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産業ストレス学会発表:コロナ禍で考えた産業医のリスクコミュニケーション

■リスクコミュニケーションという視点

 コロナ禍におけるリスクコミュニケーションについては以下のような機会に発表してきました。

・2020年 産業カウンセリング学会(現在はキャリア・カウンセリング学会に改称):リスク・コミュニケーションから考えるコロナ禍における産業医の役割(資料1)
・2022年 アディクションと家族37巻1号 巻頭言:コロナ禍で考えるリスク・コミュニケーション(資料2)
・ヒューリスティックな判断に気をつけよう(JES通信【vol.144】2022.03.10. ドクター米沢のミニコラムより)(資料3)
・2022年 交流分析学会:自我状態の構造分析から考えるコロナ不安、フェイクニュース、陰謀論(印刷中)(資料4)

 産業医として考えたこと、心がけたことをこのような形で整理してきたのですが、産業領域の学会発表を見ていると、コロナ禍のリスクコミュニケーションに関する研究報告がほとんどないようなのです。そこで、焼き直しにはなってしまいますが、企業のBCP(事業継続計画)に関わる産業医のリスクコミュニケーションの意義を改めて報告した次第です。

 発表では情報を発信する側の問題と受け手の側の問題に分けて議論しました。受け手側の問題は資料3、資料4で詳しく議論してきましたが、発信する側の問題を公にする機会があまりなかったので、発表内容を踏まえ少し詳しくご紹介します。

■情報を発信する側の問題

1.2020年3月にはウイルスの特徴と主な対策がわかっていた

 2020年の元日に、武漢の海鮮市場が閉鎖されたというニュースが飛び込んできました。これはただならぬことが起こっている!と感じました。年明け早々には専門家の会議が招集されるのだろうと思っていましたが、第1回アドバイザリーボードが開催されたのは2月7日で、新型コロナウイルスに関する科学的な情報は、厚生労働省などの公的機関からまったくといっていいほど得られず、感染症専門家のSNSや医療ジャーナリストの記事を頼りに情報を集めるしかありませんでした。2月半ばに中国4万6千人の感染報告から、感染者の80%は軽症だが、5%が重症化し、致死率は2.3%、高齢者や基礎疾患のある人のリスクが高い、といったコロナの特徴が見えてきました。その時浮かんだのが、「運が悪ければ死ぬかもしれない」という思いでした。その後初期の北海道の調査で、感染した人の80%は他の人にうつしておらず、残りの20%の人が感染を広げたことがわかりました。その感染を広げやすい条件が有名な三密(密閉、密集、密接)、すなわち換気の悪い密閉空間や多数が集まる密集場所、間近で会話や発声をする密接場面だったのです(資料5)。この三密の概念は世界レベルの発見・発信と言われており、2020年7月にはWHOも採用しています(資料6)。現在流行しているオミクロン株は初期株よりも感染力が強くなっていますが、三密対策が重要であることは変わりありません。

2.世間は何が正しいのかよくわからない状況だった

 このように2020年3月には現在でも有効なコロナ対策がある程度見えてきていたのに、国は「一斉休校」「布マスクの配布」といった的外れな対策を出しました。「ステイホーム」というメッセージも強烈でした。アパートメントにこもって手を振るイタリアの人たちの映像とともに有名になりましたが、三密の妥当性から考えれば「やり過ぎ」のメッセージであり、必要以上に人々の不安を煽ったのではないかと思います。また「2mのソーシャル・ディスタンス」と言われ、「通勤電車はどうすればいいんだ!?」と戸惑った人は少なくないと思います。コロナ禍初期は真偽の不確かな情報が飛び交い仕方がない面もありますが、国は早い時期から妥当性の高い情報を持っていたにも関わらず、生かし切れなかったと言わざるを得ません。さらにパンデミック、クラスター、オーバーシュート、ロックダウン、エアロゾル、ロードマップ、ウィズコロナなどのよくわからない横文字が、人々の混乱に拍車をかけたように思えます。人は、「自分がどう行動すれば安全なのか」がわからないから不安になり、ある人は家に引きこもり、ある人は過剰な感染対策に走り、ある人は「コロナはただの風邪」と強がるのです。

3.正しい情報発信は人々をエンパワーする

 感染症対策は企業のBCPの重要な柱の1つですので、産業医として毎月の安全衛生委員会で、新型コロナウイルスに関する情報を発信し続けました。ある企業では衛生委員だけでなく従業員全員にレクチャーを行っていたのですが、最初の緊急事態宣言が解除された2020年5月末のセッション終了後に、従業員から「楽しかった!」というコメントが複数あり驚きました。こちらは正しい情報を探すのに必死でしたから、楽しいとはどういうことだろう!?とビックリしたわけです。さらに翌日に保健師さんが、従業員からこんなメッセージが来たと教えてくれました。「昨日のセッションはとても良かったです。先生が全ての質問にデータに基づき真摯に答えていて、理屈っぽいうちの会社の人たちが大人しく聞いていたのが大変印象的でした。過度に安心させたり、ビビらせたりすることが無く、流石の専門家のお話でした。なので、今日はとても気分が良いです。ありがとうございました」。このメッセージを読んで、自分の苦労が報われたと感じるとともに、妥当な情報を伝え続けることがいかに大切かを痛感しました。

 妥当な情報を得るとなぜ安心するのでしょうか。1つには怪しい情報によって曇らされていた、「世間を眺めるメガネの曇りが取れ視界がよくなった」ということがあるでしょうし、もう1つは自分がどう行動すればいいかわかる、つまり自己効力感が回復したと言えるのではないかと考えています。そして正しい情報発信は人々をエンパワーするのだと確信しました。これこそがリスクコミュニケーターとしての産業医の役割ではないか、と感じたのです。

4.リスクコミニュケーションの6つの原則

 リスクコミュニケーションの重要性に気づいた私は、吉川肇子氏や岩田健太郎氏、西澤真理子氏などの文献に目を通しました。中でも岩田氏の「『感染症パニック』を防げ! − リスク・コミュニケーション入門」(光文社新書)はいろいろ勉強になりました。医師の診療行為そのものが実はリスクコミュニケーションだったと認識しましたし、2009年の新型インフルエンザ騒動をめぐる記述に至っては、今回のコロナによる国内の混乱を予言していたかのようで驚きました。そこで岩田氏の本の要約を試みたのですが、どうもうまくまとめられません。もう少し簡単にリスクコミュニケーションのポイントを整理できないものかと悩んでいたところ、日本渡航医学会・日本産業衛生学会発行の「職域のための新型コロナウイルス感染症対策ガイド」が第2版に改訂され(2020年6月4日)、米国CDC (Centers for Disease Control and Prevention)による「リスクコミニュケーションの6つの原則」が掲載されたのです(表1。資料7、8)。私が求めていたものはこれです!

表1 感染症の危機緊急時におけるリスク・コミニュケーションの6つの原則(米国CDC)

1.Be First(速やかに共有する)
  情報を伝えるだけでなく、「誰が」伝えるかが重要である
2.Be Right(正しい情報を)
 「分かっていること」と「分かっていないこと」の両方を伝える
3.Be Credible(信頼を得る)
   「科学的に根拠のある情報」が受け手の信頼を高める
4.Express Empathy(気持ちに寄り添う)
  受け手の視点に立って情報を伝える
5.Promote Action(行動を支える)
  一人ひとりの行動が感染予防につながることを強調する
6.Show Respect(相手を尊重する)
  相手の立場や権利を思いやる伝え方を心がける

 この中でも産業医のリスクコミュニケーションとして特に重要と考えたのが、1の「速やかに」と、2の「正しい情報を」、そして4の「受け手の視点に立って」の3つです。

a)速やかに
 情報を速やかに出すことと正しい情報を出すことは両立が難しく、リスクコミュニケーションにおいては永遠の課題と言えます。しかしどちらがより重要かと考えると、多少間違っていてもいいから速やかに情報発信する方が重要だと私は考えますし、6項目のトップに位置づけられているのも、そういう意味だと思っています。たとえば津波警報なら、「高いところへ逃げろ!」というメッセージを素早く出すことが重要で、津波の高さを計算していたら警報を出し遅れた、では話になりません。

 情報発信が遅れると受け手は何をすればいいのかわからなくなり、不安になります。そして何か不都合なことが起きているのではないか、何か隠しているのではないか、というように勘ぐられ、信用を失っていきます。エデルマン・ジャパンが2020年4月に行った世界11カ国、約13,200人を対象とした政府の信頼度に対する調査によると、コロナ後に政府の信頼度が低下したのは日本だけだったそうですが(資料9)、現在のワクチンやマスクをめぐる混乱を見ていると、この問題が尾を引いているように思えてなりません。

 これには「無謬(むびゅう)性の原則」「無謬性神話」という日本の官僚機構の特性も関係しているかもしれません。「ある政策を成功させる責任を負った当事者の組織は、その政策が失敗したときのことを考えたり議論したりしてはいけない」という信念があるそうです(資料10)。確かに失敗したら責任問題になるかもしれません。しかし、「間違いがあるかもしれない情報は発信しない」という考えに縛られたら、迅速な情報発信など不可能でしょう。しかし一方では、我々が確実性を求めすぎる面があるのかもしれない、と考えたりします。これも行政と市民の「信頼感」の問題なのかもしれません。

b)正しい情報を
 今回のコロナのような未知の感染症では、調査研究が進むにつれ次々に新しい事実がわかっていきますので、わかっている事実だけでなく、現時点ではわかっていないことも伝えていくことが重要です。さらに新型コロナウイルスはどんどん変異し感染力や毒性が変化するので、継続的な情報の更新が必要です。

 ただ情報が多すぎると「消化不良」になって、情報収集を拒否してしまうことが起こりえます。すでに多くの方が、「コロナはもういいよ」という気分ではないでしょうか。しかし情報のアップデートを止めてしまうと、古い対策のまま行動し、本人は不利益を被ることになります。こういった状況を防ぐためには、信頼できる機関・人が、節目節目で、最新の情報を発信する必要があるのではないでしょうか。表1の原則その1の注意書きに記されていますね。「とりあえずあそこ(あの人)の話を聞いておけば大丈夫」と人々が思えるような体制がなぜ作れないのか、考えてしまいます。

c)受け手の視点に立って
 そしてもう一つ大事だと思うことは、受け手の視点に立って情報を発信するということです。いくら正しい情報であっても、受け手が内容を理解できなければ行動変容は起こりません。それは情報発信の失敗を意味します。「オレは正しいことを言った」だけではダメなのです。受け手が「何をすればいいか」わかるように(自己効力感が得られるように)、心理学や行動経済学などの知見を生かして情報発信を工夫していくことが、発信側に求められるように思います。

 一例を挙げましょう。最初の緊急事態宣言の際に、「人との接触を最低7割、極力8割削減する」というメッセージが発信されました。これを聞いて、では自分はどう行動すればいいのか、わかった人がどれくらいいたでしょうか。1日5人に会う予定を1人に減らせばいいのでしょうか?週5日の出社を1日に減らせばいいのでしょうか?出社人数を2割に減らせばいいのでしょうか?私たちがどう行動すれば接触を8割減らしたことになるのかが、このメッセージだけではわかりませんでした。

 8割削減は、緊急事態宣言を1ヶ月で終わらせるためには、人々の接触をどれくらい減らせばいいかというシミュレーションからはじき出された数字ですが(資料11)、このシミュレーションを踏まえ、我々一人ひとりがどう行動すればいいのか、というメッセージに翻訳する人が対策チームにいなかったのだと思われます。情報の受け手に、それはできない、よくわからない、と思わせてしまったら、リスクコミュニケーションとして失敗です。

 これが簡単ではないことはよくわかっています。ですからさまざまな専門家が結集して知恵を絞ることが大切なのではないでしょうか。こびナビやYahoo!のコラム、Twitter、Facebookなど専門家による情報発信は本当に助かりました。産業医としては「職域のための新型コロナウイルス感染症対策ガイド」もとても役に立ちました。政府の専門家会議もよくやってきたと思っています。しかしこれらがボランティアで行われている現状は、やはり違う気がするのです。今回のコロナ禍で起きた混乱を考えると、政府からの独立性は保ちつつ、政府と協働して機能する日本版CDCが必要なのではないかと考える次第です。

■資料

1)https://jaic25th.info/wp-content/uploads/2020/11/25thPrg20201101b2.pdf

2)https://note.com/sangyo_dialogue/n/n82c92e15d202?magazine_key=md4a716ccfbfe

3)https://note.com/sangyo_dialogue/n/n1509a93d9cff?magazine_key=mc75a0c66547f

4)https://note.com/sangyo_dialogue/n/n513a78e4a698?magazine_key=md4a716ccfbfe

5)https://www.kantei.go.jp/jp/content/000061868.pdf

6)https://www.facebook.com/WHO/photos/a.750907108288008/3339935806051779/

7)https://www.sanei.or.jp/files/topics/covid/COVID-19guide221227koukai.pdf

8)https://emergency.cdc.gov/cerc/resources/pdf/315829-A_FS_CERC_Infectious_Disease.pdf

9)https://www.edelman.jp/research/20200609

10)https://www.nikkei.com/article/DGKKZO30783840R20C18A5EN2000/?unlock=1

11)新型コロナからいのちを守れ! − 理論疫学者・西浦博の挑戦(西浦博・川端裕人、中央公論新社)

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