳であるが、そこから割り出せる出生年は一九〇九年、つまり明治四十二年。大田大との年齢差はおよそ二十二才、南岳との年齢差は三十六才。明治後期の婚姻状況については詳らかではないが彼女が南岳の娘にして大の妹の可能性はなきにしもあらず、だ。と、すると「南岳には大ともう一人、某女があった」と書いたが、この某女こそ平成十八年に亡くなった彼女なのではあるまいか。

この掃苔を経て、新たなる疑問が湧いた。

まず何故、大田家の墓ではなく「太田」家なのか。次いで、大田の墓を建立した「大田稔」とはどの様な関係性にある人間なのか。そして、何故大田南岳以後の南岳系一家はかつての妾の末裔たる中村姓を冒したのか。最も大きな疑問は吉川弘文館より出版されている『(人物叢書)大田南畝』の作者・浜田義一郎が前に挙げた著作の中で「今回この書を執筆するに際して、わたしは子孫に会いたいと思って本念寺の住職に消息を尋ねたが、墓は無縁となっており、住所はわからなかった。」(浜田 1986 pp.249)はずであるのだが今回の探墓では無縁ではない事(最近、埋葬された方がいるという事から)がわかった。

私は頭に満ちた疑問は棚上げにしながら、礫川を後にしたのである。

 (了)

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