2021.7.26 現代にも残る朝日新聞のスパイ
機密漏洩でスターリンの手玉にとられた日本
国家機密保護と平和維持
今から約7年前…
特定機密保護法案に対するマスコミの激しい反対はいかにも異様でした。
特に朝日新聞は、2013年8月から12月半ばまでに反対意見を社説25本、天声人語7回も使って反対。
読者投稿欄にも11月、12月の2ヶ月で反対意見が69本も掲載。
中国漁船衝突の映像が流出した時の社説には
「仮に非公開の方針に批判的な捜査機関の何者かが流出させたのだとしたら、政府や国会の意思に反することであり、許されない」と述べていました。
民主党政権時からの臆面もない豹変振りは見事としか言いようがありません。
朝日新聞など一部のマスコミは、特定秘密保護法によって戦前の「軍国主義」に戻るかのような反対をしていました。
しかし、逆の主張をするなら、戦前の日本も国家機密保護がまるで出来ておらず、そのためにスターリン率いるソ連に手玉に取られ戦争に引きずり込まれました。
第二次大戦での歴史をきちんと反省すれば、機密保護法の意義も明らかになります。
今回は、この観点から史実を振り返り、書き綴っていこうと思います。
「欧州情勢は複雑怪奇」で総辞職した平沼内閣
1939(昭和14)年8月23日
それまで仇敵だったドイツとソ連が突如、独ソ不可侵条約を結び世界を驚かせました。
その裏には秘密議定書があり、バルト3国、ルーマニア東部、フィンランドをソ連の勢力圏に入れ、ポーランドを両国で分割占領することが取り決められていました。
それに従って9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻し、同盟国であったイギリスとフランスが9月3日にドイツに宣戦布告しました。
これが第ニ次大戦の始まりです。
そして、9月17日にはソ連軍もポーランド領に攻め込んでいます。
日本軍の真珠湾攻撃による大東亜戦争が始まったのは、この2年近くも後です。
日米が戦わなければ、第ニ次大戦は、第一次大戦と同様の欧州内の戦争となり、日本は甚大な被害を負わずに済んだはずです。
しかし、残念ながら日本には、そのような巧みな外交ができませんでした。
他国の動きを探るも、自国の機密を守るという諜報・防諜能力が、極めて弱かったからです。
独ソ不可侵条約が発表されるや、その5日後に平沼騏一郎内閣は
「欧州情勢は複雑怪奇」
との言葉を残して総辞職しました。
そもそも日本は、ソ連を仮想敵国としてドイツと日独防共協定を結び、更なる強化を目指していたのに、そのドイツとソ連が結託してしまったのです。
ドイツやソ連の動きが全く見えていなかった事実を内閣総辞職という形で世界に晒したのでした。
しかも「欧州情勢は複雑怪奇」などと正直に吐露してしまう姿勢は、策謀渦巻く国際社会とは異次元のナイーブさでした。
日独交渉過程がスターリンには筒抜けだった
日本からはソ連の動きが全く見えていませんでしたが、スターリンには日独防共協定の交渉過程が筒抜けになっていました。
当時、東京−ベルリン間で暗号化された秘密電報をやり取りしていましたが、ソ連の諜報機関がベルリンでその文書のファイルを写真に撮り、且つモスクワの日本大使館から暗号解読書を盗み出していました。
その活動を指揮していたソ連秘密警察諜報部のワルター・クリヴィッキーが、後にスターリンの内部粛清に反発してアメリカに亡命し、回想録を出版して、その活動実態を暴露しました。
クリヴィッキーらの諜報活動で、この「防共協定」が表向きこそ国際共産主義運動に日独で対抗するという内容ですが、その裏に秘密付属協定があり、日独両国がソ連からの攻撃またはその脅威を受けた場合に、ソ連の「負担を軽からしめる」一切の措置を講じないことを約束していました。
ソ連にとっての悪夢は、ドイツと日本の東西2方面から脅威を受けることでした。
日独防共協定で、まさにその危険が現実化しつつあることをスターリンは掴み、その調印直後、ベルリン駐在通商使節にいかなる対価を払ってもよいからヒトラーとの協定に到達するようにと命じました。
ヒトラー自身は共産主義のソ連に対する根強い敵意を持っていましたが、外相のリッペントロップやドイツ外務省、海軍は親ソ反英路線であり、スターリンは後者の勢力と結んで、1939(昭和14)年8月に独ソ不可侵条約に漕ぎつけました。
日本政府は、こうしたスターリンの暗躍もドイツ政府内の二つの対立路線も把握しておらず、それまでの日独防共協定でソ連を仮想敵とする体制が固まったとばかり思っていたので、突然の独ソ不可侵条約に「欧州情勢は複雑怪奇」としか言いようがなかったのです。
翻弄された日本
これ以降、ヒトラーとスターリン2人の独裁者の化かし合いが続き、日本政府は翻弄されますが、事態がニ転三転して、まさに「複雑怪奇」になるので年表で整理しておきます。
1936(昭和11)年11月25日 日独防共協定締結
1939(昭和14)年8月23日 独ソ不可侵条約締結
1941(昭和16)年4月13日 日ソ中立条約締結
1941(昭和16)年6月22日 独ソ開戦
独ソ不可侵条約を結びながら、僅か1年半後に一転してヒトラーが対ソ戦に踏み切ったのは、ソ連が秘密協定に入っていないルーマニアの一地方を割譲させたことを協定違反とし、またソ連が軍備増強を進めている事を開戦準備と受け止めたからです。
この年表を見ると、日本が悉く後手に回っているのが分かります。
日独防共協定でソ連を仮想敵国としてドイツと結んだが、その3年後にはドイツとソ連が急に組んでしまい、梯子を外された形となります。
そしてドイツから日独伊ソの「4国同盟」案を持ちかけられ、日ソ中立条約を結んだ途端、今度は独ソ開戦です。
独ソ開戦後、スターリンが恐れたのは、ヒトラーが切望する日本が日ソ中立条約を破ってソ連に侵攻することでした。
しかし、ヒトラーの望みに反し、もし日本が対米英戦争に踏み切り、ソ連に攻撃を仕掛けないならば、極東のソ連軍を対独戦に回すことができる…。
日本が南進するか北進するのか、それがスターリンにとって生き残りをかけた分岐点でした。
スターリンの謀略
スターリンはこの分岐点に関して、二つの手段をとりました。
第1は日本を蒋介石政権、さらにはアメリカと戦わせて南進させようという謀略工作。
第2は日本政府の機密情報を盗みだし、その意向を探るという諜報手段。
第1の日本と米中を戦わせる謀略工作は、朝日新聞記者の尾崎秀實(ほつみ)に世論工作をさせて、日本と蒋介石政権の日支事変を煽動。
さらに尾崎は、近衛内閣のブレーンとなり、対中和平工作を妨害し、日本と蒋介石政権を共倒れにさせ、中国共産党に漁夫の利を与えようとしました。
スターリンは同時に、米ルーズベルト政権の中枢にもスパイを送り込み、日本を対米戦争に追い込む工作をさせました。
日本に対米戦争を覚悟させたハル・ノートの原案作成者である財務次官ハリー・デクスター・ホワイトもソ連のスパイであったことが戦後明らかになっています。
日本が蒋介石政権との戦いで泥沼に引きずり込まれ、さらには日米戦争に至ったのは、スターリンの謀略が見事に当たったからです。
筒抜けになっていた日本の動き
もう一つ、スターリンは日本政府の動きをスパイに探らせて、北進か南進かの意図を掴むために、複数の諜報ルートを使っていました。
一つは『フランクフルター・ツァイトゥング』紙の東京特派員リヒャルト・ゾルゲとその一味。
ゾルゲは駐日ドイツ大使オイゲン・オットの信頼を得て、その私的顧問の形で多くの機密情報を入手し、尾崎が日本政府筋から集めた国家機密とともにソ連に送っていました。
このゾルゲ一味が、1941(昭和16)年9月6日の御前会議で決定された米英蘭を相手として南進する決定をスターリンに伝えていたのです。
1941(昭和16)年10月にゾルゲや尾崎、以下35名が検挙され、ゾルゲは日本で死刑にされましたが、戦後、1964(昭和39)年に「ソ連邦英雄勲章」が授与されています。
もう一つの諜報ルートは、「エコノミスト」というコードネームで呼ばれていた日本人スパイです。
「エコノミスト」は北樺太石油会社の幹部で、9月2日に同社で開かれた午餐会で、左近司(さこんじ)政三商工大臣の発言内容をソ連に伝えました。
それは「日本政府のアメリカとの和平交渉が難航しつつあり、このままでは日米開戦となる。その場合、ソ連とは和平を維持することになろう」
という内容でした。
あろうことか、左近司大臣は御前会議の数日前に、その見通しを漏らしてしまったのです。
これらの情報を許に、スターリンは日本の対ソ攻撃はないと判断し、極東ソ連軍を欧州戦線に振り向けました。
当時の極東ソ連軍の規模は総兵力80万、戦車約千両、飛行機約千機と推定されていますが、その3分の1程度が西送されました。
当時の独ソ戦線はほぼ膠着状態でしたが、ソ連軍が12月初旬から冬期大反攻を開始し、ここからドイツ軍の敗退が始まります。
極寒での戦いに慣れた極東ソ連軍の貢献が大きかったことが推察できます。
ドイツの降伏後は、ソ連軍の相当部分は再び対日攻撃のために極東に送られました。
その間、日本はソ連に和平仲介を依頼するという間抜けた外交を続けていました。
そして、極東ソ連軍は日ソ中立条約を無視して日本の降伏直前に満洲を襲い、多くの在留邦人が犠牲となりました。
真の敵を見誤った日本
スターリンは、恐れていた日独との両面戦争を巧みに避けて個別撃破に成功しました。
その結果が、東欧と中国の共産化でした。
アメリカが中国市場を失い、蒋介石も台湾に閉じ込められた事を考えれば、第二次大戦の勝者はスターリンだけでした。
そして、その勝利は多分に優れた諜報能力によるものです。
ゾルゲ事件に関して、スパイ取り締まりを担当していた特別高等警察(特高)の第一課係長であった宮下弘は、この捜査で一年以上掛かってしまった事を回想し、
<もしゾルゲ事件の検挙が半年以前に行われていたとしたら、支那の背後にいるのが米英でなく、つまり、国共合作した蒋介石を援助して日本と戦争させているのが米英ではなく、ソ連だということがはっきり分かったでしょうから、対米英との宣戦布告などという馬鹿げたことは、あるいは起こらなかったかもしれない。>
と述べています。
一方のソ連は、イギリス外務省から東京のイギリス大使館に送られた次のような指示も情報入手していました。
<・・・もし、日本によるロシアへの攻撃が極東で行われたとすれば、どんな形であれ、日本に対し自動的に国交断絶を伴うことはない。
ソ連と大英帝国との同盟の取決めは対ドイツに限定され、日本がロシアと戦争をした場合は、日本との国交断絶をする義務はない。>
こういった背景から、日本の真の敵こそがソ連でした。
ソ連に対する満洲からの軍事圧力を強めても、米英との対立が強まる恐れはありませんでした。
逆に、ソ連は日独との2方面への対応で余力を使い果たして、蒋介石政権を援助する余裕は無くなっていたでしょう。
そうなれば、後ろ盾を失った蒋介石政権との和解も可能であったかもしれず、米英が対日批判する理由も無くなり和解の道も大きく広がったでしょう。
いずれにせよ、欧州での戦争に日本が巻き込まれる必要は何もありませんでした。
諜報・防諜能力の不足からスターリンの手玉に取られて、真の敵を見誤り、米英中と戦ってしまったのです。
我が国の独立と安全を守る諜報と防諜能力
スターリンの勝利の結果、東欧と中国が共産化し、さらに朝鮮戦争やベトナム戦争が起こりました。
共産主義国内での内戦や粛正・弾圧も含めれば、共産主義による犠牲者は8千万から1億5千万人に及ぶとされています。
これは第ニ次大戦の犠牲者約6千万人を上回ります。
その責任の一端は、敵を見誤ってアジアでの共産主義の膨張を防げなかった日本にもあります。
そして失敗の一因は、諜報と防諜能力の決定的な欠如にありました。
この「歴史の反省」は、現代にも重大な意味を持ちます。
現在、日本の安全と独立への最大の脅威は、ソ連と同じく隣国の中国です。
然るに、沖縄の米軍基地闘争やマスコミによる偏向報道は、真の敵を見誤らせてしまいます。
朝日新聞記者の尾崎秀實が、スターリンの手先として蒋介石政権との戦いを煽り、和平への動きを妨害したのと同じ構図です。
日本の独立と安全を守るには、領土と国民を守りうる軍事力と共に、政治と外交を正しい方向に導くための諜報と防諜能力の構築が不可欠です。
冒頭で朝日新聞の特定機密保護法案に対する異様な報道を紹介しましたが、民主党政権時代の中国漁船衝突の映像流出を「許されない」とした批判と考え合わせれば、朝日新聞が本気で報道の自由を守ろうとしているとは到底信じられません。
朝日新聞は大先輩の尾崎秀實の先例に従って、日本の独立と安全を脅かそうとしている中国のために、特定機密保護法案反対の論陣を張ったのだと疑うことは、私の穿ち過ぎでしょうか…。
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