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「短編小説」蒼い月は見ていた

子供の頃に描いた月は、まんまるで黄色かった。
大人になって『蒼い月』と言う言葉を耳にする。
蒼い月って、どんな月?
多分、こんな月…



すー、すー、すー
かすりの着物が板廊下を滑る音がする。
(まただ…)
ゆきは自分達夫婦に与えられた六畳間の和室から、姑の這うこの音を聞くのが嫌いだ。
ゆきの姑は心臓が弱いといって昼間は寝て暮らしている。夜になると起き上がって、這って家の中を動き回る。それは厠へ用足しだったり水を飲みに行ったりなのだが、まるで自分がいたらない嫁だと言われているような気になってしまう。もう何年も寝たきりで足が弱ってしまっているからなのだろう。

すー、すー、すー

ゆきが、この家に嫁いで来たのは半年前だった。村役場の山下さんの紹介でこの家の長男の忠行と見合いをした。縁談はとんとん拍子に進み、結納の席で初めて忠行の母、姑のトメが寝たきりだと知らされた。
昭和の戦乱が終わって直ぐの時代だ。
物もないが、五体満足の若い男も少なかった。
話が違うと縁談を破談にする勇気は、ゆきにはなかった。

「お義母さん、ご飯の支度が出来ましたよ」
「ゆきさん、いつもありがとう」
トメは、そう言うと敷きっ放しの平たくなった蒲団から起き上がり身繕いをする。
茶色の着物の前を合わせ、殆ど白髪になってしまった髪を手櫛で整えた。
お粥と梅干し、沢庵と大根の味噌汁だけの粗末な膳に向かって姑は仏様を拝むように手を合わせた。
それから前歯が何本か抜けた顔で、ゆきに優しい笑顔を返した。
「今日は矮鶏がたまごを産んでくれてなくて…」
「いいんだよ、戦時中に比べたら立派なご馳走だ」
姑の部屋はカビと病人特有の匂いで充満していた。
蒲団だけでも天日に干してあげたいのだが、物がない時代に替えの蒲団が、この家にはなかった。
「じゃあ、お義母さん、召し上がったら呼んで下さいね」
「はいよ」
ゆきは後手に障子を閉めると深呼吸をした。
障子一枚で隔てた外廊下の澄んだ空気が、ゆきの身体を包み込む。
土間の台所に戻ると釜戸の上に乗った飯炊釜が、しゅーしゅーと湯気を立てていた。今度は働きに出掛ける舅と夫の朝食の支度をしなければならなかった。
それが終われば洗濯板で家族の汚れ物を洗わなければならない。
あぁ、飼っている裏の矮鶏達にも餌をあげないと…
たまごを産んでくれないとゆきは心なしか自分が責められているような気になってしまう。

毎日毎日が、その繰り返しだった。
忠行は優しいだけが取り柄のような夫だった。心臓の弱い義母が命懸けで産んだ一粒種の息子…
大切に育てられたのだろう。戦地から無事に還って来た時の両親の悦びようを想像するとゆきは思わず顔がほころんでしまう。
(どんなにか嬉しかった事でしょう)

ゆきは雑巾を固く絞って、外廊下を何往復も拭いた。
「あら?」
夫婦の寝室に使っているゆき達の和室の障子に小さな穴が空いているのを見つけた。
「貼らなくちゃ」
釜の底に残った飯粒を集め、水に溶かして糊を作る。ゆきは障子紙を花の形に切って小さな穴を塞いだ。


「あ…」
夕飯が終わり、洗い物を片付けたゆきが部屋に戻ると忠行はいつもゆきを求めてきた。
「好き」だとも「愛している」とも言わない。ただ、ゆきを抱くことが忠行の好意の表し方だった。
「あら?」
寝間着に着替え、既に寝息を立てている忠行の隣に入ろうとした時だった。
ゆきの目が障子にまた小さな穴が空いているのを見つけた。
「おかしいわね…先日、塞いだばかりなのに…」
あまり気にも止めずに枕元の灯りを吹き消した。
小さな穴から月光が熱気の残る寝室に一筋射し込んでいた。

障子の穴は塞いでも塞いでも、また何処かに一つだけ現れた。

すー、すー、すー

夜中に這い廻る姑の着物の擦れる音がする。
お義母さん?お義母さんが覗いているの?
私達のあの行為を…
ううん、そんな事、そんな事あるはずが…

すー、すー、すー

耳を澄まして聞いてみても、廊下を擦る音が聞こえてくるのは、いつも厠か台所の上がり端に置いた水瓶の前の辺りだけだ。
歩けない姑が此処まで来られるはずがない。
ゆきは優しい姑を疑った自分を恥じた。


障子の穴を塞ぐのも諦めた頃、ゆきは家族が使った食器を土間の台所で洗っていた。ふと目を落とすと釜戸にまだ僅かに火がついた薪が残っていた。
洗い物をする手を止めて、その薪を火焚べの薪バサミで掴みあげた。
暫く薪を見つめてから、姑の寝る部屋の障子めがけて投げ込んだ。

ゆきは前掛けを外すと木戸を開けて走り出していた。驚いた矮鶏がけたたましい鳴き声をあげる。

嫌だ嫌だ嫌だ〜〜

裏山へ向かって走る、走る。
走りながら振り返ると
「ぎゃーーーーー」
燃え盛る家から奇声を上げて誰よりも早く逃げ出してきたトメの姿が見えた。

金木犀の香りの中を裏山に辿り着いたゆきは、火の粉の上がる家を見て冷たく嘲笑った。

蒼い月だけが、その様子を見ていた。





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