ブログにおける改行馬鹿とハイテンション馬鹿

こんにちは、クミハチです。気分が滅法いいので玄米茶の水出しを飲みまくってキーボードをたたいています。

かねてより僕は素人プロにかかわらず人の書いた文章を読むのが相当に好きです。ほうぼう幅広く人の文章を読みあさっているうちに、めいめい書き手の文癖(ぶんへき)について感ずるところ多く、いきおい一家言らしいもの、というより愚痴不満のようなものを抱くようになりました。今日はそれについて散漫熱心傲慢の気象を以てあげつらうつもりです。

まずもって僕の非常に好まぬ癖は、改行過剰のものです。改行とは本来文章の仕切り直し、ギアチェンジ、空気の入れ替え、いったい様々の比喩が思いつくけれど、要は文章の息継ぎです。「ところで次に」という転換の含みがそこにはあります。毎行改めてある文章には落ち着きがないばかりかそもそも自己冒涜的な醜さが絶えないものです。挙動不審、多動症、始終ウロチョロしていて、腕利きの万引きジーメンに確実に目をつけられるタイプです。巷ではPV稼ぎだとかリーダビリティー重視だとかもっともらしい説明がささやかれてはいますが、この改行過剰に由来する浅ましさと醜さとを埋め合わせるようなメリットを、僕はどうしても思いつきません。甚だしいときには二三行開けることさえ珍しくないでしょう。いくら日本的美学が無の空間を重んじるとはいえ、これではあんまり無節操で知性に欠けます。一丁前にリーダビリティーだのリーダーフレンドリーだの不細工なカタカナ英語を云々する暇があるなら一回でも完成したおのれの文章を読みかえしてみろと叱りたくなる衝動を僕は抑えることができない。これのどこが読みやすいんだ大ばか者、無駄にスクロールさせて内容はスカスカ、一文一文は拙劣無比、心にも記憶にも残らず、空しい読後感に浸るばかりです。

譲るつもりないけど百歩譲って、改行馬鹿の彼彼女らが、改行なしでつらつら書き続けると「読者が離れていく」とでも思っているのであれば、それは読者を馬鹿にし過ぎというものでしょう。そもそも書き手本人が「改行頻度のまともな文章」を読みなれていないからこそ、そうした文章作法を採用するのです。ただこれが全体からみると悪循環をなしうることは言うまでもありませんね。書き手が読者の読解力の高を括っているうちに、もともと並みの知性を持った読者も「舐められていること」に慣れてしまい、気がつけば読者軽視の駄文ばかりが幅を利かすようになる。「優れた書き手」も読者の知性を低く見積もる誤った習慣を付けてしまうと危険だ。改行の必要もないところで、「これだけ文章が列なると読みにくいかしら」とかわざわざいらぬ気兼ねを起こして、あの馬鹿改行を繰り出してしまう。この愚かなるループから抜け出る手段はひとつ。書き手は読者の読解力を信じること(改行馬鹿の文章しかまともに読めないような低読解力の読者はあなたに相応しい読者ではない、と切り離すことは必ずしも非情なことではないだろう)。読者も舐めた書き手の文章からは静かに立ち去ることだ。読者を自分と同じレベルに設定する書き手の傲慢さについてはかねがね腹に据えかねていたので、声を荒らげたいことはもっとあるけれど、この怒りの発散はまた別の機会に回します。

それでは改行はどのタイミングですればいいのか、という話になると実は難しい。文章作法が十人十色で、最初から最後まで一行も改めない猛者もいれば、実に厳格な自己ルールを堅持している人もいます。優れた文章作法は、一個の思想なのですよ。世の大多数の改行馬鹿には思想などないのが普通です(何か特別の戦略的意図をお持ちならごめんなさい)。そこにアクロバティックな詩的効果を期しているとも思えないし、改行自体に特殊な文学的含意があるとも思えない。こうしたお馬鹿タレントのブログみたいな改行作法が知らぬ間に伝染して猫も杓子も真似するようになった。「活字メディア」ではこの種の無思想の改行作法は殆どありえなかった。第一編集者の「良識」が許さない。読者の「美意識」が許さない。なにより書き手の「職人意識」が許さない。

とはいえ僕は活字外メディアの悪口を言い立てたいのではない。事実その恩恵を多大に受けて来たし今現在も被っている。玉石混交の石の占める比率が多い気がして、ただそのことを率直に指摘したいだけです。有象無象がウェブ上に文章を書きちらすことを可能にした情報インフラの功罪を直視したいのです。こう書きながらも僕自身が玉石の石に該当する心持ちがして些か気が気でない思いをしておるのですが、なにぶん読者を舐めた態度で遇することだけはしていないつもりですし、読む側にわずかでも鮮鋭な印象や知見を残せるものならと日夜脳髄を振り絞っているつもりです(若干世人の歯を浮かせるに足るセリフだね)。

思うに、活字離れを憂うる言説は昔から数多くあるけれど、活字を日ごろ殆どを読まない人々もその実インターネット上の「文章」には大量頻繁に触れているのです。ラインからフェイスブック、ツイッター、Eメール、キュレーションメディアのニュースサイトから各種ブログまで、「活字」以外の文章をのべつまくなし浴びています。僕は読書にまつわる統計調査に興味がないし、いわゆる「活字離れ」の真偽や実情について考えたこともありません。ただ僕の皮膚感覚では、活字外メディアの影響力がこの頃圧倒的に優位になっている実感は受けます。威勢だけは一流の「政治的主張」の「ソース」が実はウェブ上のガセネタであるという恐ろしいケースも年々目立ってきているし、ツイッター上ではタチの悪いプロパガンダ用のアカウントやうっぷん晴らしの掃き溜めアカウントが猛烈な勢いで発生しています。以前だと「情報リテラシー」といえば情報入手のノウハウを漠然と意味していたけれど、現在では、欲してもいない膨大な情報をいかによく腑分けするか、という見分けのテクニックを指すようになっています。なにしろスマホ飽和社会ですので、生活圏内は情報過剰、知りたくもない芸能人の婚約からアメリカ大統領の暴言まで、常に上っ面の「好奇心」が刺激されています。この情報リテラシーについては、いずれまたべつのところで詳述いたします。

そういえば僕がいま拙文をものしているこの場所も立派な活字外メディアですね(ハイレベルな書き手も多く参加しているためかウンザリするような改行馬鹿は案外少ないようですけれど)。要するに、問題は「現代人の活字離れ」ではないんです。あえて問題の所在を命名するなら「現代人の駄文慣れ」とすべきです。ずいぶん意地悪い響きがしますが、本質の点を衝いていると思うのです。鴎外や漱石の文章はそっちのけでアイドルのツイッターや、SNS上の同世代間の馴れ合いに識字能力の大半を投入しているわけだから、改行馬鹿の大量発生も無理からぬことです。文章において「少しだけ気取る」という「高級」な作法を身に付ける喜びを知りません。そしてそういう喜びを教える人物も機会も多くありません。もっともこの「気取り」の作法は諸刃の剣で、それが過剰になると当然「鼻につく」ことになるわけですが、ともかく、美文なり秀文を推敲してこの「思い」を何とか表出してやろうという文章の彫琢精神なくして「修辞法」の発展はありえないのです。文学青年であればだれもが一度は好きな作家や贔屓の学者の文癖を模倣したことがある(に違いない)。僕は小説家の埴谷雄高や仏教学者の鈴木大拙、言語哲学者の井筒俊彦の著作物を熱心に読んでいた間、彼らの文体を知らずのうちに模倣していました。たとえば漱石時代の口語体小説でも沢山読んでいると、自然に、「頗る愉快である」「余は暗澹たる心持ちである」「昨朝余の陋屋に甚だ厄介な珍客が参った」みたいなこれ見よがしに大時代の語法をつい使用したくなります。勿論猿まねの域を出ませんけれど、こういうところに推敲癖の萌芽があるのです。「言葉」を選び「文章」を捻る、という知的遊戯の萌芽です。こんなのは好き者同士でやるに限りますね。

もう一つハイテンション馬鹿という文癖があります。きっとあなたにも身に覚えがあるでしょう。

「精読ありがとうございます!」「いまこの加湿器が売れているんです!!!」「な、な、なんとこの二人結婚してたんです!」というふうな面白味の薄い空元気だけで最初から最後まで文章を書き連ねている、例のあれです。大抵の場合このハイテンション馬鹿は改行馬鹿も兼ねています。この双子はいつも一緒に発現するといっていいでしょう。ハイテンション馬鹿の一番の問題点は、無教養無内容無品格が丸出し全開になってしまっていることではありません。馬鹿には馬鹿なりに愛嬌やユーモアがあれば愉快になることもあるので、馬鹿騒ぎという作法自体に問題であるのではない。そうではなくて、ハイテンション馬鹿を一つ覚えにしてしまうと、どうあがいても、そのつど自分の扱う「言葉」に強い喚起力を持たせることができないのですよ。いつも上滑りの空回った元気で文章を綴っているものだから、肝心要の時に強調語法を有効化することができない。考えてみればわかるでしょう。のべつまくなしに躁状態の俳優が「絶望から蘇った歓喜の瞬間」を演じられるかね。一文ごとに改行する書き手が肝心な契機で改行効果を活用できないのも同じ。緩急自在の投法と最も縁遠いところにハイテンション馬鹿はいるのです。

およそ改行馬鹿もハイテンション馬鹿も作文作法上きわめて怠慢で、読み手に対して僅かばかりの敬意も持っていません。この点だけでもこれらはすこぶる悪い見本だ。「文章を練り上げる」という大変に知的活力を要する(と同時に知的快楽も保証する)プロセスを改行という単純作業でパスする。論理構成や語彙の貧困やレトリックの欠乏をすべて空虚なハイテンション一辺倒作戦でごまかす。こんな貧困怠惰な作法でつくられた文章が読者をショックで打ちのめせるはずがないし、微細な心的感官に分け入って不思議な悦楽を生み出せるとも到底思えない。ええ絶対にそうは思えません。

ではまたね。

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