見出し画像

人生とは壮大なクリエーション

会社員を辞めた直後、私は、ただの私になった。

〇〇の会社の〜
とか、

〇〇の仕事をしている〜
とか、

自己紹介する時の
自分の名前の前につける
肩書きがいっさいなくなった瞬間、

自由で開放感
そして高揚感のような感覚の中に
一握りの不安が入り混じったような

そんな感覚を胸にいだいていたのをよく覚えています。

そこからどうやって生きて行くのか、
しかもパンデミックの真っ最中
どこも国境が閉まっている中

物理的に国境が開けば
すぐにでもモロッコへ行きたくて
身軽でいたいがために、

何の当ても無しに会社員を辞めるという
リスキーな選択をしたのだ。

履歴書に少しの空白も作らないように転職をしてきたくらい
世の中のレールから外れないように社会人生活を送ってきた自分からすると
ほんとうに大胆な選択をしたなーと思った。
(いや、ほんとうに。笑)

でも、良くも悪くも

子どものころから
「こうしたい!!!!」
というものに出会ってしまうと

それまでのことがどうでもよくなるかのように
「こうしたい!!!!」になってしまう。

とはいえ、
そこからは、

自分はいったい何者になるなのか
自分にはいったい何ができるのか
自分とはいったい何なのか

自分探しを続けることになった。

自分で生きていくには
「自分」を知る必要がある。

たとえば、

’’好きなことを仕事にする’’

といっても

何が好きで、何が得意で、何を叶えたいのか

知らないといけない。

自分を知るための時間をこれ以上にとっては、

少しでも興味があるものに触れ
他者の力を借りながら
さまざまツールを使いながら

それはもう本当に細部まで
自分や人生について向き合ってきたんです。

そんなかいもあってか、

自分が好きなことや、得意なこと
自分のこれまでの選択の目的

これからどうしていきたいのか
すごく明確になっていました。

ところが・・・!

それとは裏腹に
年月が過ぎて行くたび

心の中には「焦り」の感覚が
次第に大きくなっていったんですね。

それは、

自分のことはよくわかったとしても

その自分が

いったに誰の役に立つのか
どんな人の力になれるのか
世の中から求められるような人になれるのか

本当によくわからなくなってしまったからだ。

気づけば

自分のやりたいこと

人の役に立つこと

のはざまに立たされて
どうしたらいいのかわからなくなっていった
自分がいました。

ありがたいことに
当初の予定したモロッコと日本の行き来する生活もできたし

新しいたくさんの人との出会いの中で

仕事の依頼をしてくれたり
何か頼んでくれたり
声をかけてくれたり

「何とかなる」という自分の根拠のない自信の通りに
ことが進んでいって
何とかなっているんですけど、

同時に、
何をやってもハマらなくて

自分からその場を離れたり
逆に離れなきゃいけなくなったり

なんか違うなと思っても
他者の役にに立つならと
自分の本音を隠してしまったり

そんなことを繰り返しては

あれ?結局どうしたいんだっけ?

みたいな迷子の中

日本に帰国と同時に
いったん日本で生きることになった去年。

ようやく、

’’いったん立ち止まろう’’
と、人生初の引きこもりのような生活を送ることに。

前置きが長くなってしまいましたが、
全く同じ状況じゃなくてとも

自分と真剣に向き合い、もしくは向き合っていて
自分のことがわかりつつも

そこからどうしていったらいいのか
わからなくなってしまう人って
少なくないんじゃないかな。なんて思ったり。

でも

もがきつつも前に進むしかない状況って

どんな環境や状況であっても
誰だって人生を送っていれば、そうなりますよね。

そんな、もがきながらも生きている中で
私が欠かさずやっていたのは

自分が興味を持つことがらへの
大量なインプットでした。

今や本でも動画でも
人から間接的にでも

文章や映像でさまざまなことを
家にいたって学べるのだから
本当に幸せな時代に生まれたなと思います。

何になるかもわからずに
その時々で気になることを
とことん調べたり、読んだり、見たり、

興味が薄れたら、
また興味がある新しいことに触れ

「浅く広くってよくないよな…」
「一貫性がなくて何も身にならないな…」
という頭の声をただ受け流しながらも

とにかく多岐にわたって
さまざまな学びをしてきました。

適当にその時々の感覚や興味に沿っているから
一見、ジャンルもバラバラだし
側から見たら
「いったい何がしたいの?」
って感じだと思うんですど。笑

でも、やっていくうちに
その一見バラバラの中にも
共通点を見出せるようになった。

自分がずっと興味を絶えず学んでいたことって
ちょっと抽象的なんですけど

「生きる」って何?「人生」って何?
「人間」って何?笑 みたいな感じで、

やっぱり「生きること」とか「人の精神性」とかに
何かしら関わることだったんです。

そして最近、
すごく大きな気づきが訪れました。

それは

人生とは壮大なクリエーション

だということ、

この言葉だけ見たら
何のこっちゃなんですけど、

どうやって生きるのか
幸せとは何か
生きていくために何が必要か

それって当たり前ですけど
人それぞれじゃないですか。

そう、でも

頭では
それぞれだし、答えはない
ってわかっていても

無意識に
「何が正解か?」
を人は探し求めてしまうものなんです。

何か道標がほしくなってしまうのが
人間ってものなのかもしれません。

だから世界の大多数の人は
宗教を信仰しているんだろうし。

でも、そもそもですよ?

最初から
どうすればいいのか
何を求めていけばいいのか
どうすれば幸せに生きれるのか

全ての答えがわかっていたら
それって楽しくないんですよね。

そんなことを思いながら
過ごしていたら、

全然関係ないところで

「不純物を少しずつ捨てて、世界で最も純粋なものを作り上げて行く作業」

って言葉をひょんなことから目にした時に

人生は壮大なクリエーション

って言葉が降ってきて、
その瞬間なぜか全然わからないんですけど
自分の奥深くとつながって

「ああ!そうだ!そうなんだ!」

と涙が溢れてきました。

自分とは何か
自分にはいったい何ができるのか
自分の幸せとは何だろう

そうやって
じっと自分と真剣に向き合うことも
とてもプレシャスな時間だけれども、

日常や暮らしの毎日の中で体験し
さまざまな現象を通して自分が感じる
ポジティブな体感・ネガティブな体感こそ、

「不純物を少しずつ捨てて、世界で最も純粋なものを作り上げて行く作業」
に必要なのであって、
それこそが「生きる」ということなんだ。

そう気づいた時、

心の底から
「自分の人生って、なんて素晴らしいのだろう」
と思えたんです。

それぞれが自分の内に自動的に働く
「感情」というシステムに意識をフォーカスして、

「心地よくない」
「不安・恐れ」
「モヤモヤ」

などのネガティブな感情に気づき
その感情が教えてくれる
’’不純物’’をとりのぞき、

最も純粋なものを作り上げていくこと
=自分の本来の自然で純粋な状態に戻して行くこと

その過程こそが
人生なのだと思った時、

一度は純粋な自分でなくなる必要があるし
ネガティブな感情や出来事さえもとても大切なものなんだと

そう腹から思えた時、

それぞれがそれぞれの人生を
ただ一生懸命に生きることしか
できないと思ってしまった。

そう思ったら、

自分の人生とは
自分にしか与えられていない
最高のフィールドだと思えてきませんか?

そもそも私たち人間って
「感情」
という素晴らしいナビがついているじゃない。

何に心地よさを感じ
何が好きで
どんなことに気分の良さを感じるのか

その答えを知る方法は
すでに自分に備わっている。

人は
’’何が好きなのか’’

’’何をしたいのか’’
を大袈裟に捉えがちだけど

日常や日々の暮らしの中で
毎日、毎瞬、感じとっている。

これが食べたい
とか
ここに行きたい
とか
寝たい
とか

それはもう本当にたくさんの反応が起こっている。

そこに気づいているのか
気づいていないのかでは
この先の未来に大きく影響するんです。

もし、今
自分が何なのか
自分はどうしたいのか

もがき悩んでいる人がいたら
こう伝えたい。

もう自分とは何かを探さなくていい
もう外側を意識しなくていい
もう何も付け足さなくていい

正解を求めなくていいし
間違っていることだってない。

自分の最高の人生をクリエイトしていくための
ツールはすでに自分の内にあるのだから。

心が動いたらサポートいただけたら嬉しいです!いただいたサポートは、人生を幸せに生きる情報発信のための探求に使わせていただきます。