2022.5.25 民族から読み解くロシアとウクライナの原点
ロシアのウクライナ侵攻が始まって、はや3カ月。
世界に与える経済状況は、日を追うごと影響力を増していますが、今回は5月7日の記事の続きとして、ロシア人やウクライナ人の民族の原点を掘り下げて書いていこうと思います。
ロシア人もウクライナ人も、その多くが同じスラヴ人です。
東欧人、バルカン半島人の多くもスラヴ人です。
『スラヴ(slav)』は、英語で『スレイブ(slave)=奴隷』です。
古代ギリシャ人が、その勢力を拡大していく中で、バルカン半島北部のスラヴ人と出会い、
「お前たちの話している言葉は何だ」
と聞くと、
「言葉(スラヴ)だ」
と答えます。
『スラヴ』というのは、スラヴ語で『言葉』という意味です。
『スラヴ』と聞いたギリシャ人は、
「では、お前たちをスラヴ人と呼ぼう」
ということになりました。
古代ギリシャ人は、大量のスラヴ人を奴隷にしました。
次第に、ギリシア語の『スラヴ』は『奴隷』と同義の意味を持つようになります。
ローマ帝国もまた、多くのスラヴ人を奴隷にして酷使しました。
ローマ帝国では、『スラヴ(slav)』は、『スクラヴス(sclavus)=奴隷』というラテン語に変化します。
ギリシャ・ローマ時代以来、スラヴ人の女奴隷が好まれ、スラヴ人が多く居住していたウクライナやバルカン半島で“スラヴ人狩り”が行われました。
スラヴ人は肌が白く、金髪で、今日でも美女が多い民族です。
ギリシャ人やローマ人はスラヴ人部族を襲い、美女たちを略奪しました。
美女は市場で売られ、金持ちの性奴隷にされました。
中世以後、ゲルマン人やイスラム教徒もまた、盛んに“スラヴ人狩り”を行いました。
13世紀、チンギス・ハンによって急拡大したモンゴル人は、ロシアや東欧へと攻め入ります。
モンゴル兵たちは見たことのない金髪のスラヴ人女性の美しさに狂喜し、女たちを奪い合いました。
チンギス・ハンの幕僚にスブタイという勇猛な武将がいましたが、スブタイはチンギスが止めるのも聞かず、東欧の奥地へと進攻し、スラヴ美女たちを連れ去りました。
スラヴ人を最も組織的に奴隷化したのは、16世紀に全盛期を迎えるイスラムのオスマン帝国でした。
スラヴ人の言語の祖語は、紀元前10世紀頃にウクライナ西北部からベラルーシで成立したと考えられており、スラヴ人としてのまとまった集団もまた、同時期・同地域に現れたと考えられます。
研究者たちはスラヴ人の原住地について、元々スラヴ人はウクライナ西北部からベラルーシに居住していたのではなく、それ以前、バルト三国やフィンランド付近に居住していた可能性が高いと指摘しています。
そして、スラヴ人は紀元前10世紀頃に、ウクライナ西北部からベラルーシに南下し、まとまった集団を成したとされます。
スラヴ人には金髪碧眼が多いため、北欧人(北方人種)と元々同族であったとする考え方が、19世紀後半から20世紀初頭にかけてありました。
しかし、北欧人はゲルマン人の血統であり、スラヴ人とは遺伝子の型も異なります。
スラヴ人に金髪碧眼が多いのは、金髪碧眼と強い相関関係があるY染色体ハプログループIがR1aと並んで、高頻度に検出されることが原因です。
同様に、北欧人にもハプログループIが高頻度に検出されることは共通しています。
例えば、スラヴ人の代表の一つであるロシア人の平均値として、ハプログループR1aが46〜48%で検出され、ハプログループIが18%前後で検出されています。
さらに、アジア系ウラル語派に高頻度に見られるハプログループNも20%以上で検出されています。
一方、西ヨーロッパ人に多いハプログループR1bは6%以下に止まります。
スラヴ人は紀元前8世紀頃には、ウクライナからロシア、東欧、バルカン半島方面に広範囲に移住拡散しています。
古代ギリシャ人とスラヴ人が邂逅するのはこの時期です。
4世紀後半から始まるゲルマン人の大移動の中、東欧やバルカン半島のスラヴ人はゲルマン人と混血し、その純血はほとんど失われていきます。
一方、ロシア方面に拡散居住していたスラヴ人は、ゲルマン人の侵入をほとんど受けなかったため、スラヴ人の純血を一定レベルで保持しました。
9世紀に入ると、ハンガリーを中心とするパンノニア平原に、アジア系のマジャール人が侵入し居住します。
このことによって、バルカン半島から東ヨーロッパ全域に拡がっていたスラヴ人が、マジャール人を間に挟んで南北に分断されることになります。
そして南北のスラヴ人は、今日まで、それぞれ独自の言語や歴史を発展させていくことになったのです。
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