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「優しくて強い男」という神話的他者類型について

優しい男に抱かれながらも強い男を想うのはジュディ・オングだけではない。私もむかしから中性的で優美な顔をした男をすこぶる好むものだけど、それと同じくらい逞しくて頼りがいのある男にも惹かれる。しかもその男が尋常でないほど美しいならもう拝跪しない理由がない。

人間の美しさはまことに得難いし定義もしにくい。にもかかわらず大抵の人は美しい人間という対象に反応できる。男であれ女であれ、「肉体の美的価値」に対するセンサーが先天的に備わっているのではないかとこの頃とみに思う。本心から頼れるものなど無いこの不安的極まる残酷世界の只中にあって、どこまでも無限に甘えられる「美しき絶対的他者」を心のどこかで止め処なく志向しているのだ。美しい表象は確かにそれだけで人を慰める。それはひとつの独立した美的実現であり、さながら肥溜めの水仙の如きものなのだ。この地獄世界にこんなに「神々しい顔」を持った「人間」が存在しているのか、この世界も捨てたものではない、これほどの眼福に与れたのだからきっと自分は救われる、と祝福を感じられる人も数多あるのでないのか。ここには明らかに宗教感情に似た「飛躍」がある。けれどもこうした「飛躍」なくして人はこの世を愛せないし至福にも与れない。

「優しさ」と「強さ」。この二つの美点を完全に兼ね備えた人間なんか地上にはほとんどいないだろう。男も女も自分大好きのヘタレ人間ばかりだからだ。全くいないといっていい。どちらか一方を持った人間さえそう多くない。男に限っても同じことだ。現に生きている人間の本質はその不完全性にあるのだから。地上は意地悪く弱い上に醜い人間たちで満ち溢れている。これが「自然」の摂理なのだ。自然は基本的に醜いものだし残酷なものなのだ。自然がもともと美しいのなら化粧産業がこれほど巨大になることはなかっただろう。

だから「オタク」や「腐女子」が麗しき創作世界に没入するのも無理はない。こうした欲情領域に全身全霊身をあずけることが出来る人々こそ、本当の「リア充」というべきだろう。残念ながら大半の人はそこまでアクロバティックな知性に恵まれていないから、「現実世界の恋愛」を第一に求めてしまう。これは本当に嘆かわしいことと思います。

私は、「実在しない他者」への恋愛感情こそ何よりも崇高なものだと考えている。崇高という言葉がもし仰々しく響くなら至福と言い換えてもいい。どっちみち恋愛を恋愛たらしめるのは一貫して妄想ないしは勘違いなのである。最初から最後まで虚偽が支配しているのだ。世俗の恋愛などというものは「恋人」同士が己の理想を過剰に投影しあう一種の駆け引きであって、「純愛」なんか万に一つもない。いずれ失望と幻滅が待っているのはほとんど必然であって、それゆえ「幸せな恋愛」など語義矛盾でしかない。「幸せな結婚」と言うのと同じくらいそれは激しい語義矛盾なのだ。こんなことはある程度年齢を重ねた人間なら誰でも痛感しているところだ。どこかの有名タレントの「トイレ不倫」ごときで目くじらを立てている連中も内心ではそんなこと知り抜いている。人間は不幸の本当の味を知るために恋愛をするのだし結婚をする。いい加減そのことを知ってくれ。

私がここで言いたいのは、「実在しない他者」への猛烈な恋愛感情がその人の根底にあるなら、かりに世俗的恋愛関係が惨めに破局したところでほとんど問題にならない、ということなのだ。「本物の恋愛感情」は「本物の他者」にこそ抱くべきなのだ。神でも菩薩でも何でもいい。いずれにしても虚構なのだ。虚構もそれくらい大きくなれば「実在」と変わらない。もし彼彼女が不完全で気まぐれな「実在他者」への恋愛感情しか持てないとすると、その人は生涯を涙の谷で生きることになる。実在他者本位の恋愛は必ず裏切られる。裏切られるのが好きなマゾヒストはそれでもいい。ただ私は毎日を幸福な気分で生きていたい。その為には「非実在の他者」へと我が身を預ける至福経験が絶対に必要なのだ。その他者は「優しさ」と「強さ」を兼備し、いつも自分を「どこからか」見守っていてくれる。そうした観念だけでこれまで私はどれだけの辛い夜を乗り越えてきただろう。

「優しさ」というものを私は象徴的次元において「非男根的性格」として捉えている。反対に「強さ」は「男根的性格」だ。それゆえ「優しいのに強い男」は、「非男根的かつ男根的存在」なのだ。これら二つの価値がもし相互排他的関係であるなら、非男根的かつ男根的存在というのは明らかに「矛盾」を体現していることになる。まさしくそれは神話的存在であり、不可能性の存在であり、それゆえにこそそのような観念は私(人)を限りなく魅了させるのだ。

かつて私はあるスーパーの美しい青年アルバイターの「菩薩的姿形」の中にそうした「両極価値」を認めた。彼の「可視的な肉体」を通して私はもっとはるかに高度な「イデア」に与っていたのだ。そうとしか考えられないくらい私は彼の姿に魅了された。彼の風貌を追想する度に動悸が止まらなくなるし、暫くのあいだ至福の香気に包まれる。彼は「ただの人間」ではなかった。こんなことはギルビーウォッカの一瓶でも空けないと人には言えないのだけど、実は誰もがそうした至高の記憶を大事にしているのではないかと思う。私の「実感」が奇抜に思えるのなら、中期プラトンの対話篇である『パイドロス』と『饗宴』を紐解いてみるといい。そのようなエロス賛美論が実に「大胆な仮説」のもとで堂々展開されている。これ以外のプラトンの著作は詰まらないけど、この二作品だけは格別に面白い。この場を借りて推奨します。

他の人はどうか知らないが、私が「男の優しそうな顔」に惹かれるのはどうにも抜き難い「性癖」なのだ。「優しそうな顔」というのは言葉にすると甚だ曖昧なのだけど、「経験」としてはこれ以上ないくらいはっきりした実感を伴うものなのだ。「この男なら自分にひどいことをしない」と全身で信じられる顔といっていいい。とにかく観念においてそう信じられるだけでいいのだ。私がここまで「優しさ」に惹かれるのはどうしてだろう。しかもどうしてそれが男でなければならないのか。

小学校時代、私は不器用虚弱な子供で、クラスの手荒い男たちによくいじめられていた。ことあるごとに泣いていた。どちらかという私は女子生徒のほうと仲良くしていた。その頃の自分にとって、男は「乱暴な他者」である場合が多かった。だから、「優しい男」は私の念願の他者だったのだ。しかしいくら理想の彼が優しくても、それだけでは弱い自分を完全には守ってくれない。そこで「強さ」という「対立価値」も要請され、付加される。どこまでも優しくて限りなく強い男など勿論実在しない。けれどもその実在しない他者を何らかの「表象」を介して愛していたい。その表象の足掛かりとして、先の青年アルバイターの出現は格好だった。彼くらい「優しそうな顔」をした男を見たことがなかった。彼の風采の知覚を通して私は、「優しくて強い男」という「非実在の他者」を内に宿したのだ。それ以来、「彼」に対する恋愛感情は一時も止んでいない。それは崇拝といってもいいし、無限の依存感情といってもいい。結局のところ同じことなのだ。

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