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2023.8.13 【全文無料〔投げ銭記事〕】聖書と神道~“神”の決定的な違い・仏様と神様の関係~

『伊勢神宮』、そこは神々と自然と人が支え合う、物心豊かな共同体。

近代以前は、6世紀の欽明帝の頃より、天皇家や皇族方も仏教を守護し、祭祀を通じて国家と民の安寧を祈られてきたわけですが、明治維新以降、神道に固執する者たちにより仏と神の立ち位置が変わり、この国は約70年のうちに世界を相手にする大きな戦いに巻き込まれ、大東亜戦争終結までに多くの国民の生命を犠牲にするに至りました。

その後の現在も、GHQによる日本国憲法により仏教守護者に返り咲くことができない天皇家、昔とは異なり、檀家を食い物にし食法餓鬼とも言える職業坊主になり果てた仏教各宗派、更には18万もの宗教団体のうち、税金対策と称して実体のない新興宗教団体が数多く蔓延る始末…。

宗教の話をし出すとキリがないのですが、今回は、伊勢神宮に奉職された吉川竜美氏の著書『いちばん大事な生き方は、伊勢神宮が教えてくれる』を参考に、『伊勢の神宮が示す理想の生き方』というテーマで書き綴っていこうと思います。


伊勢神宮の『自給自足経済』

伊勢の神宮に参拝すると、参道を囲む鬱蒼うっそうとした巨木に太古の自然を感じます。

しかし、実は、これは伊勢神宮の森のごくごく一部です。

参拝者が訪れるのは約7haの宮域ですが、森全体はその800倍近く、総面積5500ha、東京ドーム1200個分、世田谷区とほぼ同じ面積の深い森が広がっているのです。

この深い森と、その中を流れる五十鈴川、そして五十鈴川が伊勢湾に流れ込む二見浦、それらのごく一部に農林水産業の全ての要素があり、伊勢神宮の『自給自足経済』が実現されています。

伊勢神宮で長らく神事に携わり、神宮徴古館・農業館・せんぐう館の館長を歴任された吉川竜実氏は、その様子をこう説明されています。

稲作用の田が神宮神田しんでん、野菜や果樹が育つ畑が神宮御園みその
ここで収穫された農産物は、毎日二回行われる日別ひごと朝夕あさゆう大御饌祭おおみけさいをはじめとする日々の神事の際の神饌しんせん(神さまの食事)となります。
(中略)
栄養分たっぷりの五十鈴川の水は大量のプランクトンを発生させ、豊かな海の幸をもたらします。
伊勢海老や鯛、あわびや昆布などの海産物も、神さまへの大切なお供えとなります。

吉川竜美著『いちばん大事な生き方は、伊勢神宮が教えてくれる』

産業は人間の命を支える神事

こうした人間の衣食住を支える物質的な富を神から授けられた大切なものと考えのが、神道の特徴です。

私たちの祖先たちは、木々を育てたり農作物を作ったり獲物を収穫する技を、神々から授けられたと考え、そして自分たちは神々の子孫であるととらえてきました。
その自分たちは、神に守られた土地において、神から伝わった技で手にした収穫物を、感謝を込めて神に捧げてきたのです。

吉川竜美著『いちばん大事な生き方は、伊勢神宮が教えてくれる』

農林水産業とは、人間が自然に働きかけて自然の恵みを頂く営みです。

自然によって人間が生かされている事に、我々の先祖は深く感謝し、その一部を神様にお供えしたのです。
ついでに言えば、工業も同様です。

このほかに、日々の神事で使われる素焼きの土器かわらけも、土器調製所で独自に作られています。
その数、年間六万個。
一度使った土器は細かく砕き土に返します。

吉川竜美著『いちばん大事な生き方は、伊勢神宮が教えてくれる』

そもそも伊勢神宮の内宮でお祀りされている天照大御神は、高天原の田で御自ら育てられた稲穂を、孫神の瓊瓊杵尊ににぎのみことに授けられて地上に送られました。

また、外宮でお祀りしている豊受大神とようけおおみかみは、食と産業の守護神です。

現代においても、企業で神様を祀ることが多いのですが、これも人間の命を支える各産業を神事と捉える伝統があるからでしょう。

「ごちそうさま」が示す“労働は神事”

各産業が神事として捉えられているので、そこでの人間の労働も神聖な営みです。

抑も天照大神ご自身が高天原で田を耕されているのですから、労働が神事であるのも当然です。

我々は食事の後で、
「ごちそうさま」
と言います。
吉川氏はこの意味を次のように説明しています。

ごちそうさまは、「ご馳走さま」と書きます。
たとえば、おかずに焼き魚が出てきたら、魚を釣ってくれた漁師、それを運んでくれた運送屋さん、売ってくれた魚屋の人たち、そしてもちろん料理を作ってくれた人……。
つまり自分のために走り回り、労力を使ってくれた人への感謝…が、この言葉に表れています。

吉川竜美著『いちばん大事な生き方は、伊勢神宮が教えてくれる』

しかも、このように自然の力を借りながら、食べ物を作る労働自体が神々に対する祈りであると考えられてきました。

従って、自分たちが汗水垂らして作ったものでなければ、神様にお供えしてはいけないと考えられているのです。

神宮の森と五十鈴川と二見浦で採れる食材を自分たちで調理して、お供えするという自給自足経済の根本には、このように労働を神事と考える伝統があるのです。

自然界の全ては『神の分け命』で、人間の同胞

一方、食事の前には、
「いただきます」
と言います。
これは食材の“いのち”を頂いて、自分のいのちのエネルギーとさせて頂きますという意味です。

太古の我々のご先祖様は、全ての動植物、魚類などのお陰で、我々の生命が支えられていることに、深く感謝の念を抱いていました。

また食材だけでなく、衣服の素材となる植物、土器を作る土や炎、住居を作る樹木などのお陰で、生活が成り立っていることに“お陰様”という気持ちを抱いていました。

そして、これら自然界の全てのものに『神の分け命』が宿っていると考えました。

もちろん、人間にも『神の分け命』が宿っていますから、人間にとって草木も山川も『同胞』なのです。

これは、全ての生物が、同じ構造の遺伝子を持つという現代科学の生命観に通じます。

“自然界の全ての生きとし生けるものが互いに支え合っている”という自然観では、“足るを知る”ことが大切とされます。

農耕を始めた世界の古代文明は、原始農業による自然破壊で砂漠化してしまっていますが、それは自然に対する同胞感の欠如から、人間が自分のことだけを考えて、“足るを知る”ことなく野放図な開発をしてしまったからです。

人間中心の考え方で自然を乱開発してきた近代西洋文明が行き詰まりを迎えて、SDGs(持続可能な開発目標)が訴えられているのも、“足るを知る”ことをわきまえなかったからであり、そして、その根底には、自然の全てが『神の分け命』として人間と同胞であるという自然観を持っていなかったからです。

なぜ参道の真ん中の木を伐らないのですか?

吉川氏は、日本と西洋の生命観の違いについて、こんな面白いエピソードを紹介しています。

伊勢神宮の参道には、巨木が中央に立っている所があります。

ある欧米のお客さまを案内し、この巨木の前に来たときのこと。
その方は不思議そうな顔をして、こう尋ねました。
「エンペラー(天皇)の祖先神を祀る場所の参道の真ん中に、なぜこんなに大きな木があるのですか?普通は伐るでしょう」

吉川竜美著『いちばん大事な生き方は、伊勢神宮が教えてくれる』

旧約聖書では、自然はGod(日本の神とは違う事を示すために、敢えてGodと記述します)が創造したものであり、人間も神に創られながらも、自然を支配する役割を与えられています。

ですから、邪魔な木があったら、人間のためにそれを切り倒すのが“普通”なのです。

神道を知らない現代日本人でも、道路を造るために木を切らならければならないとしたら、なんとなく罪悪感を覚えます。

それは、日本古来の生命観を現代日本人も受け継いでいるからです。

多様で平等な八百万の神々が力を合わせる世界

自然界の全てのものは互いに支え合っています。
例えば、樹木は山が集めた水を頂き、太陽の光で光合成を行い、また鳥たちが実をついばんで種子を運んでくれます。

万物に神の分け命が宿り、それらが全て支え合っているのです。

従って、自然界の全ての命は多様で平等な存在です。

この“多様で平等”という考え方は、日本社会の基盤となっています。

その伝統は、日本神話で天岩戸に隠れてしまった天照大神に、お出まし戴く場面からも窺えます。
八百万の神々は一同に会して智恵を集め、作戦を練ります。

そこで、天宇受売命あめのうずめのみことが神楽舞を舞い、神々がどっと歓声をあげて、天照大神が何が起こったのかと岩戸を少し開けたところを、腕力のある天手力男命あめのたじからおのみことが岩戸をじ開けて天照大神を引き出すのです。

祭祀と神楽を思いつかれた「企画者」ともいうべき思金命おもいかねのみこと、斎場をしつらえられた「舞台・音響担当」の天布刀玉命あめのふとだまのみこと、祝詞を奏上した「司会担当」の天児屋命あめのこやねのみことなど、それぞれの神さまが自分の長所を生かされ、役割を果たされた結果、世界に光が戻り、調和と秩序を取り戻すことができたのです。

吉川竜美著『いちばん大事な生き方は、伊勢神宮が教えてくれる』

一神教のGodは、唯一絶対の存在で、そこには多様性も平等も有り得ません。

そう信じていた西洋社会は、皇帝による独裁国家になり易いのです。

その独裁者の権力に対抗して、民が権力を持つべく戦ってきたのが『デモクラシー』、即ち“民衆デモ権力クラシー”を主張する『民主主義』なのです。

ところが、我が国では、“多様で平等な八百万の神々が力を合わせる”という世界観が神話の時代から根付いていたために、独裁とは縁遠い社会でした。

五カ条の御誓文で、
「万機公論に決すべし」
と、いきなり宣言されても、国民皆が当然の如く受け止めたのです。

西洋諸国以外では、日本が自由民主主義を最初に取り入れ、しかも極めてスムーズに定着させたのは、こうした世界観を国民が抱いていたからです。

人の心を本来の正常(=清浄)な姿に戻す「お清め」「お祓い」

神道では、人は神の“分身”ですから、そのままで完璧な存在だと考えます。キリスト教のように“原罪”の赦しを求める必要もなく、仏教のように修行を通じて悟りを開く必要もありません。

人間は本来、善性を持っていることの
科学的証拠が積み上がっている様をご紹介しました。

今まで原罪説に支配されていた西洋社会が、“人間は本来、善性を持っていることの科学的証拠が積み上がっている”ことから、新たに『性善説』に目を開きつつあるのですが、実は、その人間観は太古の昔から神道が説いてきたものでした。

ではなぜ、時折、悪人や犯罪者が現れるのか?

しかし、本来はパーフェクトな存在であっても、人はときにストレスをためたり、ネガティブな思いを抱いてダメージを受けることもある。
そのとき、人を正常(=清浄)な姿に戻してくれるのが神社であり、「お清め」や「お祓い」なのです。
人を本来の「神」である自分に戻してくれるシステム。
それが、神道と言ってもよいのです。

吉川竜美著『いちばん大事な生き方は、伊勢神宮が教えてくれる』

例えば、長い間、高い地位に就いていると、その地位に馴れて、当初の一生懸命に職責を果たそうという姿勢も見失ってしまいます。

更には、慢心して自分の独裁が当然と思ってしまうこともあります。

そういう慣れや慢心が、その人が本来持っていた正常かつ清浄な姿勢を覆い隠してしまうのです。

政治家が選挙を受けるのを“みそぎ”というのも、初心に戻って、選挙民のために尽くすべきことを思い出させる機会だからでしょう。

人間は、他の動植物とは違って心があります。
その心によって、村落や国家などの共同体を作り、また川の水を田に引いて稲を育てるなど文明を育ててきました。

それが、神の御心に沿った善いものであれば良いのですが、本来の正常かつ清浄な心を忘れて無限の欲望に駆られたりすると、おかしなことになってしまいます。

この意味で、権力を握る人々の上に皇室を頂いて、天皇が常に神々に大御宝(=人民)の安寧を祈られているというのは、天皇の無私の大御心に触れることが、権力者にとっての“お清め”や“お祓い”になると考えると、その深い合理性が理解できます。

神様は愛情深い祖父母のよう

この美しくも豊かな日本列島で、我々のご先祖様たちは、様々な恵みを頂いて生かされてきました。

この点に気付けば、ご先祖様たちが、神様を慈しみ深い存在と考えたのも共感できます。

もちろん、自然は時には津波や台風や日照り、疫病などで人間を苦しめます。

しかし、それは末法衆生の我々が御本仏に背き続け、数多くの無道心な衆生を正しき道へと教化するため、天照大御神や八幡大菩薩といった諸天善神に働きかけ天変地夭、大飢饉、疫病、更には内乱、他国からの侵略などを引き起こすのです。

吉川氏も著書で、災いは何らかの原因で神様が怒っている時だと述べていますが、全ては私たち衆生自らが招いている災いなのです。

また、それ以外のほとんどの時は、神々は人間を優しく扱ってくれると氏は述べていますが、これも仏法での正しき法を受けたもつ者に限ります。
神様はおろか、仏様の意に反した改悔かいげ無き生き方をしていては、幸いを招くことはできないでしょう。

また吉川氏は、神道における人間と神様の関係を、孫と祖母との関係で説明もしています。

孫が家のお手伝いを一生懸命していたら、おばあちゃんは喜んで褒めてくれます。

友達に親切にしてやったら、善いことをしたと、お小遣いをくれたりするでしょう。

そのおばあちゃんの手助けやお小遣いに、孫が喜んで感謝してくれたら、おばあちゃんは、
「そんなに喜んでくれるなら」
と、もっと孫を喜ばせようとするでしょう。

それと同じ事で、我々が神社で個人的な願い事をしても、神様の心に適う善いことである限り、神様は助けてくれると述べています。

そして、その願いが実現して神社でお礼参りをしたら、神様はもっともっと助けてくれるというわけです。

そういう善なる循環を、我々の先祖は信じていました。
そこから吉川氏はこう結論づけます。

周囲の人と調和しながら自分の暮らしをいとなみ、毎日をほがらかに過ごす。
これが、神さまに喜ばれる神道的な究極の生き方なのです。

吉川竜美著『いちばん大事な生き方は、伊勢神宮が教えてくれる』

神様が望まれることをする、それは仏様が望まれることをすることにも繋がってきます。
全ての神々は、お釈迦様が御在世当時に皆、正しき仏を教えを持つ者を守護することを誓いました。
これは、インドの神様だけの話ではなく、日本の神様も含まれています。
だからこそ、歴代の天皇家も仏教を長きにわたり守護してきました。

しかし、私たちが正しきことを行わないがために、未だに日本全体が総罰を与えられ、大罰が与えられ続けています。
年々日本は経済が衰え、日々働けど多くの人が豊かさを実感できず、心は荒み、死魔に憑りつかれ電車への飛び込み自殺や一家心中…。
勉学に励む学生、いじめが原因で自殺を図る生徒も未だ多いのはもちろん、別の形では、得意とする分野で一歩抜きん出た存在の学生さんたちが、心無い学校教諭の言葉によって将来有望な芽を摘まれ、描いていた夢さえも摘まれ、生きる価値を見出せず自殺を図る始末…。

何処へ向かえば良いのか浮草のように彷徨い続け、生きる価値を見出せない人々…。
凶悪な犯罪が増え、自らも犯罪に手を染めてしまい、人生を台無しにして今世を終える人々…。
仏法でいう末法濁悪の世となりつつある世の中…。
好き好んで堕獄に送られたいと思う人は、そういないと思います。

筆者も一仏教信者ではありますが、もし、根無し草の生き方をしているのでは?と少しでも感じたなら、一度、ご自身の臨終に繋がる成仏の相を見つめてみては如何でしょうか。
ふとしたきっかけから、人生が変わることもありますから。

貴方の人生が、よりよい人生を送られることを願って!

最後までお読み頂きまして有り難うございました。
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