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2022.5.7 ウクライナで内戦が激化したワケ

今回は、4月21日の『第2次世界大戦にウクライナ人の5人に1人が死んだ悲しい理由』の続きとして、ロシアとウクライナの関係や民族についての歴史を書き綴っていこうと思います。

1991年、ソ連崩壊と共にウクライナは独立しました。

独立後、西部ウクライナ人と東部ロシア系住民との対立が表面化します。

東部ロシア系がロシアの支援を背景に、豊富な資金力で勢力を拡大して固い団結をしているのに対し、西部ウクライナ人は利害の調整が進まず、一枚岩になっていませんでした。

ロシア系住民の多い東部は、ドネツク州を中心にウクライナからの分離独立を目指し、武装勢力を結成します。

ウクライナ東部には、資源・鉱物、重化学工場が集中しています。

東部の分離を認めると、西部はそれらを全て失ってしまいます。

2013年、ロシア系住民とウクライナ人との対立が激化し、ウクライナは内戦状態になります。

ロシアのプーチン政権は、住民保護といった名目でウクライナに軍事介入しました。

この混乱の中、ロシアはウクライナ南部のクリミア半島でロシア系住民のデモを煽り、意図的に混乱を引き起こし、軍事介入の口実を作ります。

そして、住民投票を経て、2014年3月18日、クリミア半島をロシアへ編入しました。

ロシアにとって、クリミア半島の奪還は歴史的悲願でした。

19世紀のクリミア戦争での激闘の舞台となった歴史的因縁の地セバストポリで、クリミア帰還の大祝典が行われました。

「ロシアには友人はいない。2人の同盟者だけがおり、それはロシアの陸軍と海軍である」
とは、19世紀末のロシア皇帝アレクサンドル3世の言葉です。

プーチン大統領はアレクサンドル3世を称賛し、クリミアに皇帝の銅像を建立し、台座にこの言葉を刻みました。

ロシアの皇帝の中で、アレクサンドル3世は決して有名ではありません。

アレクサンドル3世の父アレクサンドル2世は、農奴解放令を発布した皇帝として有名ですが、3世は日本の教科書や概説書でもほとんど扱われません。

しかし、ロシア人保守派にとって、特にプーチン大統領のように、
「ロシア帝国の栄光を取り戻す」
という信念を持った政治家にとって、アレクサンドル3世は『聖人』のような存在です。

ロシアにとって、今も昔もクリミア半島は死活的に重要な戦略拠点です。

ロシアは現在、クリミアに基地を置き、黒海全域の制海権を握り、西方のバルカン方面、南方のトルコ、ジョージア(グルジア)、アルメニア方面に睨みを効かせています。

クリミア半島併合後も、ロシアはウクライナへの介入を強め、親ロシア派を支援し内戦が激化しました。

ウクライナ人とロシア系住民は、言語も宗教も近い同じスラブ民族ですが、互いに殺し合い、1万3000人以上の犠牲者が出ています。

ウクライナ問題は、ウクライナ人の迫害の歴史から生じるロシア人への激しい憎悪とも深く関連しており、感情的にも妥協できないのです。

その後も、政府軍と親ロシア派による戦闘と停戦を繰り返します。

プーチン政権は、2014年から続く紛争をウクライナ人同士の『内戦』と位置付けていました。

2022年、プーチン大統領はウクライナ東部の親ロシア派の独立を承認し、彼らの要請に基づき軍事介入をし、今日に至るのです。


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