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のつはる寿司ドライブ

ホルモン治療が始まってから4ヶ月が経つ。わたしは元気を取り戻しつつあった。抗うつ薬のパロキセチンが効いてきたのだろう。沈み込む日もだんだん少なくなっていた。

天気のよい日、わたしは車でよく野津原へ行く。野津原は、わさだタウンの南西の山間部に位置する。以前は“野津原町”だったが、2005年に大分市に編入された。「道の駅のつはる」で買い物をして帰るのが、わたしの定番ドライブコースだ。

道の駅のつはるは比較的新しい道の駅である。2019年、七瀬ダムの湖畔にオープンした。道の駅で売られている「のつはる寿司」が、わたしの好物だ。

のつはる寿司は酢〆のアジの握り寿司を、ゆでたキャベツで巻いためずらしい料理である。見た目はロールキャベツのようだ。アジの癖の強さをキャベツがほどよく中和し、さっぱりと食べやすい。“バッテラ”にちょっと似ている(と思う)。

キャベツにはネタやシャリの乾燥を防ぐ役割もある。持ち帰って夕食で出しても、パサつくことなくしっとりしている。

この日は天気がいいので、わたしはまた野津原に行くことにした。

最近、わたしは音楽サブスクを契約した。スマホで音楽を聴きながら車を運転していると、いろんなことを忘れられる。パロキセチンを飲み始める前は、音楽を聴くような精神状態ではなかった。車の運転もキツかった。今はそれだけ、回復してきたということだろう。

46歳にもなると、若いころ好きだった音楽ばかり聴くようになる。子供でもいれば流行りの曲も耳にするのだろうが、同世代の夫婦だけの家庭ではそんな機会もない。夫とふたりでドライブするときに聴くのは、浜崎あゆみやglobeなどだ。

夫と結婚して、わたしは初めて浜崎あゆみの曲をまともに聴いた。浜崎あゆみといえば、車にステッカーを貼った熱狂的なファンのイメージしかなかった。“ああいう感じの人たち”にしか刺さらない曲だと思っていた。初めて聞いたアユの曲は、歌詞がとても良かった。
人気がある物には、それなりに理由がある。食わず嫌いは良くないと改めて思った。

わたしは昔好きだった曲を、サブスクではなるべく聴かないようにしている。昔を振り返るのは、今のわたしにはよくない気がしたからだ。

音楽サブスクを契約して、最初に聴いたのは、手術のときに流れていた「あいみょん」だった。
「はじめてのあいみょん」というプレイリストをダウンロードした。あいみょんのプレイリストは全体的に切ない曲が多く、心に刺さりすぎる。鬱が悪化しそうなので聴くのをすぐにやめてしまった。わたしにあいみょんはまだ早かった。

意外とドハマりしたのが「YOASOBI」だ。分類はたぶんテクノ歌謡だが、早口のボーカルがスラッシュメタルのギターの速弾きみたいでかっこよかった。声もかわいくて好みだ。
大ヒットした「夜に駆ける」は、自殺がテーマの曲らしい。プロモーションビデオを見ると、確かにそうなのだが、疾走感が勇ましい気持ちにさせてくれる。落ち込んだ気持ちを奮い立たせてくれるのだ。野津原に行くとき、わたしはいつもプレイリスト「YOASOBI」を繰り返し聴いていた。

今日は絶好のドライブ日和である。暑くもなく寒くもない。新緑がもえる山並みを眺めながら、法定速度でワインディングを走らせる。鬱にはウォーキングがよいと言われる。しかし、身体にいいと言われてウォーキングができる人は、軽症の鬱だと思う。わたしはまだ、ウォーキングをするような気持にはなれなかった。

道の駅のつはるに到着した。のつはる寿司は残念ながら売り切れていた。まぁでもいい。最近、のつはる寿司を買い過ぎて夫に注意されたのだ。わたしは気にいった食べ物はそればかり食べようとしてしまう。しばらくは控えよう。

わたしは自販機でコーヒーを買い、駐車場から七瀬ダムを眺めていた。
「そろそろ、就職活動を始めんとなぁ…」
どのタイミングで働きはじめればよいのか、悩ましいところである。わたしはホテルを辞めた時「次の職探しは苦戦するだろうな」と覚悟していた。

年齢的な問題に、さらに乳がんが加わった。薬の副作用で鬱も患っているとなると、正社員で採用されるのは難しいかもしれない。いきなりフルタイムは自分としても自信が無かった。

(入院していたときは気楽でよかったな…)

湖を眺めながらため息をつく。道の駅で地場野菜をいくつか購入し、わたしは帰路についた。帰り道はプレイリスト「岡崎体育」を聴く。

ミュージシャンにとってサブスクは、おいしくない商売の形態らしい。しかし、ユーザーにはありがたいシステムだ。ぜんぜん興味がなかったアーティストがドンピシャだったりする。興味を持ったら、どんどんダウンロードして聞くこともできるのだ。

「岡崎体育」はロックっぽくもあり、テクノっぽくもあり、ヒップホップもあり、ポップスもあり。いろんな要素が盛り込まれていて飽きない。ところどころ差し込まれる関西弁が笑える。歌詞は全体的にふざけていて不謹慎。かと思えば、格好いい曲もある。
元気になったら、岡崎体育のライブに行きたいな。それまでに就職して、お金を稼げるようになっておかなきゃ。音楽は希望をくれる。この前まで暗闇でもがいていたわたしだったが、ようやく光が見えてきた。

「就職したら、なかなか実家にも帰られへんようになるやろ。今のうちにいろんなこと実家でしときたいねん。おばあちゃんも歳やし。いいやろ?一週間ぐらいやん」

夕食の席で、わたしは夫に言った。
「ええ…一週間もひとり?寂しい…」
夫は泣きそうな顔をしている。たった一週間、ひとりで留守番をするだけなのに大げさだ。

帰省するのがわたしひとりなら、実家の夕飯は昨日の余り物でも問題ない。しかし夫がいるとそうはいかなくなる。会話だって母は気を使うだろう。わたしがそう説明をすると、夫も納得してくれた。
「わかったよ、実家でのんびりしてきたらええわ」
夫はわたしにそう言った。

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温泉好きが高じて20年以上暮らした東京から別府に移住しました。九州の温泉をもっと発掘したいと思っています。応援よろしくお願いします。