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2023.3.21 三島由紀夫の伝説の討論会

学生運動の嵐が吹き荒れていた1969年5月13日。

三島由紀夫は東京大学に立ち、当時大学を占拠していた『東大全学共闘会議(東大全共闘)』、つまり、左翼学生の総本山とも言える学生団体に対峙していました。

右と左…、保守と革新…。

政治的に真っ向から対立する両者は、どのような討論をしたのか。

今回は、半世紀以上が経ち、当時の熱量も徐々に風化しつつある中、三島由紀夫と東大全共闘を通して、これからの日本人の在り方について少し書き綴っていこうと思います。


世界を覆っていると同時に、日本をも覆っている思想の主流は『批判理論』です。

『否定的弁証法』という方法を使い、常に現実を否定します。
それが、革命運動だとされてきました。

また、アメリカの第15代大統領のブキャナンは、
「批判理論の衝撃を受け、史上最高に恵まれていたはずの1960年代世代の多くが、自分たちは耐えがたき地獄に生きていると確信した」
と述べています。

当時の日本人もまた、自分たちは“疎外”されていると教えられ、そう思い込みました。

長髪で髭を生やした若者がギターを奏で、盛んに反戦を叫ぶようになったのもこの頃です。

1960〜70年代のフラワー・チルドレンと呼ばれたヒッピー世代は、『批判理論』が生んだ世代ということになります。

多かれ少なかれ、この世代の人々は、この思想通りの姿をしていました。

『反抗の世代』です。

日本では、1960年に安保闘争が展開されました。

その後、左翼は内ゲバを体験し分裂していきましたが、1969年に世界での『五月革命』の影響を受けて運動が再燃しました。

そして、1970(昭和45)年に三島由紀夫は自決しますが、その前年に三島氏は、東京大学で東大全共闘の学生と討論を行い、その様子が
『討論 三島由紀夫vs東大全共闘 ——— 美と共同体と東大闘争』(新潮社 )にまとめられています。

例えば、三島氏と学生との間には、次のようなやりとりがありました。

三島:「しかしやっぱりぼくは日本人である以上、日本人以外のものでありたいと思わないのだな。」

全共闘C:「しかし日本、日本人というのは、どこに事物としてあるわけですか。」

三島:「事物としては外国へ行けばわかりますよ。英語をしゃべっていると自分は日本人じゃないような気がするのです。英語が多少うまくなると。そして道を歩いている姿がショーウィンドーに映ると、このとおり胴長でそして鼻もそう高くないし、あ、日本人が歩いている、だれだろうと思う。これはどうしても外国へ行くと痛感するね。」

全共闘C:「しかし人間すら事物にまでいかない限り無理ですよ。」

三島:「その国籍を脱却するということは……。」

全共闘C:「脱却するということよりも、むしろ最初から国籍はないのであって………。」

三島:「あなた国籍がないわけだろう。自由人としてぼくはあなたを尊敬するよ。それでいいよ。だけれどもぼくは国籍を持って日本人であることを自分では抜けられない。これはぼくは自分の宿命であると信じているわけだ。」

<歴史にやられちゃう>
ことを批判する学生に対して、
<やられちゃうというか、むしろ歴史にやられたい>
と応答する三島が登場します。

明らかに全共闘の学生は、戦後の批判理論を信奉しています。

その『批判理論』に対抗しようとする三島氏の日本人であることを主張した議論がここに見えてきます。

今でいえば、学生のグローバリゼーションと三島のナショナリズムの対決です。

ただ、当時の東大全共闘の学生たちが、自分たちが何と戦っていたのかを理解していたかは分かりません。

戦後は、マルクス主義の思想が日本を襲っていました。

人々の中に“批判”や“批評”意識が蔓延して、人の話を聞いても“批判的”反応をすることが、あたかも日本の知識人に必要なことだと思わされていました。

戦後、『理由なき反抗』などという映画が大好評になったことを団塊の世代の皆さんは覚えていることでしょう。

これで、“家庭の崩壊”、“自立の思想”が当たり前の態度なのだと思うようになったのです。

このように、戦後日本に蔓延した思想に対して、今多くの日本人は、ナショナリズムへ切り替えるための知識と教養が失われていることに気付き始めました。

「日本文化とは何か」
を今や答えなくてはなりません。

日本人なら慌てる必要はありません。

自分の中に潜在化している伝統の“日本人を肯定”し、取り戻していけばいいからです。

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