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自意識過剰、万歳。 #tokyo2020

あの日、オリンピックの開会式を中継したテレビ画面に、手話通訳者のワイプ映像が映らなかった

ピクトグラムの演出で沸き上がり、長嶋茂雄さんが聖火を持って走る感動に包まれたあの開会式の最中、複雑な気持ちを抱えた人たちが、確かに存在した。わたしたち聴覚障害者の中にも、複雑な思いをもった人が少なくないだろう。

わたしの記憶の中で一番古いオリンピックは、2000年のシドニーオリンピック。当時わたしは小学1年生で、担任の先生やクラスの友達が「オリンピックだ!」という話題についていきたい、くらいの感覚でテレビを見た気がする。

あれから今回の東京オリンピックまで、開会式の映像に手話通訳がついたことは、一度もない。少なくとも、日本では。そういえば、去年の春先に緊急事態宣言が出されて、毎日のように会見が開かれるようになった頃、やっと手話通訳者が画面に映るようになった

先行きが見えない中、手話を第一言語とする人たちや字幕だけでは映されるグラフと文字にタイムラグが出てしまって理解が追いつかない手話も使う聴覚障害者にとって、うれしい出来事だったことを、よく覚えている。

でもあれは緊急事態だったからであって、普段のバラエティ番組やドラマ……どころか、日常のニュースに手話通訳者が映らないことは、わたしたちにとってあまりにも普通のことだった。

それだからだろうか。今回の開会式の中継を見ていても。その画面に手話通訳者が映らないことに、実はわたし自身なんの疑問をもたなかった、というのが正直なところ。

でも、いつもわたしのきこえを知ろうとしてくれる友人たちは、違った。開会式の中継を見ながら、モニターに手話通訳者が映っていることを確認してポロッとこんなことを呟いていた。

会場には、確かに手話通訳者が派遣されていた。でも、ワイプで映るわけではないから、わたしたちが読み取ることは、できなかった。

ちなみに、

韓国や台湾、それからカナダでは、開会式の中継に際して、その国の手話通訳者がワイプでテレビに映っていたらしい。開催国は、タイムラグたっぷりの字幕が付いただけだったというのに。

でも正直、憤るとかそんな気持ちはなくて、純粋にびっくりした。「娯楽」にも手話通訳が付くのか、と。今ではだいぶタイムラグが減ったけれど、昔はお笑い番組だって字幕がつかなかったり、ついたとしてもタイムラグがあったりしすぎて、全然笑えなかった。

でも、それが当たり前すぎて気づいたらお笑い番組をつけることはなくなっていたし、ニュースやオリンピックの開会式の字幕表示に時差が生じることも、「しょうがない」としか思っていなかった。

ちなみに、国歌斉唱なんて「国歌斉唱」と文字が出ただけだったし、それ以外も「音楽」と表示されるだけで、どんな歌詞が流れていたのか、その曲がこのオリンピックとどう関係があるものだったのかは、分からないまま終わったのもまた事実。

それでも。この大会のビジョンのひとつには大きく「多様性と調和」が掲げられていたわけで。

この日本に住む、約八万人の手話をコミュニケーション手段として用いる人たちが、あの瞬間、日本国民として開会式の内容を理解することができなかった。これのどこが「多様性と調和」なのか。

「字幕が付いていたんだから、いいじゃないか」なんて声もあったけれど、手話を第一言語とする人たちにとって、文字の日本語は第二言語にあたる。テレビに英語の音声と英語字幕しか映らなかったとしても「英語字幕があったからいいや」と言えただろうか。

なぜ「多様性と調和」を掲げた日本のテレビで、手話通訳者がワイプ画面に映されなかったのだろうか。

他国の現状を知って、手話通訳を介して、世界と共にあの瞬間に発せられた各国の音声情報を知ることのできる世界線を知って、正直とても複雑な気持ちになった。

これから先、閉会式・パラリンピック……とまだまだ #tokyo2020 は続いていく。ちょっとずつでもいいから、わたしとわたしの周りの世界が気付いてくれたように「多様性と調和」が実現していったらいいな、と願うばかりだ。

まぁでも、祈ってばかりもいられないので

お問い合わせフォームだって用意されているし

こんな要望が、聴覚障害者として出された。

わたしたちも日本国民のひとりとしてあんなに湧き上がった開会式の内容によりタイムラグの少ない言語で参加したかったし、これから先深刻なニュースだけでなく、嬉しいニュースや感動するニュースも、いち国民として知ることのできる世の中になってほしい

それを、ひとりひとりが言葉にしていくことが、必要だ。

少なくとも、音のない世界に生きるわたしの後輩たちには「娯楽はついていけなくてもしょうがない」なんて思わない世界線に生きてもらえたらいいなと思っているからね。

そんな世界になって欲しいから、わたしはこんな真面目な話を2,000字近くかけて書いてきた。

がしかし、正直な話、わたしの周りの人たちが「これじゃあ手話が見えないよね」「ワイプがあれば、いいよね」と声に出して言ってくれたのが、とってもとっても嬉しかった。そのときに、一瞬でもわたしの顔を思い浮かべてくれたのかもしれないと思うと、嬉しくて正直手話通訳が画面に映っていないことへの疑問が、一瞬だけでも確かに吹っ飛んだのもまた、実際のところ。

自意識過剰、万歳。

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