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2021.7.29 GHQが消した国民的唱歌

♪兎(うさぎ)追いし かの山〜♪

の歌い出しで始まる『故郷』

♪菜の花畠に 入日薄れ〜♪

の歌い出しで始まる『朧月夜』

これらの唱歌は100年以上にわたって歌い継がれており、皆さんも幼い頃、学校で習ったのではないでしょうか?

現在の小学校の音楽教科書にも掲載されているこれらの唱歌ですが、実はGHQによって都合の良いものだけが残されていたことを知っていたでしょうか?

なぜなら、大東亜戦争の敗戦後、GHQの意向に沿って軍国主義や神道などに関わると見なされた歌は教科書から削除されたからです...。

その方針は戦後75年経った今も変わっていません。

『故郷』や『朧月夜』のようにGHQのハードルを越えて生き残ることができた歌もあれば、戦前、多くの国民に愛されていたにもかかわらず一瞬にして消し去られた歌もあります...。

実は、
♪われは海の子 白浪(しらなみ)の〜♪
で始まる「われは海の子』も本来7番まであった歌詞を3番までに切り捨てられた上で、現在まで生き残っている特異な歌です。

しかし、今から紹介する歌は、GHQによって完全に消され、現代の日本で知っている人はほとんどいません…。

その理由は、明治日本の躍進に貢献した、ある一人の男の存在が大きく関係していたのです…。

過去にこの男の記事を書いたことがありますが、今回は失われた国民的唱歌から、焦点を当てていこうと思います。

GHQが塗り潰した日本人の心
消された唱歌の謎・・・

下記の歌は、戦前の日本人は誰でも知っていた歌ですが戦後、GHQによって消された唱歌です。

♪旅順 開城 約成りて 敵の将軍ステッセル 乃木大将と会見の 所はいずこ水師営♪

現代では曲どころか、全く聞かれることのないこの歌。
そして、この唱歌と共に、GHQによってその存在を消された人物がいます。

歌詞の中にも登場し、戦前の日本人に聞くと皆が口を揃えて、「日露戦争の英雄」と讃えるこの人物…

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乃木希典(のぎ まれすけ)

現在の歴史の教科書で学ばれることはほとんどなく、忘れられつつある存在です。

なぜGHQは、この唱歌と乃木希典の存在を消す必要があったのでしょうか?
それは、この唱歌の元となったエピソードに秘密がありました。

このエピソードを詳しく紐解き、彼の人物像を辿っていくと、GHQが本当に消し去りたかった、日本人に根付いていた“ある理念”が浮かび上がってきました…。


「今は喜んでいる時ではない!あんなに大きな犠牲を払ったではないか…」

戦いに勝ったにもかかわらず、乃木は顔を覆って泣いていました。

1905年、世界を驚嘆させる出来事が置きました。

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日本の近距離に位置する、遼東半島の先端『旅順』。

当時、この場所に大規模な要塞を築いていたのは、世界最強の軍隊を持つロシア。

「世界のいかなる国が攻撃しても3年は持ち堪える」
そう言われた、この難攻不落の要塞。
ここをわずか5ヶ月で、乃木希典率いる日本陸軍が陥落させたのです。

ロシアにとって極東を支配する最重要地だった旅順の陥落は、重大な打撃でした。

そして、この旅順の戦いこそ日露戦争最大の山であり、その後の日本海海戦の勝利に大きく寄与したとも言われています。

一見、華々しく思えるこの大勝利なのですが、戦いの裏には多くの犠牲がありました…。

実はこの時、日本の10倍もの軍事力を持っていたとされるロシアの攻撃は凄まじく、戦いに勝利はしたものの、1万5千人以上の戦死者、4万4千人以上の戦傷者を出しました。

この犠牲を最も悲しんでいたのが、指揮官である乃木希典。
それもそのはず。
なんと戦死者の中には、彼の二人の息子も含まれていたのです。

要塞陥落から5日後…

乃木はロシア軍との話し合いの場に足を運びました。

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向かった先は『水師営』と呼ばれる場所。

ロシア軍からは、敵将ステッセル中将をはじめとする指揮官が参列。

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自身の二人の息子、さらには多くの部下の命を奪った敵が目の前に現れました。
両者が顔を合わすや、乃木の言動に周囲は驚きました。

「今日まで祖国のため死力を尽くして戦ってきましたが、それも終わりました。あなたと会見できるのは、喜ばしいことです。まずは、ロシア軍死没者のお墓整備と所在氏名の調査をしましょう。何かお助けできることがあれば仰って下さい」

このような話し合いの場では、敗者を晒し上げるのが通例なのですが、乃木は敗者へも敬いの気持ちを持ち、敵将ステッセルに握手を求めたのです。
乃木は日本・ロシア両軍の立場に関係なく、死没者の弔いを第一に考えていました。
この言葉にステッセル中将は感激し、

「乃木閣下は実に死者のことまで気に掛けられるのか。その思いやりの心には感謝しかありません」
そう言葉にしました。

さらに、この会見の際、映画技師がこの場の様子を写真に収めたいと要望。
本来なら、勝者は戦いに勝ったことを誇示するため、写真撮影を受け入れるのですが、乃木はそれを認めず、

「敵将にとって後世まで恥が残る写真を撮らせることは、日本人として許せない」
と丁重に断りました。

しかし、その他の記者も撮影の許可を求め、なかなか引いてくれません。
その状況を受け、彼はこう答えました。

「では、我々が既に友人となって同列に並んだところならば、一枚だけ撮影を許可しよう」

そこで撮影されたのが、下の写真です。

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乃木・ステッセル両将が肩を並べて座り、両軍の指揮官たちもまるで友人同士のように居並ぶ。
そこには、5ヶ月にわたって凄惨な戦いを繰り広げた敵同士の姿はありませんでした。
さらに注目して頂きたいのは、全員が刀剣を身に着けていること。
こうした場では、通常、敗者側の将校は丸腰にさせられます。
しかし、乃木は敗れたロシア軍にも敬意を払い、帯剣を許したのです。

これは、世界の常識ではあり得ないことだったため、外国人記者たちはこの配慮に感動。

この時の電文と写真は世界各国に配信され、乃木の言動は、日本の道徳精神を世界に知らしめることになりました。

この『水師営の会見』の後にも、乃木とステッセルの関係については、なお語るべきことがあります。

ステッセルは帰国後、敗戦の責任をロシア皇帝から追及され、死刑を宣告されるのですが、これを知った乃木は、海外にいた部下に様々な資料を送り、ステッセルを弁護するように依頼。

乃木の意を受けた部下は、パリやロンドン・ベルリンなどの新聞社に、
「ステッセル将軍は立派に戦い抜いた、素晴らしい指揮官だ!」
と記事を投書。
この記事が世界に出回ったことで、ステッセルの死刑は取り消されることになったのです。

「全力で戦った相手には敬意を示す。それが敗者であっても、その名誉を守り、絆を紡ぎ続ける」
そんな大和魂は、明治時代の日露戦争の時にも現れていました。

乃木とステッセルとの心温まるこのエピソードは、後に『水師営の会見』という名の歌となり、戦前、文部省唱歌として小学校で広く歌われ、教科書にも必ず載るほど親しまれたのです。


唱歌『水師営の会見』は乃木とステッセルとの心温まる絆を描いた歌であること。

さらには、乃木が
「勝って驕らず。相手を思いやる」
という価値観を持った人格者であったことがお分かり頂けたと思います。

そんな乃木を、ある意外な人物も尊敬していました。

それは、GHQ総司令官ダグラス・マッカーサーの父親であるアーサー・マッカーサー・ジュニア。

彼は、日露戦争時に観戦武官として乃木の身辺に付き添っていました。

彼もそこで、乃木の人格に惹かれ、息子のダグラスに
「乃木希典のような軍人になれ」
と教えていたそうです。

しかし戦後、奇しくも息子のダグラス率いるGHQにより、この唱歌と乃木希典の存在は消されることになります…。

なぜ、そうする必要があったのでしょうか?

その秘密は、彼が人生の格言にしていたものが関係していました。

それは、明治天皇が教育の基本理念として発せられた『教育勅語』。

その内容は、
・父母に孝行しましょう
・友達同士信じ合いましょう
・広く全ての人に愛の手を差し伸べましょう
・世の人々や社会のために尽くしましょう
などといった、孝行・友愛・博愛、その他含め12の徳目からなる高い道徳心が書かれたもの。

そして、この教育理念を何よりも大切にしたのが乃木希典だったのです。

ステッセルとの会見の際に垣間見れた彼の人格は、まさに教育勅語の理念を体現したものでした。

それだけでなく、後に昭和天皇の教育係として乃木が学習院院長に就任した際も、入学式などには必ず教育勅語を奉読。

さらには、台湾を日本が統治していた際、彼は三代目の台湾総督に就任。

この時も、治安の改善は教育にあるとして、台湾で教育勅語を普及させたのです。

彼は軍人として、教育者として、そして政治家としても教育勅語を大切にしてきました。

そして国民は、この理念を体現した彼の人格を広く普及し、見習うべく、唱歌として残したのです。

戦前では、高い道徳心が書かれたこの教育勅語こそ、国民として当たり前の心掛けであり、日本国民の精神的支柱だったのです。

崩された日本の教育

そんな教育勅語ですが…、
日本敗戦後、アメリカの思惑によって、この理念は全否定されるようになりました。

アメリカは、あの戦争で圧倒的不利な立場に置かれながら、勇敢に戦い続けた日本人の精神的な強さを恐れました。

捨て身の覚悟で向かってくる神風特攻隊…

硫黄島の戦いを始めとする、日本軍が見せた組織的な抵抗戦術はアメリカ軍を苦しめました…。

どうしたら、日本を二度とアメリカに歯向かうことのない弱い国にできるか?
戦後、占領軍の徹底的なリサーチで見出されたのが、『日本の精神』いわゆる大和魂の支柱となっていた日本的教育を叩き壊すことだったのです…。

そのため、教育勅語を体現した乃木の存在、そして彼の人格を肯定した唱歌『水師営の会見』はアメリカにとって都合が悪かったのです。
そこで、占領軍は乃木の存在を消し、唱歌を消し、さらには、全国の小学校に建設されていた天皇・皇后両陛下の写真と教育勅語が収められていた『奉安殿』という建物を全面撤去…。

そして憲法を変え、ついには教育基本法まで変更。
日教組を中心とした左翼に教育を牛耳らせ、自虐史観に基づく教育を植え付けました…。

約7年の占領期間に、教育を徹底的に作り替え、日本人の精神を骨抜きにしていったのです。

その結果、本来、日本人が持っていた
『父母に孝行し、友達とは信じ合い、世のため社会のため』
という道徳観が徐々に薄くなっていき、行き着いた先は
『個の自由』
『人権』
のみという欧米式の思考が蔓延する世の中でした…。

現代日本では『戦前の教育』と聞くと、
「時代遅れ」
「軍国主義・封建的」
といったレッテルが貼られ、中身を見るまでもなく批判される空気があります。

しかし、その教育を受けてきた偉人たちの功績を見れば、何ら軍国主義的なものではないこと。

むしろ、本来、日本人が大切にしていた道徳心を重んじていたことが分かるのではないでしょうか…。

現代の青少年は元気がない、未来への夢がない、志がないと言われたり、社会人も時間に追われるばかりで、自分たちの生活や日本をどうしていきたいかという夢がなくなってきているように思えます。

これは、海外から輸入された『個の自由』を尊重するあまり、他人への思いやりや国家のために働くといった、もともと日本人が大切にしてきた感性が無くなったことが原因ではないでしょうか。

『教育は国家百年の計』と言われますが…、
教育を変えてしまうということは、人間の生活や夢、さらには国家をも変えてしまうほどの影響力があります。

私は、教育分野こそ我が国が抱える根本的問題だと考えます。

戦前の価値観はすべて“”、欧米から来たものや国際基準という価値観は“”とする考えは、大切なものを失っているように思えます。

我が国には、過去に素晴らしい事績があり、多くの国民はそれを知らずに生きているため、そこからエネルギーを貰えていません。
これでは宝の持ち腐れです。

過去の先人たちが築いてきた『人育て』の原理を知り、それをどう汲み上げ活かすことができるかを考えることで、国民一人ひとりが志を持って、活力ある毎日を過ごせるようになると確信しています。

今こそ我が国に眠る宝に気づくべきではないでしょうか。
今、私たちが気づかなければ、先人たちが受け継いでくれた叡智が、いずれ消えてしまうかもしれません。

戦後の教育により、教え込まれた自虐史観に囚われるのはもうやめにしましょう。

明治の教育で育った先人たちが、世界の五大国の仲間入りを果たすという近代世界史の奇跡を起こしたように、戦前の教育で育った先人たちが敗戦後、急激な高度経済復興を実現したように、正しい道標の下、国民一人ひとりが良心を持ち、自ら勤勉し、かつ互いに思いやりを持って教育に励んでいけば、国の文化や経済は大いに発展し、豊かで幸福な国民生活を実現することができるでしょう。

教育とは、国民誰もがそれぞれの場で貢献することができる分野です。

学校のみならず、家庭でも職場でも、志ある人々が一体となって教育に向き合うことで、日本本来の底力を発揮し、きっと日本はこれまでにないほど強く、自信や希望に満ち溢れた国として、世界の中で輝きを取り戻すことができるでしょう。

今回は世界最古の文化伝統を持ち、過去の偉人を育てた日本独自の教育を知ってほしい、そこから自信を得てもう一度日本を偉大な国にしたいという気持ちと、その伝統や精神を皆さんの子供や孫の世代にも受け継いでいってもらえればという思いで書いてみました。

〔編集後記①〕

皆さんは、
“リップンチェンシン”
という言葉を聞いたことがありますか?

「あの人はリップンチェンシンだから大丈夫」
「あの店はリップンチェンシンだから安心ね」
と、こんな使い方をされるのですが、実はこの言葉はお隣の台湾で使われていています。
その意味は“日本精神”と訳されて、「公正さ」「勤勉さ」「信頼」を表す言葉として使われており、
『台湾人と日本精神(リップンチェンシン)』
という書籍が出版されるほど、台湾では馴染みの深い言葉です。

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そして、この本の中には、
「日本の道徳教育こそが台湾人の精神基盤となって、その後の台湾発展に大きく貢献した。」
と書かれており、『日本の道徳教育』が高く評価されています。

では、『日本の道徳教育』はどうやって根付いたのでしょうか?

実は、日本が台湾を統治し始めた頃は、抗日運動が起こるなど治安はとても悪い状況でした…。

そんな状況の中、三代目の台湾総督として就任した人物が乃木希典でした。

彼は、
「治安の改善は教育にある!」
として、高い道徳心が書かれた日本の教育理念を普及させました。

この教育理念を広めたことで、後の台湾に日本精神を根付かせるきっかけとなったのです。

乃木が普及させた、その教育理念である“教育勅語”。

『台湾人と日本精神(リップンチェンシン)』の本の中には、この教育理念について、こう書かれています。

〈この教育勅語が、戦後の日本で非難されるような軍国主義的なものではなかったと考えている。教育勅語は現代でも古今東西に通じる“人の道”であると信じている〉
と…。

〔編集後記②〕

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上の画像は、全国で50%のシェアを誇る東京書籍の中学校の公民教科書です。
(画像:東京書籍『新編新しい社会公民』平成28年度採択)

お子さんがいらっしゃる方であれば、見覚えがあるかもしれません。

さて、この中身を見たことはあるでしょうか?

全国で一番のシェアを誇るこの教科書が、どういうことを教えているのか、まず下の目次を見て頂きたいのですが…、

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第2章で憲法について述べた章があります。

ここでは『個人の尊重と日本国憲法』というタイトルが付けられていて、まるで、憲法が個人の尊重しか訴えていないかのような表現です。

その中身をさらに探ってみると、『個人』『平等』『自由』などといった言葉が並ぶ『人権』のオンパレード…。

こういった教科書で学んでいると、
「個人の人権は何よりも第一に考えなくてはいけないんだ!」
と社会に出る前の教育途上の中学生たちが思ってしまうのも無理はないでしょう。

しかし世の中には、自分の命を危険に晒してまで私たち国民を守ってくれている自衛隊や消防隊員のような方々がいます。

そういう人達がいてこそ、『個人の人権』は成り立ちます。

自衛隊や消防隊員だけでなく、守ったり救助してくれる人達に対する感謝の気持ちを蔑ろにして、個人の人権や自由ばかりを尊重していると、本来、日本人が大切にしてきた相手を思いやるという共同体の精神が薄れてしまうのではないかと私は危惧しています…。

それに比べて、戦前の道徳教科書は何を教えていたのかというと、例えば尋常小学校の修身教科書には、

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こんな二人の男の子(文吉と小太郎)が描かれた絵の物語から始まります。

この絵の内容は、
<文吉は大きな風呂敷包みを傍において、松の木の下で休んでいました。小太郎は遊びに出た途中でそれを見て、文吉に「その包みは重そうだから二人で持って行きましょう」と言いました。そうして、包みの結び目の下へ竹を通して持って行きました>
という非常にシンプルな物語ですが、この物語が伝えたいことは、人に対する思いやりや共感の心、他人を利する利他の心が描かれています。

教育勅語の中に、『朋友相信じ』という一節があるのですが、それを子どもにも解りやすく説明したのが、上の絵の物語になります。

友達どうし思いやりをもって付き合ったり、互いに信じ合える友達を持つことが人間教育の第一歩である、という考え方がここにはあります。

明治天皇が発せられ、戦前の日本人の精神的支柱となっていた“教育勅語”。
その理想を生涯を通して大切にしてきたのが、国民から英雄と讃えられながらも、戦後日本の歴史教科書から消し去られ、私たち日本人の記憶からも消えようとしている乃木希典なのです…。

今回は普段より長い記事となりましたが、最後までお読み頂きまして有り難うございました。

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