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リーディング小説「美しい子宮~寧々ね~」第十二話 ただ、意識を向ける方向を変えただけ

ただ、意識を向ける方向を変えただけ

三日間こんこんと眠り続け、この世の果てまでたどり着いたわたしは、前世を思い出しました。
翌日からわたしは身体中の細胞が入れ替わったように元気になり、めきめき回復したのです。まるで新しい自分に生まれ変わったように、女としての欲求はすべて消え去りました。誰に封印されたわけでもなく、自分で封印したわけでもありません。
「抱かれたい、女の悦びを得たい」
そんな肉欲で結ばれた愛情に、興味を失っただけです。
それが魂から望んだものではない、と知ったからです。
生まれる前から、今世は処女として本当の愛を得て生きる、ことに気づいたからです。

元気になったわたしは、積極的に秀吉の側室となった龍子殿と仲良くなりました。秀吉の子を産んでもらうために、精がつく食べ物を龍子殿に贈りました。龍子殿の連れてきた子ども達に、肩身が狭い思いをさせないように尽力しました。こうして龍子殿と平和的な関係を築いていきました。

その間、秀吉と柴田様の関係は急速に悪化してまいりました。
信長様の「百日忌法会」のことで柴田様と対立し、一触即発にもなりかけない状態でした。
わたしが寝込んでいる時、秀吉が独断で決めたお寺選びは失敗でした。
彼が信長様の「百日忌法会」をしたかった阿弥陀寺は、信長様にゆかりの深いお寺でした。
そこで葬儀をすることで、彼は自分こそが信長様の後を引き継ぎ天下を治める、と知らしめたいと考えたのです。

ところが、阿弥陀寺の清玉上人に
「ささやかですが、もう信長様の葬儀をしました。
改めてもう信長様の葬儀を行う必要がありません」
と、申し出を突っぱねられたのです。
それでも秀吉は阿弥陀寺にこだわり、清玉上人に三百石を進呈するから、とさらに頼みこみ頭を下げました。
しかし清玉上人は、頑と拒否し続け受けて下さらなかったのです。
元気になったわたしは、秀吉に阿弥陀寺をあきらめ新しいお寺を探すよう、アドバイスしました。
阿弥陀寺にこだわることは、いつまでも信長様の威光をかざすことになるので、いっそ違うお寺でした方がいいでしょう、と伝えました。
そこで秀吉は大徳寺に場所を変え、信長様の「百日忌法会」を無事終えました。同日、柴田様とお市様は妙法寺にて信長様の「百日忌法会」を終えられました。

けれど秀吉は、阿弥陀寺への深い恨みを持ち続けました。
それから三年後、清玉上人は亡くなりました。
秀吉は清玉上人の阿弥陀寺を移転させた上、阿弥陀寺の敷地も小さくさせました。その時の彼は、自分に逆らうものを決して許さない権力を手に入れていたのです。

信長様の「百日忌法会」は、その後の秀吉主催の信長様の葬儀へとつながりました。
実は「百日忌法会」より、信長様の葬儀の方がメインイベントでした。
信長様の棺は金紗金襴で包まれ、金と宝石をちりばめた大層豪華なもので、みなの度肝を抜きました。
もっともそのお棺に入っていたのは、信長様を模した木像ですけれどね。
「見えない所には、金をかける必要はない」
秀吉の合理的なあらわれでした。

その分、目に見えるところは、ふんだんにお金をかけましたよ。
葬儀の列は三千人、警護は三万人を配したパレード。
お経をあげる僧侶は数も数えられないほど、用意しました。
そこで秀吉は堂々と、信長様の位牌と遺品の太刀を持って現れました。
わたしは大名達に手をまわし、信長様の位牌と遺品の太刀を探し出させました。かなりのお金を使いましたが、秀吉のために必要な小道具でしたから、なんとしてでも手に入れたかったのです。いわば必要経費です。

壮麗で華やかなパレードに、京の人々はみなこぞって家を空けて見に行った、と後に言われました。
秀吉が作ったのは、贅をこらした信長様の葬儀、という名のワンマンショーでした。
お金をかけたかいもあり、秀吉の華やかな自己アピールのパレードは、民衆の心をわしづかみにしました。
おかげで、秀吉こそが信長様の意志を継いで天下を治める、と京の人々の知らしめるパフォーマンスとなり、十分元は取れたのです。
この時から秀吉はすべてのことをわたしに相談し、行うようになりました。
ええ、側室のことも含め、すべてです。

信長様の葬儀も含め、秀吉はこっそり柴田様の奥方になったお市様にも通じていました。
私情からお市様とご縁をつないでおきたい、との思いもありましたが、お市様から柴田様の情報を収集するための意図もあったようです。
あ、こちらももちろん、わたしの了承済みですよ。
お市様に対しても、もう心が波立つことはありません。
わたしはすべてをニュートラルに、俯瞰して見るられるようになりました。
そんなわたしを見て、秀吉は
「寧々は生まれ変わって、菩薩のようになった」
と言いました。

そんなことは決してありませんよ。
ただ、意識を向ける方向を変えただけです。

自分が「ない」と思っていること
不足していること、と思っていること
できないこと、と思っていること・・・

今まではそこにスポットを当てジレジレし、自分や人を責めていました。
そこには、苦しみしかありませんでした。

今は「ある」ことに、意識を向けています。

健康である
愛する人がいる
奥を守る、という仕事がある

など、当たり前のような「ある」に意識を向けると、あたたかい感謝の気持ちが湧き上がり楽になれます。
「ない」ことに意識を向けると、罪悪感に心を塞がれ、悲しく寂しい気持ちになります。

人は自分で自分を責め、つらい気持ちになりたい時に罪悪感を持ち出し、「ない」に意識を向けます。
自分を憐み、人に憐れんでほしいのでしょうね。
同情が欲しいのでしょう。
わたしは自分を、そんな女にすることを止めました。
そこから手を放しただけです。
人は本当に望むものを受け取った時、大らかで穏やかな気持ちになれます。
だからこそ、菩薩のように見えるのかもしれません。

けれどわたしが本当の菩薩になれるのか、これから幾多のお試しが天からやってくるのでございます。


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今あなたの意識は、「ある」に向いていますか?

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「ある」時と「ない」時

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どちらにいる自分に、そこにいるメリットがあるのでしょうか?

それを自分で見抜けると、「ない」に居る必要がなくなりますよ。




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