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ブータン首都留置き11カ月間の活動を自分なりに擁護してみる

プロジェクトも残り1カ月を切り、最後の悪あがきのような行事や派遣元から出されている「宿題」に対応しながら、プロジェクト業務完了報告書(英語)や私個人の専門家業務完了報告書(日本語)の執筆も続けてきました。うち、後者についてはすでに書き上げてJICAに提出してしまいました。

プロジェクトに対する私の評価は、上述の記事ですでにご紹介しています。確かに、2022年8月25日にファブラボCSTができてからの15カ月間でプロジェクトが達成した成果については胸が張れます。任地プンツォリン入りしてからファブラボ開設までの4カ月間の準備期間についても、正当化できる材料は多いと思っています。

しかし、2つの報告書を執筆していて、どう描いたらいいのか悩んだ点があります。それが今日の標題の「首都ティンプー留置き11カ月間」の自分の活動です。上記の記事では「空白の17カ月間」と書きましたが、この中から、任地でもないティンプーに11カ月も留まり、それで何をやれたのかは、もう少し詳述してみてもいいのではないかと思い、新たな記事にしました。



1.首都留置き11カ月の経緯

まず、時系列で何が起きたかを簡単にご説明します。

世界的なパンデミックの影響でJICAが世界各国への専門家やボランティアの派遣を凍結していた中、新型コロナウィルス問題が顕在化する直前の2019年12月、このプロジェクトはブータン政府側と実施枠組み合意締結に至りました。世界的な感染拡大を受けて先行きが見渡せない中、専門家のリクルートは進められ、私に声がかかりました。また同時に、業務実施コンサルタントのサービス調達手続もはじまり、2020年10月にはコンサルティング会社とJICAとの業務実施契約が締結されました。

こうなると、日本側ではプロジェクト開始に向けた準備がはじまっているわけですので、協力期間の起算をいつにすべきか議論になりました。通常なら、最初の長期専門家が着任した日をもってプロジェクト開始日とするようです。しかし、今回はコロナの特例措置で、オンラインで関係者が初顔合わせした2020年12月18日とすることで、関係者は合意しました。

しかし、その後も専門家の渡航凍結解除まで少し時間がかかり、プロジェクト唯一の長期専門家だった私が日本を出発できたのは2021年5月16日のことです。ブータン到着後は3週間の強制隔離、さらに1週間のホテル自主隔離があり、実際に私が外を歩けるようになったのは6月16日です。但し、外出できるようになったとはいえ、ブータンにおけるJICAの安全対策措置により、プロジェクトサイトのあるプンツォリンには入域が許されず、当面首都ティンプーで専門家活動を行うよう条件が課されました。

この行動制約がようやく解除されて、私が活動拠点をCSTに移すことができたのは、2022年4月27日です。首都留置きは結局11カ月に及び、加えて2022年1月16日から3月20日までは、中1週ほどの解除期間を除き、通算で54日間のロックダウンも経験しました。

首都での活動期間中、一緒に働くカウンターパートは近くにおらず、孤独な活動でした。同じ時期にブータンに渡航された専門家は他にもいらっしゃいますが、いずれも首都が任地なので、実質的な活動はすぐにスタートされていました。私は焦る気持ちを禁じえませんでした。こんなんだったら、無理してブータンになど渡航せず、いっそプンツォリン入りの展望が開けるまで日本で待機していた方が、賢い時間の使い方だったんじゃないか―――首都留置き時代、そんな迷いを感じたことが何度もありました。

それにさらに追い打ちをかけたのが前述の首都ロックダウンです。「どこにいたってロックダウンなら、プンツォリンでロックダウンになっても同じ」だと私は思いました。CSTは学生と教職員のほとんどが大学構内に居住でき、一種の隔離施設でしたから。

宿舎の窓からクロックタワー広場を見下ろす
ロックダウン中、人の動きは完全に途絶えていた
変わらぬ景色を毎日眺めながら、「この状況で何ができるのか」と自問自答を繰り返していた

2.暗中模索だった当時の活動を列挙してみる

このnoteはファブラボCSTがオープンした直後から書きはじめました。JICAの日本語HPへのプロジェクトニュース掲載も、はじめたのは2021年12月です。だから、首都留置き期間中に手探り状態で行ってきたいくつかの活動は、日本語での公開記録をどこにも残していません。よってここでそのいくつかをご紹介しておきます。

(1)ファブラボブータン(ファブラボマンダラ)に付き合う

ブータン渡航前、JICA事務所から首都での執務スペースをどこに設けてほしいか訊かれたので、私は「CSTからの出向という位置付けでファブラボブータンで仕事したい」と希望しました。しかしこれは却下され、王立ブータン大学(RUB)本部の別館に個室をもらってそこで1人過ごすことになりました。RUBからいろいろ情報を取って欲しいというのがJICA事務所の思惑だそうです。しかし、そうはいっても別館の個室だし、私もプロジェクトの業務が優先なので、RUB本部にいてもかなりの頻度でファブラボブータンに通いました。

王立ボランティア「デスープ(Desuup)」向けデジタルファブリケーションハンズオン研修や、ユースセンター利用者向け夏期STEM教育プログラムなど、ファブラボブータンが実施を請け負った事業を手伝う中で、関係維持に努めました。その結果、後述するファブアカデミー受講者受入れや冬休みCST学生向けハンズオン研修受入れ、ロックダウン中の子ども向け3D CADオンライン研修の共催などにつながっていきました。

2021年6月21日にはじまったデスープ向けデジタルファブリケーション技能研修
隔離生活明け後、最初に私が関わったプログラムだった

加えて、私は2017~19年当時ファブラボブータン界隈で付き合いのあった昔のスタッフやユーザーとの交流も深めました。ナンダ・グルン君やケザン・ナムゲル君とは、首都留置き時代の交流がきっかけで、後述するmicro:bit講習会やファブラボCSTでのプログラム実施などにも協力してもらうことができました。


(2)パンデミックで大学に入れないCST学生は首都にもいた

これも、2021年7月初旬には気付いていたことです。パンデミックの影響でCSTは学生の構内立入りを禁止していたので、学生は全国各地の彼らの実家から、平日はオンラインで講義や実技の指導を受け、試験もオンラインで受けていました。そうした学生は当然ティンプーにも大勢いて、彼らが土曜日には何も予定がないのがわかったので、私は専門家携行機材として持ち込んでいた3Dプリンターを餌に、3D CADの土曜講習会を計画しました。

土曜講習会は、JICA事務所の大会議室をお借りして、7月下旬のCST秋学期入り以降、12月上旬までほぼ毎週行いました。時には、希望者を募ってファブラボブータンや当時まだ開設準備中だったスーパーファブラボの見学ツアーも企画しました。毎回の参加者は平均すると4~5人というところでしたが、彼らがそこで3Dモデリングを実体験していたことで、ファブラボCST発足以降最初のユーザーになっていってくれました。

毎週土曜日に行っていたCST学生向け3D CAD講習会
2022年1月に行ったCST学生向けデジタルファブリケーション機器ハンズオン研修
ああ、こいつこの時に来てたんだという未来のファブラボCST利用者がいっぱいいる

同様に、2022年1月にはJICA事務所会議室をお借りして土曜日のmicro:bit講習会を開いたり、ファブラボブータンで工作機械ハンズオン研修を実施してもらったりと、とかくCST学生を首都でなんとか取り込むよう努めました。(残念ながら、1月以降に実施したこれらのプログラムは、ロックダウンの影響で一部のグループが受講できない状態で尻切れトンボで終わってしまいましたが。)


(3)苦肉の策「オンラインミートアップ」

私のようにかろうじてブータンにまでは渡航できた専門家はまだましでしたが、JICAと契約した業務実施コンサルタントは、現場見分もできない中でファブラボCSTのフロアレイアウトをデザインしたり、調達機材リストを作成したりといった国内業務もなさっていました。でも、現地業務はいつから開始できるのかずっと先行きが不透明だったし、ただでも少ないファブラボ関連の国際協力案件の中で、コンサルタント団員の中にはファブラボをよく知らないという方もいらっしゃいました。いっそCSTだけでなくコンサルタント団員にも少し勉強してもらったらどうかと思い、月1回のミートアップセッションをコンサルタントに提案し、計画してもらいました。

これは、カウンターパート側の関心を持続させること、日本にどんなファブラボがあって、そこで利用者はどんなものを作っているのかを知ってもらうのには役立ったと思っています。コンサルタント主導での最初の6回(2021年8月~12月)を終えたあと、くしくも首都ロックダウン入り直後にも、私の発案でもう1回開催しました。


(4)プレ・ファブアカデミーとファブアカデミー

プロジェクトの人材育成シナリオの要諦は、CSTのカウンターパート4人を2022年1月末開講の「ファブアカデミー」に送り込むことでした。

ブータンには、ファブアカデミー卒業生が当時1人もおらず、ファブアカデミー受講を国内で実現させるには、まず国内唯一(当時)のファブラボだったファブラボブータンに国内ノードとして手を挙げてもらい、かつインストラクターを外国から招へいする必要がありました。

また、いきなりファブアカデミー受講開始ではなく、その前に機械操作などへの習熟やファブアカデミー受講時に取り組む個人プロジェクトのテーマ検討のために、3週間ほどのプレ研修を開いた方がいい、米国ファブファンデーションからそうアドバイスされました。このため、2021年11月には「プレ・ファブアカデミー」が開講できるよう、私はファブラボブータンとの連絡調整を図り、なんとか実現にこぎ着けました。インストラクターには、インド・マハラシュトラ州にある「ビギャン・アシュラム」からスハスさんに来てもらいました。ここに、テンジン君をはじめとするCST教職員4人を送り込み、続いてファブアカデミー受講へと進んでもらいました。

2021年11月25日、ファブラボブータンで「プレ・ファブアカデミー」がはじまった

首都ロックダウンの最中でしたが、ファブアカデミーはなんとか開講されました。さすがにCSTの教職員は地頭が良いようで、全員が早々に卒業が決まりました。彼らがファブラボCSTの技術的なバックボーンになってくれています。首都留置きの最中、なんとかファブアカデミー受講に漕ぎつけられたのは、私のファブラボブータン説得の成果と言えなくもありません。


(5)プンツォリンの公立学校への早めのしかけ(未遂)

これは、コロナ危険地帯(Red Zone)に認定されて通学が認められていなかったプンツォリンの公立学校3校の生徒と教員を、8月下旬から内地プナカ県プンツォタンに集団疎開させて、当面そこで対面式の授業を行うとブータン政府が発表したのがきっかけでした。当時教育省学校教育局長を訪問し、疎開期間がどれくらいになるのか尋ねたところ、「3年」との回答でした。

それならプンツォタンでアウトリーチプログラムを試行的に開始し、いずれ同県ロベサの自然資源単科大学(CNR)にオープンするCNRバイオファブラボと3Dプリンターを持っているクルタン・ユースセンターに引き継いでもらおう―――そう考えた私は、2021年11月にプンツォタン校を訪問し、当時の校長、副校長、IT教員と会って、ファブラボの営業を行いました。

プンツォタン校のPCラボを見学
同校の校長先生は、その後プンツォリンのSENスクールの校長になられた

結果はイマイチでした。当時はパンデミックの混乱でプンツォリンの学校は学習進度が他地域の子どもより相当遅れているのが問題視されており、詰め込み授業でキャッチアップするのが最優先課題となっていました。こちらの提案に耳を貸せるのは早くても2022年2月以降だと言われました。

しかし、2022年に入った途端、プナカ県でもロックダウンが発生。首都も前述の通りで、私はフォローアップどころではなくなってしまいました。しかも、教育省が当初「3年」と言っていた集団疎開は、ロックダウン解除後、結局この春で打ち切りとなり、4月下旬にはプンツォタン校の全生徒と教員がプンツォリンへと戻っていきました。

結局プンツォタンでのアウトリーチプログラムは未遂に終わりました。しかし、この時先生方に会っていたので、私がプンツォリンに引っ越してからはこれらの先生方がファブラボCSTに理解を示して下さり、それがSENスクールでの障害児自助具製作の話につながりました。さらに、マネージャーのカルマ・ケザン先生が同校と調整中のSTEM教育出前講座へと今後さらに発展していきそうな予感はあります。


(6)自分の営業努力が、他のファブラボに恩恵を与えている側面もある

一方で複雑な心境になるのは、首都留置き時代に私が着手していた取組みが、結果的にスーパーファブラボを利したケースもあるからです。いい例がSENスクール向け自助具の全国展開です。

教育省SENディビジョンを訪問して、オープンソース自助具をご紹介する
ティンプー市内チャンガンカ校での教員向け3D CAD研修の様子

このテーマは、2021年8月から私がはじめた障害者団体向けの営業活動と3D CAD研修、さらには教育省SENディビジョンへの営業とチャンガンカ中期中等学校(MSS)のIT教員、SEN教員向けの3D CAD研修へと展開してました。私は、「ティンプーにはファブラボブータンがあるし、ユースセンターも3Dプリンターを保有している。難しいと思ったら相談できるし、出力もそこでやってもらえ」といつも伝えていました。私が首都でできるのはきっかけ作りまで、あとは地元の生産拠点と彼らがつながればいいと思い、ファブラボブータンやユースセンターの連絡先まで各所で伝えていました。しかし、そうはいっても自分たちではなかなか動かないのがブータンあるある。すぐに実現したケースは、この11カ月のうち1つもありませんでした。

当時スーパーファブラボは開業前でした。彼らの方針としては「産業界のニーズに応える」というのを掲げていて、障害者自助具のカスタマイズ製作のような小さく細かいニーズにはほとんど関心がないというのが見て取れました。しかし、2022年6月4日に開業すると、政府要人も主要な援助機関もスーパーファブラボに注目しはじめます。そんな中で、SENスクール向け3Dプリント自助具の可能性に注目した国際開発金融機関があり、当面のターゲットをティンプー市内のチャンガンカMSSに定めてパイロット事業を実施しようとスーパーファブラボにアプローチしました。

チャンガンカ校の副校長もSEN教員もすでに交代しているので、私が行った教員向け3D CAD研修のことを覚えている人は、声を発しそうな幹部教員の中にはいないでしょう。でも、静かにしている教員の中には、昔3D CADをやったことがあるという人が今も残っているかもしれない。そういう、昔私がまいた種から芽が出て実をつけるようになっていくなら、まあ嬉しいです。カウンターパートと一緒にやったことではなく、私の単独行動です。それでもプロジェクトの成果のスケールアップにつながっているといえないこともないですから。

ことティンプーで試行的に実施されるのであれば結構なことだと思います。でも、全国展開という名の下、各地方ラボのお膝元でスーパーファブラボが地方ラボを絡ませずに事業をやるような事態は避けてほしいです。


3.営業努力は、別の形で花開く

(1)ブータン脳卒中財団CST学生クラブ

ブータン脳卒中財団(以下、BSF)は、オープンソースのデータを用いた自助具の3Dプリント出力ならすぐに自助具を入手して利用できるとの私の呼びかけに最初に反応した障害者団体です。

2021年8月、コロナ禍の中、オンライン開催を余儀なくされた第16回世界ファブラボ会議(FAB16)でしたが、そのサイドイベントをYouTubeライブでいくつか視聴していた私は、「ファブケア」という、オープンソースのヘルスケア用品デザインの試作と共有を進めるファブラボの国際ネットワークが主催したパネルトークを見つけました。そこですぐピンとくるものがあり、私はBSFのダワ・ツェリン事務局長にリンクを伝え、「これどう思う?」と問いかけました。

ダワ事務局長は、「こうした日常生活を少し改善するような道具が欲しいのだ」ときわめて前向きな反応を示し、他の障害者団体にも声をかけて、私がプレゼンを行う機会を作って下さいました。

障害者団体の事務所を訪ねて講習会をやったりもした

以後、BSF、ダクツォ、セルワのスタッフの方々向けに3D CADの研修を開いたりして、私は3Dプリント自助具について知ってもらうよう努めてきました。残念ながら研修受講後に実際にそのCADプログラムを自分で復習してくれた受講者は皆無で、プンツォリンに引っ越した後も何かと私をティンプーでの活動に巻き込もうとする依存心が拭えませんでした。オープンソースデータの出力だけならティンプーでやれるはずなので、私もあまり付き合ってきませんでした。そこに前述の某国際開発金融機関が入って来たので、障害者団体の間ではこの金融機関に対する期待感がにわかに高まってきているようです。おかげで、私とファブラボCSTへの依存心は、一時に比べたら後退した感があります。

一方、どの障害者団体も抱えている課題として、地方での活動の組織化が挙げられます。障害者団体は首都にしか事務所を置いていないので、例えばプンツォリンにどんな障害を持っている人が住んでいるのか、実態把握がほとんどできていないし、支援体制も作れていません。

それに代わる手段として、障害者団体だけでなく多くの市民社会組織が、全国に9つあるRUB傘下の単科大学に、自分たちの息のかかった学生クラブの設立を働きかけてきました。私がいたCSTにも、そういう経緯で設立されたと思われる学生クラブがいくつかあります。

BSFダワ事務局長も、CSTにファブラボがあることを前提に、プンツォリンでの啓発活動を強化し、今年10月、ようやくBSF学生クラブの設立にこぎ着けました。私もすでにこの学生クラブとは一度話し合いを持ち、BSFからプンツォリン周辺での脳卒中発症者の情報がもたらされた場合、その方の自宅を訪問して生活を観察し、必要となりそうな自助具をデザインしようという活動方針であることは確認しています。

「この指とまれ」ミニプロジェクトで、カムジのSENスクールを訪ねたCST学生メンバー
うち何名かはBSF学生クラブのメンバー

(2)ユースセンターのSTEM教育向け供与機材の有効活用

ユースセンターへのSTEM教育機材(pi-top、3Dプリンター)供与は、ユニセフと教育省青年スポーツ局が構想し、調達手続きをファブラボブータンのツェワンが行いました。この構想にツェワンが絡んでいたので、私はブータン着任前から、ユースセンターは地域のミニファブラボだと捉えていました。その考えにもとづき、首都でその関係者にアプローチしました。

でも、さんざん焦らされた挙句ようやく会えたユニセフの担当者は、供与した後の機材のことには興味がなさそうな、けっこうドライな対応でした。ユニセフはあてにならないと思った私は、アプローチ先を教育省青年スポーツ局に切り替え、自分はユースセンターの3Dプリンターと同じ機種(UP mini ES)をふだん使っているので、ユースセンターの機材活用の再活性化のお役には立てると売り込みました。

実は、青年スポーツ局訪問は、2022年6月、プンツォリンに拠点を移してからのことで
ファブラボCSTができる前にティンプーに出張して、ようやく実現した

これが奏功して、その後私は全国のユースセンター向け3Dプリンタ操作オンライン研修のインストラクターをやらせてもらうことになったのです。

結局、その後各地のユースセンターで3Dプリンターがどの程度使われているのかは、プンツォリンを除けば訪問もかなわなかったのでよくわかりません。教育省も、私がインストラクターを無償で引き受けた1回目以降、「ファブラボCSTとしては、次回から講師謝金をいただくことになります」と伝えたところ、音信が途絶えてしまいました。

ユニセフの担当者も、教育省青年スポーツ局の幹部も、その後別件でCSTに来られた時に構内でたまたまお目にかかりました。キャッチアップでもしようと思い、「せっかくだからファブラボ見て行って下さい」と気軽にお誘いしたのですが、うしろめたかったのか、単に目の前の懸案事項をクリアしたから取りあえず今はユースセンターの優先順位が低いのか、理由が何だかわかりませんが、結局誰も来ませんでした。

なお、プンツォリンユースセンターとの協働は、私がプンツォリンに引っ越してから自分で開拓したものですので、首都留置き11カ月が成果につながったいうものではないです。


(3)ティンプー市内の小学校でのSTEM教育実践

これも、プロジェクトというより個人的にボランティアとして引き受けたというのが実態に近いお話です。

きっかけは、ロックダウンの最中の2022年3月初旬、こんな状況でもなんとかできるプロジェクトの成果4(アウトリーチ)の取組みはないだろうかと頭をひねり、突如思い立った「子ども向け3D CADオンライン研修」です。同じくロックダウン中だったファブラボブータンのペマさんとファブアカデミーのインストラクターとしてブータンに来ていてロックダウンに遭い、宿舎缶詰生活を余儀なくされていたファブラボ浜松の竹村真郷さんを巻き込んで、一緒に主催しました。

このオンライン研修に来てくれた子どもには、ファブラボブータンに来たら自分がデザインしたものを3Dプリント出力できる特典を付けました。それでファブラボに来てくれた子は、私の知っている限りで3人いました。そのううち1人が出力したアクセサリーを学校の「Show &Tell」の時間に紹介したところ、その学校の校長先生が感銘を受けて「わが校でのSTEM教育の中で3D CADをやりたい」と言って下さいました。ティンプーのリトルドラゴン初等学校です。

ファブラボブータンで、持ってきたデザインデータを出力してもらう小学生
2022年7月、オンラインでティンプーとつないで行った教員向け研修

校長先生と生徒の父兄からの要望を受け、私は2022年7月後半、土曜日を利用して、2週にわたり、同校の校長先生とIT関連科目教員数名を対象に、オンラインでトレーナー研修を行いました。研修のあと、受講者には8月の宿題として課題を2つ与え、デザインした3DデータをSTLファイルにして、私にメールで送ってもらいました。それを、開設準備が整っていたファブラボCSTで3Dプリント出力し、ティンプーから開所式に来てくれた方に渡して学校に届けてもらいました。

さらに、この課題演習をやってみて、先生方が共通して見落としがちなポイントが明らかになってきたので、9月に入るとすぐにオンラインで補講を行い、さらに私がティンプーに出張する機会には学校を訪問して生徒のデザインへの助言を行いました。

この学校は当初、チェゴファブラボが今年4月にオープンしたら出力で利用しようと期待されていました。でも、チェゴファブラボの開所が延びに延びて、秋学期に入っても開所しないことに業を煮やし、校長先生がインドに渡航される際、Creality社のEnder-3を購入して持ち帰って来られました。そのセットアップとスライサの操作説明が11月27日にようやく終わり、先生方や父兄の手でEnder-3が動かせる状態にたどり着くことができました。

先生や父兄の方が操作される姿が見られるようになったのは、すごく大きな進歩

4.遊んでいたわけではないけれど…

こうして今振り返ってみると、あとになって芽を出すような取組みを、11カ月の間にいくつもやっていたことは間違いありません。そのことは、建屋の竣工が遅れに遅れ、開所が当初予定から7カ月もずれ込んだチェゴファブラボが、その間対外営業活動をやらなかったのと比較すればよくわかります。

チェゴファブラボがいつまでもオープンしないので、業を煮やした私は、ファブラボCSTがオープンする前にティンプーやプンツォリンで自分がやっていた活動について、マネージャーに情報提供したことがあります。特に、JICA事務所の大会議室をお借りして講習会を開くような需要喚起策は、JICA事務所から至近距離にあるチェゴファブラボだったら容易にできたはずです。それでも対外的な営業活動は、入居するチェゴセンターが11月16日にオープンするまで、まったく行われませんでした。

首都の政府関係機関は土日休日ですが、首都留置き期間中、私は土曜日はずっと働いていました。首都でのネットワークの開拓も、あまりJICA事務所のお世話になることもなく、自力でこなしていた部分が相当あります。

この間自分が3D CADの講習会を毎週のようにホストする過程で、自分なりに予習復習に相当時間を割きました。おかげで、プンツォリンに拠点を移してからも、こと3D CADに関してはファブアカデミー修了生よりも私の方がよく知っていて、自分で講習会を主催するのにつながっていきました。

それでも、できたことより、できなかったことの方が気になってしまう。

例えば、プロジェクト業務完了報告書を書いていて、いきなり「整合性(Coherence)」という評価項目が出てきて、他のJICAや日本の開発協力事業との連携をどれだけやったか書かねばならないことを初めて知ったとき、私は、最初からそれを意識して、この首都留置き期間中、もっと他のプロジェクトに喰いついて営業しておけばよかったと後悔しました。

幸い、JICA海外協力隊の一部の隊員の方々とは、そういう具体的な連携事例を作ることができました。これはJICA事務所のボランティア調整員の仲介のおかげだと感謝しています。

でも、他の技術協力プロジェクトや、草の根技術協力プロジェクトの関係者への営業は、あまり機能したとは思えません。

唯一の例外は医学教育プロジェクトで、カウンターパートの医科大学が3Dプリンターを配置したラボを作りたい構想があると聞いた時です。このプロジェクトの専門家とはブータン着任時期がほとんど同じで、その後月イチで会って情報交換を続けていた間柄でした。しかし、それをやりたいと構想し自ら企画書も書いたカウンターパートが、離職してオーストラリアに行ってしまったため、構想は不発に終わりました。その専門家はすでに帰国されましたし、私も間もなく帰国。この話はこのままお蔵入りです。

それ以外の経済協力案件では、どこに誰がいてどんなプロジェクトが行われているのか、誰が今ブータンに来ているのか、いつまでいるのかなどまったく情報がなく、当然、JICA事務所の誰がその案件の担当なのか、それ以前に、そもそも誰が事務所員なのかもわかりませんでした。パンデミックの中で人と会うことの許容度が低かった時代です。自らの努力不足を反省するところかもしれませんが、どこまでやるかのさじ加減は、今当時のことを振り返ってみても、よくわからないというのが正直なところです。

開き直るわけではありませんが、専門家やプロジェクトの単独努力だけではできることには限度があります。こういう非常事態において、事務所もやるべきだったことがもっとあったのではないか、私はそう思います。






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