私にとっての"文章を書く"ということ
村上春樹さんのエッセイを読んだ。
そこに、今の自分にひどく刺さった文があった。
考えてみれば、とくに自己表現なんてしなくたって人は普通に、当たり前に生きていけます。しかし、にもかかわらず、あなたは何かを表現したいと願う。そういう「にもかかわらず」という自然な文脈の中で、僕らは意外に自分の本来の姿を目にするのかもしれません。
(村上春樹「職業としての小説家」p102)
文章を書けなくて悩む夜がある。しかし、本来自己表現なんかしなくたって良いはずなのだ。それなのになぜ、自分は自己表現をしたいと願い、文章を書こうと躍起になるのか。
ふと思いとどまって、無理矢理文章を捻り出そうとするのをやめた。
「書きたいことが現れたら、きっと自然に書きたくなるはず」
そう思って、しばらくnoteを投稿するのをやめた。
「書かなくちゃいけない」から離れていると、次第に自分の中の何かがむずむずしはじめる。
ああ、私ってやっぱり、文章じゃないと自分の中の「何か」に形を持たせることができないみたいだ、と気づくことができた。
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「ノルウェイの森」も読んだ。
小さい頃、母の本棚に置いてあったそれを読んだことがあるが、当時の自分には何が面白いのか、そもそも何を伝えたい話なのかも、さっぱり分からなかった。
しかし、久しぶりに読んでみると、まるで自分のことが書かれているのかと錯覚するほどに、登場人物の気持ちが痛いほど分かるようになっていた。
これが大人になるということなのだろうか。
「ノルウェイの森」に出てくる主人公は、こう話している。
結局のところ______と僕は思う_____文章という不完全な容器に盛ることができるのは不完全な記憶や不完全な想いでしかないのだ。
(村上春樹「ノルウェイの森(上)」p23)
この言葉に出会って、今まで自分の周りで起きた経験がフラッシュバックして(という表現が正しいのかは分からないけれど)、ぴたっとジグソーパズルみたいに当てはまった気がした。ああこれだ、と思った。
例えば、私は日記を続けることが苦手だった。それは、〇〇した、といった事実しか書いていなかったからだと思う。そうじゃなく、自分の中でもやもやとしていることや僕然としていること、「言葉」という形をまだ持っていないことを書きたかったのだ。
そういったことを書かなかったのは、時々父が私の机を漁ることがあるからで、そういった本心、漠然とした想いを書けないでいた。
だから、私は今こうしてこの場所で文章を書き続けている。
そして、その行為にたまらなく幸せを感じている。
少しずつ頭の中の靄が晴れていくようで。
いつか、自分の言葉を詰め込んだ本を作りたい。