かぐや表紙NOTE

第2幕 第2場  闇

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一条の光の中、夢円法師たたずむ。

夢円  ( 大音声でいかめしく)この世は夢。この世は幻。形あるものはすべていつわり。形と影を持ついかなるものも時の仕打ちには勝てぬ。いつしか煙と失せ塵と消えるが世のならい。一体、永遠でないものが真実と言えようか。泡のように儚いものを後生大事に抱え、失うことにおびえ、壊れたことに憤り、還らぬことを嘆く。あるいはまた、おのれが依然所有せざることを悶々と恨む。形に頼れば心は形に支配される。影を追えば人は時にもて遊ばれる。一体、心に平安を与えてくれぬものが真実と言えようか。形を捨てよ。影につくなかれ。それが、解脱に至る道の始まり。まことの至福に通ずる第一歩である。

( 調子を落として柔らかく)みなさん、世は末法。釈尊の教えも衰え、悟りに至る道はいよいよ冥く、いよいよ険しくなるばかりです。先頃内裏をはじめ左京九十町あまりを焼き尽くした大火、鴨川を氾濫させ家々の屋根を木の葉のごとく吹き飛ばした大嵐、あの羅生門を一瞬にして瓦礫の山に変え多くの命を奪った大地震。自然の大いなる怒りを前に、我々はなすすべもなく、天を仰ぐばかりでした。

自然が乱れれば人心もまた乱れるのが世の理。人と自然とは気脈通じているからです。かくして、都大路には昼日中から強盗が跋扈(ばっこ)し、女に乱暴を働く者、酔っぱらい路上に倒れる者、親に捨てられ見よう見まねで物乞いをならう幼児(おさなご)達。河原には得体の知れぬ疫病(やまい)にかかり人の形すら残さぬ骸(むくろ)の山。まともな心の持ち主なら目を覆いたくなる有様です。

市中だけではありません。朝廷もまた乱れております。貴族達は奢侈に耽り遊び浮かれ、政事をなおざりにしています。有能な者が登用されることはなく、昇進任官はもっぱら一部の公卿の思いのまま。阿諛追従(あゆついしょう)、媚びへつらい、賄賂献金は当たり前。民の声など聴く耳あらばこそ、権力争い金儲けしか眼中になく、誰も真剣に国の行く末なぞ考えてはおりません。政事はすっかり形骸化しているのです。王道弱まり、律令ははるか昔の置きみやげ。地方はこの都に輪をかけた無政府状態。一体、我々の生きているこの世はどこなのでしょう。

みなさん、地獄とはどこか遠いところにあるものではありません。この世が地獄なのです。人の世の未来がそのまま地獄となるのですよ。こうしている間にも、善は悪に変じ、悪は悪を生み、この世は確実に地獄へと様変わりしています。この世に生まれたことは不幸なのです。長く生きることは運のないことなのです。

この世で悪をなした者、罪を作った者は死んで再び生まれ変わり、いっそう酷い世に生きなくてはなりません。そこでまた罪を重ねれば、さらに先の地獄化した世に生まれ墜ちます。どこかで悪の根を絶たぬ限り、これが未来永劫続くのです。輪廻転生とはこのことを言うのですよ。

さればこそ、二度とこの世に生まれ落つることのなきよう、さらなる苦しみを被ることのなきよう、今のこの世を正しく生きなければなりません。執拗なる悪の誘惑を退け、身を清らかに保ち、善行を積むことが肝要です。欲を抑え、執着を絶ち、慈愛の心を育むことが大切です。

この世を仮の世と観じなさい。極楽浄土に思いを馳せなさい。そしてこう唱えるのです。

「南無阿弥陀仏。仏よ、我を救いたまえ」

「南無阿弥陀仏。仏よ、我を救いたまえ」

( 再びいかめしく)この世は夢。この世は幻。形あるものはすべていつわり。形なくして心を惑わすもの、それは妄想にほかならぬ。妄想は無に生じた徒(あだ)花(ばな)。徒花の香に酔うは痴れ者。無に意味を見いだすは愚か者の技なり。それは砂漠に泉を見る旅人に似たり。闇に魔物を見る幼子に似たり。在りもしないものを在ると錯覚し、おのれの頭の中に作った幻を追い求め、縛っては縛られる。一体、心に自由をくれぬものが真実と言えようか。諸々の幻想に縛られている限りまことの至福は遠い。

親子の愛情は幻想である。子を捨てる親のあとを絶たぬはそれ故なり。親を殺める子の世上を騒がすはそれ故なり。

男女の愛情は幻想である。次から次へと女を渡る男。彼(か)は幻想に恋しているが故に決して満足を得ることがない。男に裏切られたと泣く女。彼(か)は幻想を信じたがゆえに自らを盲目とした。男も女も互いに相手の本性を見ず、己の幻想を見ているに過ぎない。

友情もまた幻想である。人は他人(ひと)を利用する後ろめたさから目をそむけるために友情を発明したのである。

( 調子を変えて柔らかく)みなさん、親は敬うべきもの、子は慈しむべきものです。男と女は相補うべき存在です。友は誠に有り難く、生きる勇気を与えてくれます。人は一人では生きてはいかれません。助け合い睦み合ってこそ、お互いの幸福はあるのです。

ですが、もし人が、あるいは親に、あるいは子に、あるいは男に、あるいは女に、あるいは友に、愛情の名によって縛られ、気づかぬうちに心の自由を失い苦しみを得るならば、愛情はいつしか束縛に、束縛はそのまま煩悩となるのです。善意からの振る舞いも、相手を縛り続けることでいつしか害悪へと変じます。盲目なる愛情は、相手の意志をも存在をも認めなくしてしまうからです。

すべてを幻想と見抜きなさい。この世を仮の世と観じなさい。極楽浄土に思いを至しなさい。そうしてともに念じましょう。

「南無阿弥陀仏。仏よ、我を救いたまえ」

「南無阿弥陀仏。仏よ、我を救いたまえ」

合掌するうちに溶暗。

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