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ロクでもない、わたしたち

 “生き辛さを抱える”…というフレーズを近年よく耳にする。

 そもそも生き辛さを抱える人とはどんな人なのか。私なりに思いつくのは

・誰かに遠慮し過ぎている
・過剰なまでの気遣いや配慮を他人に対してしてしまう
・自分について受け入れ難い部分が多い

といったところだろうか。
 簡単な言葉にしてみると、「不器用で優し過ぎる人」だ。
 そういう人は、他人に振り回されやすく、そしてつけ込まれやすく、損な役回りが多くなる。無意識的に、自らそういう立場に追いやっているようにすら見える。
 好き好んでそのような状況に陥っているのではない。その人自身とその人を取り巻く環境が相まってそうさせてしまうのだ。
 何れにしても、そのような人は見ていて痛々しいものだ。俗に言う「イタい」のではなく、こちらの心が痛むほどの姿であるという意味だ。

「もっと楽な方法あるのに」
「常識的に考えたら簡単でしょう?」
「難しく考え過ぎ・気にし過ぎだよ」

 そこそこ器用に、大体常に冷静な判断ができる人からすれば、滑稽に見えるのかもしれない。バカだと思われたり、ダメな人と言われるかもしれない。
 しかし、そこそこ器用で冷静な人と同じか、それ以上に頭や心を消費して、必死になって生きているのだ。時には身体も犠牲にして。その結果、一般的に見て間違っていると指摘されるような方向に突っ走ってしまうことがある。

 どちらが正しいという話は置いておく。
 私は、その不器用で優し過ぎる人が、いつかは報われる時が来て欲しいし、目の前にそんな人がいたら、報われるまで支え続けたいと思う。
 
 何もかも完璧な人なんてこの世にはいないだろうが、完璧になれない“人間くささ”を上手に隠してカッコ良く生きられている人もいる。
 反対に隠せずに“人間くささ”が垣間見られたり、ダダ漏れしてしまっている人もいる。 
 後者に対し、報われて欲しい、支えたいと思うのは、“人間くささ”を身近に感じとれることに対し、愛おしさが生じるからなのかもしれない。

 ただ、そのように感じてしまう人と接する際には、そんな自分にも注意が必要である。自覚があるだけ良い方だろう、と今の時点では思っている。
 心理の専門家として接する場合は、他人の問題を自分の問題に置き換えたとして、という前提があるため、相手と自分との間には「相談する人」と「相談を受ける人」という立場が明確になり、境界線もはっきりとする。

 問題は、個人的にそのような人と接するときだ。他人の問題を自分の問題にしてしまったとき、事態はドラマのような展開を繰り広げられる予感がする。
 専門家としてただ相談だけ受けるよりも、早い解決方法はある。それにより事態は好転することもあるが、反対に破滅的な結末へと向かう可能性もある。
 どちらに転ぶかを見極めるのは、大変困難である。
 なるべく互いにダメージを受けないためには、常に客観性が必要であり、一般論や常識といったフィルターを通さず、相手を純粋に冷静に見つめることが何よりも大切であると実感している。
 そうして見つめたときの、自分の中にわき起こる最初の純粋な感覚が、何よりも確かなものなのだ。

 
 人に人が関わるということは、本当に難しく厄介なことばかりだ。

 期待すると裏切られる。傷付いたり苦しむことが予想できても、惹き合ってしまう。
 しかしこの上ない幸せを、ご褒美のように与えられる瞬間がある。
 奇跡的に事態が好転することがある。

 まるでギャンブルだ。中毒性がありやめられない。

 単純にそういうことなのだ。
 

 

 
 
 


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