第2幕 第1場 宮中(庭に面した庇の間)
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秋の午後。
舞台手前は広い庭。紅葉したる木々が左右に立つ。
奥は寝殿作りの建物。勾欄のついた簀の子縁に、貴族四人( A・B・E・F)、女房二人( C・D)が、庭に下りる中央の階段の両側に居並んでいる。( 階段をはさみ中央より右方にACE、左方にBDFの順)。彼らは、今しも庭で行われている童子達のケマリを眺めている。御簾の上がった庇の間には御椅子、今は空いている。一通りケマリがなされ、見物人の拍手喝采のあと、童子達は一礼して退場。
( このあとの会話はケマリのようにポンポンと)
貴族A ( 扇を鳴らしながら)いやいや、素晴らしい。技も見事ながら若い人(こ)の動きの美しいことよ。眼福、眼福。
貴族B おやおや、また始まりましたな、あなたの美童趣味(ごのみ)が。他人(ひと)の趣味についてとやかく言うのは野暮といえ、お年を考えなされましよ。
貴族A ですから、こうして見るだけで我慢しているのじゃありませんか。一緒にマリを蹴るわけでなし、ましてや・・・いやなに見るのは自由ですからな。年寄りに残された唯一の楽しみは若さを盗み見ることです。
女房D あら、なぜ見るだけで我慢できましょう。若さを自分のものとしてはいけませんの?
貴族E さすが内侍殿は仰ることが違う。泣かした男の数だけ賢くおなりのようで。
女房D 賢いかどうかはともかく強くはなりますわ。私は指をくわえてじっと見ているなんて、とてもできませんもの。若い男なんてたわいのないもの。自尊心をくすぐってやりさえすれば、すぐに尻尾を振ってついてきましてよ。
貴族A それはあなたがくすぐるのに長けた指を持っておられるからですよ。私の指など、もうすっかり萎えきっておりますからな。
貴族B 指は萎えても食指は動くというわけですか。
貴族A まあ、そういうところです。それに若さというのは根を下ろさないつむじ風。うかつに近寄ると、この身がスパッと引き裂かれてしまいます。見て愛でるのが一番安全というわけです。
女房D 引き裂かれる前に引き裂いておやりになればいいのよ。若い男のつむじなんて左巻きに決まっているんですから。適当にあしらってこそ年寄りの知恵じゃございません?
貴族A あなたがた女性はいつもそうだ。引き裂いて、そうして自分の愛する者の美をむなしゅうしてしまうのです。それもこれも女性というものは、元来美に鈍感だからなのだ。
貴族B おや、今度はいつもの女性批判ですか。それなら私は身を引きますよ。女性の悪口を利いて得した覚えがありませんのでね。
女房D それこそ年寄りの知恵。美に鈍感な私達も悪口にはこの上なく敏感ですの。
貴族E なるほど。一つ利口になりました。それにしても、女性が美に鈍感とは解せません。一体どういうわけで?
貴族A なに。こう言えば得心いきましょう。男は女を欲するが、女は男に欲されることを願う。
女房C ああ、わかりました。つまり、「美」は私達女性にだけ属するものだから、男を好きになる私達は「美」について空きめくらで―-
貴族F 反対に、女を好きになる我々こそ「美」を知る者、と言うことですね。
貴族A そうではありません。私の言うのは、男と女の愛し方の違いです。男は女を欲望する。そうです。「美」とは第一に欲望するものなのです。欲望した対象が「美」となるのであって、誰からも欲望されない絶対の「美」なぞ、この世にはありません。欲望があってはじめて欲望されるものが生まれ、両者が隔たっている状態を「美」と呼び、接近しようとする衝動を「愛」と呼びならわすのです。そして、どうして人が欲望するのかと言うと―。( 我に返って)いや、これは失礼。つい講釈めいてしまいました。だから年は取りたくないもの。
( 寝殿の奥の方を覗いて)それにしても帝はまだお戻りにならないのでしょうか。おっつけ半時にもなりましょう。
女房C なにやら急な知らせでもあったようにお見受けしましたけど。何と云いましたかしら、あの蔵人。
貴族B 中臣です。私はどうもあの男、虫が好きませんな。お側仕えの身分にしては、いろいろなことにクチバシを入れすぎるようで―-。
中臣、下手より登場。紅葉の陰に隠れ、立ち聞きする。
女房D 陛下の寵愛をいいことに自惚れているんですわ。お気づきでしょう。いつだって人を馬鹿にしきった目つきで見るんですから。
貴族A 人を馬鹿にするのが奴の務めですからな。
女房D 馬鹿にするにも程があります。
貴族E ( 小声で隣の女房Cに)あの道化、内侍殿の誘いに応じなかった唯一人の男だそうですよ。
女房C まあ、そんなことが。( 扇で口元を隠す)
貴族B 何だってあんな奴を帝はおそばに置いておかれるのでしょう。ああいう軽薄な輩(やから)とばかり戯れておいでになるのは、おためにならないじゃありませんか。
貴族A 確かにそうですな。最近の帝のご様子を拝見しておりましても、気になることが多いですな。少し前のようにふさいで物もお召し上がりにならないはないにしても、今のように妙に浮かれてばかりおられるのも・・・。
この月に入って何度目ですかな? こうして内輪で遊びを催されるのは?
貴族F ( 指折りながら)先日は管弦、その前は歌合わせ、その前がえーと・・・
女房C 貝合わせですわ。
貴族A 何をなさっても、帝は素晴らしい腕前をご披露なされる。その実、何をしてもいっこう楽しんではおられぬ。
貴族B そうです。そうです。私の言いたいのもまさにそのこと。一見興じておられるように見えて、何と云いますか、心ここにあらずというか醒めきった表情をふとなされる。
貴族E それも仕方ないのじゃありませんか。先頃、東宮妃殿下がお生み遊ばされたのが男の御子だったとあっては。
女房D ほんに口惜しいこと。( 思い出し笑いをして)あのときの左大臣殿の悔しがりようといったら。
貴族E さすがに陛下にグチをこぼすわけにもいかず、皇后さまのところに行き、涙ながら檄を飛ばしたとか。
貴族F ( 左大臣のまねをして)おお、どうかお后さま。私の目の黒いうちに男の子を生んでくだされ。さもないと、石上家の栄華は当代限りとなってしまいます。あの腹黒い大伴の成金どもに、この先天下を明け渡すようなことがあっては、この父はご先祖様に何とお詫び申し上げたらよいのでしょう。
そもそも一昨年の流行病(はやりやまい)で男盛りの長男を失っただけでも災難でしたに、あとを継ぐべき中納言はただでさえ頼りない、食べるだけが能のうつけ者。それが、かぐや姫とかいうしづが女の為に勝手に東国へ出かけてしまった。あの罰当たりの親不孝者め!
ああ、私は何という不幸な親でありましょうか。この上はお后さま、あなただけが頼りなのです。私が生きている限りは帝もご安泰。あなたも思いのままに振る舞える。お子を次の東宮とさだめるくらいたやすいこと。ですから、何としても皇子をお生みくだされ。帝をお呼びするのです。あちらからお渡りになるのを待っていてはなりません。機会をとらえてはお情けを頂戴するのです。恥などお捨てなさい。手を尽くして舌を尽くしてサービスに努めるのです。ああ、私がそばにいられたら!
一同、どっと笑う。中臣、引っ込む。
貴族A あいや。ところで、かぐや姫をめぐるさやあてはその後どうなっているのでしょう? 老いぼれの耳には誰も教えてはくれません。
女房D ご心配なく。何の進展もございませんから。大伴の大納言殿、石上の中納言殿は、両大臣の反対を押し切って西と東へ。双子の皇子さまは陛下のご心配をよそに北と南ヘ。早々と失敗した内大臣殿は世をはかなんでついに念願のご出家を遂げられた――と、ここまでが現在のところですわ。
貴族A 安心しました。見逃した巻はないようです。
女房C 安部の内大臣殿、いえ安部の入道殿は、その後どうしていらっしゃるのかしら?
貴族E 噂では堂にこもって念仏三昧とか。あるいは出家とは名ばかり、やけ酒を食らって日々嘆いているとも。
女房D 世間に顔向けできないようなことをしたんですもの。コソコソと暮らしているんですよ。だいたいニセの贈り物で女をだまそうなんて、さもしい了見がいけない。そういう男は世間が許しても女が許しませんわ。
貴族E 女をかつごうと鉢をかついで行って、恥をかいたという次第。大方、仏の石の鉢なぞ誰も実物を見たことがないのだから、ニセモノとばれるはずがないと思ったのでしょう。霊験あらたかという触れ込み一つで、大枚はたいてガラクタの壺を買う愚かな輩(やから)はいつの世にもおりますからね。
女房C かぐや姫はどうやって見抜いたのでしょう?
貴族B 馬鹿な女ではないようです。仏の石の鉢に汲んだ水を飲めば、あらゆる欲望から解き放たれ、まごうかたなき悟りが得られる。そこで、持ってきた当人に試させたのですよ。
貴族A ほう、それでどうなりました?
貴族B あなただって安部殿の抹香臭い仏談義には辟易していたじゃありませんか。ましてや、自分の持ってきた石の鉢の真偽を証明するため。見事に悟ったフリを演じおおせたわけです。何でも素晴らしい法話を神がかり、いや仏がかりの様子で一席ぶち、その場にいた者は下々に至るまで感涙にひたらぬ者はなかったそうです。
女房C まあ、聞きたかったわ。最近は説教上手なお坊さまはなかなかいませんもの。で、何でばれましたの?
貴族B 解脱を演じたのが徒となり、逆に姫にやりこめられたのです。
貴族F ( 女声で)今の説教をお聞きいたしまして、この石の鉢の誠を信じたい気持ちになりました。安部の内大臣さま、あなたの煩悩は今や消滅したのでしょうか。
女房D ( 男声で)いかにも。もはや、心は清い水のごとく澄んでおります。
貴族F ( 女声で)では、私を娶りたいという欲望も失せたわけでございますね。
貴族E ( 扇を掲げて)一本!
貴族B あれこれ追求されるうちにすっかり嘘がばれましてね。唐土(もろこし)に行くと見せかけて宇治の山に籠もり、職人どもに黒曜石の鉢を作らせていたのです。
女房C なんて恥知らずなんでしょう!
貴族E 女にやりこめられ世間の笑い者となったばかりか、ショックで禿げてしまわれた。まさに泣きっ面にハチ。
貴族A じゃが、それが出家のきっかけになったとあらば、ニセモノとはいえ仏の石の鉢の効験(ききめ)は馬鹿になりませんな。
女房D ほんに。
一同、笑う。
咳払いと共に中臣、庇の間の奥より登場。
中臣 帝がお戻りになられます。
一同威儀を正す。
帝、登場。庇の間の御椅子に座る。
帝 面白い知らせを聞いた。
女房D まあ陛下。いったい何なのでございましょう?
帝 当ててみよ。褒美をとらそう。
女房D まあ素敵。勝つ自信がありましてよ。双子の皇子さまから文が届いたのではございません? 探していた宝を手に入れたという知らせでは?
帝 ( 顔を曇らせて)それなら嬉しいものを。あの二人からは七夕の日以来、文を見ておらぬ。
貴族A ご心配のほどご推察申し上げます。私たちもこうしてケマリを見るにつけ、お二方を思い出さずにはいられません。彼らこそまさに天童。永遠に時を止めておきたいくらい美しかった。
女房D ( ウットリと)ほんにお綺麗だった・・・。
中臣 誰ぞのそばにいるくらいなら、龍のあぎとの方がよっぽど安全。
女房D、中臣をにらみつける。
女房C もしやお后さまによい知らせでも?
貴族B そうなのですか、陛下?
帝 ならば私より先にそち達が知っていようはず。あの左大臣が黙っていらりょうか。
貴族B ごもっともです。
貴族E 降参です。お答えを賜りください。
帝 ( 中臣に合図する。中臣、奥に消える)実は今ここに大伴の朝臣が参っておる。
女房D まあ、大納言殿が!
一同、驚く。
帝 そち達も知っての通り、大伴の朝臣はかぐや姫の求めに応じて蓬莱の島に宝の枝を探しに出かけた。さきほど、朝臣が都に戻ったという知らせが入ったのだ。どうやら望みの品を手に入れたらしい。
貴族B 蓬莱の枝を、でございますか?
貴族F ということは、かぐや姫を?
女房D あの人のしたり顔が目に浮かぶようだわ。
貴族E ( 扇を振って)安部の入道殿の例(ためし)があります。実物を見るまでは信用できませんよ。
貴族A いかにもそうですな。
女房C 見てみたいものですわ、その宝の枝とやらを。
帝 ( うなづいて)だから、こうして参内させたのだ。
下手より中臣、続いて大伴の大納言とその従者登場。
従者は白い布をかけた大きな瓶を抱えている。大納言、帝に礼をとる。一同の視線は瓶にある。
大納言 お召しにより参上いたしました。もとより、いずかたよりまして第一にお伺いするつもりでありました。
帝 呼んだのは他でもない。ここにいる者達に蓬莱の枝とやらを見せてやりたい、そちの冒険談を聞かせてやりたい、そう思ったからだ。
女房D まあ陛下。おやさしくていらっしゃる。
貴族A ありがたき仕合わせ。
帝 聴衆が多いほど、話しがいがあろうというもの。かぐや姫に語る際の下稽古にもなろう。
さあ、語ってくれ。そちがどうやって蓬莱の島にたどり着いたのか、どうやって蓬莱の枝を手に入れたのか。そのあとで実物を見せてもらうこととしよう。
大納言 ありがたきはからい光栄に存じます。( 貴族・女房達に)皆々様にもご機嫌うるわしゅう。( 互いに礼をかわす)
では、お許しを得ました上は、しばしお耳を拝借賜りましょう。
( 立ち上がり観客の方を向く。咳払いして)そもそも、まろがかぐや姫を思う気持ちはひととおりではなく、蓬莱の枝という課題を負うた明くる日には早くも人を集め船を支度し、西へと漕ぎ出す用意ができていたのでした。はやる心を抑え、瀬待ち風待ち弥生も終わり、難波より船に乗り、一路まだ見ぬ蓬莱の島へと旅だったわけです。その折りのまろが心の内こそ語るもおろか、その昔、聖徳太子が随に向けて放った小野妹子、はたや三笠の山をあとにした阿倍仲麻呂朝臣の気持ちもかくやとばかり。「かぐや姫をまろがものにしないで何の命ぞ。蓬莱の枝を手にするまでは、二度と秋津島日本(やまと)の土を踏むまい」―― そう心に誓ったのでした。
女房C 素敵だわ。
大納言 蓬莱蓬莱と名だけは知れ渡っていても、古来(いにしえ)より人のよう至らぬ地。永遠休息(えばれすと)、霧魔邪露(きりまじゃろ)と並ぶ幻の山。西の海唐土(もろこし)の南と書物にあるばかりで、定かな位置は誰も知りません。おのずと船は確かな針路も持たず、風の向くまま気の向くまま。昼は日輪の導くに従い、夜は星辰のまたたきを頼りに、気がつくと我が国の内を遠く離れ、見渡す限りの大海原に押し出されていたのです。
女房D その大胆さこそ女には毒。
大納言 一体に遣隋使、遣唐使と古来より海を渡った者は数知れずいましょうが、まろほど危険な目に遭い、多くの苦難をしのいだ者が果たしておりましょうか? 鑑真上人のお舐めになったという辛酸さえ、まろが今度(こたび)の航海にくらぶれば、唐菓子の甘みが舌に残りましょう。時化に遭い、船は木の葉のように波にもまれ、天地も皆目分からぬ中、雨は矢のように降り注ぎ、風はビュウビュウとこの身を八つ裂きにするかのごとく荒れ狂う。船上にあるものは何もかも吹き飛ばされて、我とわが身を守るために――失礼、ご婦人方――素っ裸になり、褌でこの身を帆柱にくくりつけたのでした。
女房C ( ウットリと)まあ素敵。
大納言 ですが本当に恐ろしいのは時化ではありません。凪です。そよとも風の吹かぬ一日(いちじつ)、照りつける太陽に身はジリジリと灼かれ、喉の渇きはまるで千本の杉の葉を呑み込んだよう。目を凝らして回りを見ても、島影一つ見あたらぬ。水も食糧(かて)も尽き果てて、できるのは唯ひたすら神に祈ること。この命最早これまで、と泣こうにも涙一滴出てはきません。死の淵にあって瞼に浮かびしは、かぐや姫、ただ彼の懐かしき面影。姫に再びまみえることなく敢えなく死んでいく口惜しさよ。( 泣きながら)いや、何の惜しいことがあろうか。姫のために死ぬるものならば、それこそ本望。このまま海の藻屑になろうとも、まろが心のたけは幾千幾万の波に乗って、ふるさとの岸辺に、彼の人のもとに届くだろう。
カモメ達よ。まろが言の葉を伝えておくれ。運つきてこの身はむなしくなるとも、あなたを思う気持ちは永遠(とこしえ)に変わることはないと。東風よ。まろが袖の香を運んでおくれ。かぐや姫ゆえに流した涙ですっかり色褪せた袖の香を。( 絶句する)
貴族達、袖を目に当ててもらい泣きする。
貴族E 何という哀れさ。
女房C それこそ愛ですわ。本物の愛ですわ。
貴族B 大納言殿、立派でおりゃる。
女房D かぐや姫がうらやましいこと。
中臣 ( 傍白)東風だって? 方角が逆だろが。そもそも凪のはず。
大納言 ( 立ち直って)失礼いたしました。つい、あの折りの無念さを思い出しまして。あの時もし天のお助けがなかったならば、今こうして参上仕ることもなかったでありましょう。尊き御仏の姿をした一片の雲が西の空にムクムクと現れたかと思うや、待ちに待った風が吹いてきたのでした。
それから先も、これでもかこれでもかと、まろを試すかのごとく打ち続く苦難の数々。ある時は風のまにまに知らぬ国に吹き寄せられて、黒い鬼のようなものどもに捕らえられ、火あぶりにあいそうになりました。すんでのところ現れた白い象に助けられたのですが、何とそれは通りがかりに足のとげを抜いてやった覚えのある象だったのです。
女房C ( 感嘆して)まあ。
大納言 ある時は一行の者が原因不明の病にかかり、旅を続けるどころか明日をも知れぬ有り様。水夫(かこ)どもが意識を失いうめき悶える中、まろ自ら舵を取り櫂を握り、ようよう最寄りの島まで漕ぎ着けたのでした。
貴族A 何とも!
大納言 幸い島の娘の煎じた不思議な薬草のおかげで、どうにか持ち直したのですが、一行の半数を失ってしまいました。
ある時は、食糧(かて)尽きてさまようこと十日あまり。草の根を食い、海女のように海に潜って貝を拾い、ワカメをしゃぶっては飢えをしのぎました。
ある時は、突如現れた蛸入道のバケモノに櫂を捕られ、帆を折られ、数名が海にたたきつけられる大惨事。あるいは海の藻屑と、あるいは蛸の餌食となったのでした。まろが身も、蛸の吐いた墨で頭の先からつま先まで真っ黒に染まり、動くのも容易ならぬところ、ヤマタノオロチに向かいしヤマトタケルの命(みこと)さながら、八つの頭ならぬ八つの足と闘い、剣で一本ずつこれを切り落としたのです。
女房D お見事!
中臣 ( 傍白)スサノオの命(みこと)よ、許したまえ!
大納言 おかげでそのあと数日間は、飢えを心配する必要がなくなったのでした。
旅の空に、助けてくれる人もいないところに様々な病いして、つれづれを慰める手だても、共に語るに足る相手もいないところに、雲の白さを見てはかぐや姫を思い、月の清らかさを仰いではかぐや姫を慕い、海上を漂うこと二百日あまりにもなりましょうか。ある夜の夢に、おそれ多くも陛下の尊きお姿が現れ出で、あまりのお懐かしさにむせび泣きながら目を覚ましますと、あたりは真っ白い霧が立ちこめているのでした。
女房C いよいよですわね。
大納言 ( うなづいて)霧はいっこうに晴れる気配を見せやらず、進むにつれどんどん深まるばかり。太陽がいずこにあるのやら、海面(うみづら)がどこにあるのやら、全く見当つきません。竹竿さして周囲を伺いながらどうにか進みはしたものの、ついにはそばにいる水夫(かこ)どもの顔も、櫂を握るまろが手さえも見えなくなってしまいました。
冷たく濡れそぼった着物に身は打ち震え、歯の根も合わない有り様。このまま凍え死ぬのかとふがいなく思っている折りも折り、霧の中いずことも知れぬかたより妙なる笛の音が聞こえてきたのでした。
女房D なんて不思議なんでしょう。
貴族F して、その正体は?
貴族A そう急きなさるな。
大納言 はじめは空耳かと思いました。が、供の者を見ると、早くも皆、その音色に酔い痴れているのです。さてはこれこそが蓬莱に近づく者を狂わせる高麗(こま)笛の調べかと、恐ろしさに寒さも忘れる一方、ついぞ耳にしたことのない幽玄なる音色に心はおぼろとなり、頭の中にまで霧が入り込む始末。極楽浄土にすむという迦陵頻伽(がりょうびんが)の声もかくあろうかと想像される素晴らしさなのです。
しかし、ぼうっとしてはいられません。すぐさま用意しておいた蝋を皆に配り、耳につめさせました。
女房C 頭のいいこと。
大納言 こうして何も見えず何も聞こえぬ状態に置かれて、手探りで進むことどのくらいになりましょうか。いっかな終わらぬ白い檻の孤独に身も心も疲れ果て、いっそ魔笛の誘いにこの身をまかせ、楽になってしまおうかと思いかけた頃、心なしか霧が薄らいで、あたりが暖かくなってきました。
とこうするうちに、おのれの手が見え、櫂の先が見え、へさきが姿を現します。驚いたことには、数名の者が倒れ伏しているのです。孤独に耐えきれず、自ら耳の栓を抜き取り、狂い死にを選んだのでありましょうか。恍惚とした笑みを浮かべているその死に顔は、むごさのうちにも羨ましさを感じるものではありました。( 間)
死んだ者たちをねんごろに弔ってやるうちにも、船は不思議な潮(うしお)に乗り、ぐんぐんと一つ方に押し流されていきます。霧もすっかり晴れ、懐かしい太陽が姿を現しました。と、ある者が叫びます。「おーい、島だ! 島が見えるぞ!」 見ると、確かに黒い山らしきものが天を指しています。
その美しく神秘的かつ荘厳な様はもはや疑いようもありません。これぞまろが探していた山、夢にまで見た蓬莱の山に違いない、と一行に漕ぎ方を命じるにつけても、うれし涙で袖がずっしり重くなるのでした。
貴族B そうでしょう、そうでしょう。さぞや感激したことでしょう。
他の貴族たちもうなづく。
大納言 ( そっけなく)ここから先は、もはや話すほどのこともございますまい。
女房C まあ、そんないけずな。ここからが面白いんじゃありませんか。
貴族E 大納言殿。続きをお願いします。
女房D 陛下もきっとその先をお望みでいらっしゃいます。
皆の注視を受け、帝うなずく。
中臣 おやおや。殿は物語をご所望でいらっしゃる。
大納言 ( うやうやしく)御意のままに。
目的地にたどり着いた嬉しさは半端ではないものの、さすがに恐ろしゅう思われまして、山の周囲を漕ぎ回って二、三日ばかり様子を見ていました。すると、天人の装いをした女が山の中よりつといで来まして、白銀(しらがね)に光る椀を持ち水を汲み歩いているのに出くわしました。さっそく船から下りて「この山の名を何と申す?」と尋ねるに、女答えて曰く「これは蓬莱の山なり」 これをきくにうれしきことかぎりなし。名を尋ねますと「わが名はうかんるり」と言い捨てて、山の中にすっと消えてしまいました。
その山を見るに、まったく登ることができそうにありません。そこで、山のかたわらを巡ると、見たこともない麗しい花や木が立っています。山のふもとからは瑠璃色に輝く泉が流れ出でています。川には色とりどりの玉でしつらえた橋が渡してあります。その橋のたもとに、一際まばゆい光を放っている木の生えているのが、遠目にもそれと知られるのです。
( かたわらの瓶を指し)ここに持って参りましたのは、その中でも枝ぶりのかなり劣っているものでしたが、かぐや姫のご注文に違(たが)ってはいないものですから、一枝手折って参ったのです。
全員の視線、白い覆いをかけた瓶に集まる。
大納言 山の素晴らしさは筆舌に尽くしがたきもの。この世に喩えるべくもありません。昔語りに浦島太郎の遊んだ竜宮城も、蓬莱の山の美しさ、心地よさ、不思議さにくらぶれば、ものの数ではありますまい。一年中、色とりどりの花が咲き乱れ、木々になる実はどれも極上の味と香り。あたり一帯、甘美なる香りに満ち満ちて、呼吸(いき)をするだけで陶然とした心地になります。山の上からは天女達の奏でる楽の音が気持ちの良いそよ風に乗って流れてきます。その調べこそは、島の上で聴けばあらゆる屈託から解き放たれ、ニルヴァーナに心は遊びもするが、いったん島を離れて聴けば気狂いになるという、あの笛の音の正体だったのです。( 間)
さて、旅の疲れもほどなく癒えました。浦島太郎のように、この髪が霜降るまで遊んでいたいはやまやまなれど、かぐや姫のことを思うと気がせいて仕方ありません。蓬莱に住む天女達がいかに美しかろうと、この目で確かに見たかぐや姫の面影ほどにはときめきようがないのです。そこで、どうしても島に残りたいという連中を説得しまして、帰途に就いたのでした。
帰りは天女に教えられたとおり、へさきにこの蓬莱の枝をくくりつけて船を進めると、何とも不思議、船の回りだけ追い風が吹き、あのしつこい霧が左右に壁となって分かれ、航路(みち)をつくるじゃありませんか。まったく行きの苦労が嘘のよう。風にまかせ、わずか七日足らずで懐かしい日の本の土を再び踏むことになったのです。
昨夜遅くに難波に到着しまして、さきほど都に戻ったばかり。潮に濡れた衣を着替える暇(いとま)も惜しみ、ひたすら陛下に長のご無沙汰お詫び申し上げるべく、こうして参上いたしました次第です。
しばし間。
女房C ( うっとりと)こんな話、ついぞ耳にした覚えがございませんわ。
女房D ほんに。すっかり聞き惚れてしまいました。
貴族A 大納言殿、立派でおりゃる。
貴族B それもこれも一人の女のためとは。かぐや姫こそは、この世にまたとない果報者と言えましょう。
一同うなづく。
帝 大伴の朝臣よ。大いに感銘した。礼をとらそう。
大納言 礼などとんでもございません。陛下がためには、ただいま語りました以上の危険、困難をいとわないこの身でありますものを。
中臣 ( 傍白)そのセリフ、東宮のためにとっておけ。
帝 さあ、大納言よ。話の最後(しめ)を飾るのだ。そこなる蓬莱の枝を、そちが命がけで持ち帰った宝の枝を見せてくれ。
大納言 おおせのとおりに。みなさん、とくとご覧あれ!
大納言、瓶にかけた布を取り払う。
燦然と輝く蓬莱の枝。
一同、感嘆の声を上げる。帝、椅子より腰を浮かす。
貴族E なんと神々しい!
貴族F この世のものとは思われぬ。
女房C 眩しくて目がつぶれそうだわ。
女房D ああ、かぐや姫がねたましい。
貴族B まさしくこれは本物。
貴族A 絶対の美は存在したか。
中臣 ふん、ジングルベルにはまだ早い。
帝 ( 腰を落ち着けて)よい。目の毒だ。
大納言、得意満面で枝におおいをかける。
帝 どうやら弟達は敗れたらしいな。正々堂々と競い合って決着が着いたからには、あきらめるより仕方あるまい。
大伴の朝臣よ。かぐや姫のもとへ行き、そちの冒険談を聞かせてやるがよい。たとえ、蓬莱の枝が気に染まなかったとしても、話のはしばしにあふれたそちのひたむきな心を知れば、女もなびかずにはいられまい。
中臣 ( 傍白)せいぜい尾ひれをつけることだ。
大納言 有り難う存じます。お言葉通り、さっそく竹取の家に参るつもりでおります。首尾のほどはゆくりもなくみなさまのお耳に入るものと思います。
それでは陛下、みなさま方、これにて失礼をば。
従者、瓶を抱える。大納言、得意気に帝と貴族達に礼をして、従者を従えて退場。
帝 ( ぽつりと)これで求婚(つまどい)騒ぎも終わりを告げた。
( 手を打ち)さ、舞いだ。駿河舞いを。
上手、下手より装束をつけた謡い手、女童(めのわらわ)現れる。
女童、唄にあわせて舞い踊る。
しばらく舞いを見守る貴族達。ぼんやりと上の空の帝。
次の会話は、歌舞がストップした一瞬に交わされる。
女房D ご覧遊ばせ。陛下のうつろな顔を。
貴族F 月のように陰気な表情(おもて)をされている。
貴族B 大納言殿の成功を本心喜ばれておらぬのだ。弟君達の敗北を思いやっておられるのだ。
女房D いいえ、そうじゃないわ。大納言殿に嫉妬されているのだわ。
貴族B 何と!
歌舞流れる。またストップ。
女房C 陛下はこの唄がお好きね。東(あずま)遊びの駿河舞いが。
貴族E 三保の松原に降りた天女を謡ったものでしたね。
貴族A そうです。羽衣伝説はあなたがたもご存じでしょう。
女房C ええ。天女に恋した男の話ですよね。
貴族A 不可能に恋した男の話です。
歌舞続くうちに溶暗する。
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