サロンの屋号はViDE(ヴィッド)である。フランス語で空っぽという意味だ。 綴りだけでこの通りに読んでいただけたことはない。かく言う私も、先にこの字面と意味を決めておきながら、読み方は決めていなかったため、人に伝える時に迷いながら読んでいた。店主のくせに頼りない。 本場のフランス語の発音を確認したところ「ヴィドゥ」か「ヴィッドゥ」だった。「ドゥ」が何となくひっかかって言いにくい。 ヴァイドと読まれることは多い。“i”を小文字にしているので“イ”の主張を抑えたい。とする
落とし物が戻ってこなかったことがない。 財布、ハンカチ、手袋、ストール、鍵、論文用の資料 これまでいろんなものを落としたり置き忘れたりしてきた。 しかし、二度と戻ってこなかったものは一つもない。 落としたり、置き忘れた直後あるいは数分後には、その近くに居合わせた誰かが気付いて声をかけてくれたり、気付かずにかなり離れてしまった場合でも、わざわざ走って追いかけてきてくれて、私の元に届けてくれた。 その人たちの性別や年齢、そして国籍もバラバラだった。 つい最近も、
源氏名を作っておけば良かった、と後悔している。 私は所謂水商“売”というもので生計を立てている。 最近は、「売っている」というより「買われている」という感覚が優勢となり、主体性が揺らいでいる。 仕事と私生活との境目が曖昧になるような自分の働き方には、ずっと違和感を覚えている。 これでは駄目なのだ。 “私”がなくなってしまう。 いや、既にないのかも。 そう、特に感じるのは、名前を呼ばれるときだ。 家族や友人等、私がどういう人間かある程度曝け出している
何だか最近眠りの質が良くない。毎晩悪夢にうなされて、また朝が来て、最低限の仕事だけこなし、泥沼から這い上がるような毎日を繰り返す。 SNSの中にはキラキラ輝く自分がいて、他人はその自分をその人だと思い込む。毎日おいしいものをお腹いっぱい食べて、素敵なみなさまとご一緒させていただいて、とても輝かしいリア充。 なんてバランスのとれた人格だろう。我ながら完璧に演じられている。そんな自分が好きだ。頑張っている自分を褒めてあげたい。そして褒めてくれ。 最低限活動できる程度の睡
酒をやめたい。 タバコをやめたい。 ギャンブルをやめたい。 薬をやめたい。 お菓子の食べ過ぎをやめたい。 すぐ怒るのをやめたい。 人と比べるのをやめたい。 仕事をやめたい。 人付き合いをやめたい。 努力や環境調整次第でやめられることはいくらでもある。 しかしどうしても、誰もが一生絶対にやめられないことがある。 「それは“自分”だよ」 学生のころから定期的に教育分析的面談を続けてもらっている先生が、少しカッコつけて意味深に呟いた。その前後にど
毎年この時期は、きっと誰もが、身体を意識して温めていなくては、心も冷えてくる。 寒いことは心にも身体にも良くない。 また厳しい季節がやってきた。日照時間が短くなると、明るい気分もそう長くは続かないようで、それが毎年厄介だ。 アルコールは、飲み方を気を付けなければ、身体を急激に温めることが出来るが、急激に冷やしもする。 養命酒には10年以上前からお世話になっているが、眠りに入りやすくするものではなかったので、就寝前にキュッとやるのを止め、昼間に甘酒で割って飲むように
日々、自分の写真を投稿していると、大してフォロワーが多くもない、芸能人でもインフルエンサーでもない一般人の自分でも、いろいろなメッセージをいただくものだ。 「自己愛強いんですね」 というメッセージをいただいたので、 「はい、自分大好きです」 と率直に返信した。 学術的に自己愛について説明すると、私の自分大好き感とは異なる部分が大半なのだが、説明をするような関係性ではなかったので、一般的に“ナルシスト”という意味合いとして返した。 人は自分が誰よりも大好きで大事なの
味覚障害ではない。 自分が、何を食べたいのかがわからないのだ。 出されたものは食べる。 決められたメニューの中から選ぶこともできる。 ただ「これが食べたい」という思いつきがないのだ。 生きていくためには、考えたり身体を動かすための最低限のエネルギーを必要とする。そのエネルギーの元となるのが食べ物だ。 エネルギーになるものなら、わざわざ美味しいものや、手間のかかる料理を選ぶことはないではないか。 必要な栄養素が確実に詰まっている何かを摂取すれば良い。それ
自分は空っぽな人間であると思春期のころから信じ続けて、今もそれは変わらない。変わったのは、自分なりの“空っぽ”に対するイメージが、ネガティヴなものからポジティヴなものに変わった点だ。 ずっと、ずっと、自分は空っぽで薄っぺらい人間だという自覚はある。昔はそれが恥ずべきものだと思い込み、いつかは変われる、変わるべきだと信じていた。 経験を重ね、その中で失敗したり恥をかいたりして、多少なりとも成長はしているはずだが、基本的には変わらない。 変われない、ではなく変わらない、と
“生き辛さを抱える”…というフレーズを近年よく耳にする。 そもそも生き辛さを抱える人とはどんな人なのか。私なりに思いつくのは ・誰かに遠慮し過ぎている ・過剰なまでの気遣いや配慮を他人に対してしてしまう ・自分について受け入れ難い部分が多い といったところだろうか。 簡単な言葉にしてみると、「不器用で優し過ぎる人」だ。 そういう人は、他人に振り回されやすく、そしてつけ込まれやすく、損な役回りが多くなる。無意識的に、自らそういう立場に追いやっているようにすら見える
「自分に点数をつけるとしたら何点ですか?」 という質問を唐突に受けたことがある。一般レベルよりかなり美意識が高く普段から身体作りに非常にストイックな男性からである。 その質問は何が狙いなのか?何点と伝えるべきか?何点と伝えたら喜んでもらえるだろうか?納得してもらえるだろうか? 質問された瞬間に私の頭の中はフル回転し始めた。何点と答えるか。そしてその点数の理由も。 そして絞り出した回答が 「60点」。 ちょっとつまらなかっただろうか。まあ、これくらいの点数であれば
ここしばらく、自分の感情や考えをきちんとまとまった言葉として綴るという作業を怠ってきた。 正直に述べると、いろいろなことをふわっとさせて見て見ぬふりをしてきた、ということになるのかもしれない。 ここ最近、Instagramの個人アカウントにばかり、いわゆる“リア充”的な投稿を繰り広げている。内容は事実である。美味しいご飯屋さんに行った時の記録や備忘録的に投稿してはいるのだが、リアルタイムではなく少しずつ時をずらして投稿している。 そして時間が経ってから自分の投稿を振り
うさぎを飼いたいと検討していたことがあるのだが、諦めた。 責任を持ってお世話をやり切る覚悟が出来なかったのと、いつかやってくるお別れの時の辛さを想像するとどうしても耐え難いからだ。 猫を飼っている知人(心理職)が以前こう言っていた。 「クライエントが思うように良くなっていかないもどかしさを、自分がいないと生きていけない存在をそばに置くことで満たしてるんだよね」 ちなみに彼は、子どものころから球体関節人形を愛してやまないそうだ。 自分がいないとこの仔(人)は生きて
最近いただいた梅の花が可愛くてたまらない。 観葉植物(エアプランツ3つ)しか置かないつもりだったので、急遽使用していないシャンパングラスに水を入れ、生けてみた。吸い上げを良くしようと根元の方の枝を普通のハサミでカットしようとしたら、想像以上に硬く、その日は断念し翌日家から植物用のカットバサミを持ってきてカットした。 サロン内は昼でも夜のように暗いので、なるべく光が当たるように置く場所を選んだ。 最初は蕾だけだったのが、毎日、ぽわ…ぽわ…と開いていく。 可愛い。嬉
休日とはどう過ごすものなのか。 私のサロンは不定休、つまり予約が入れば休みのつもりでも開けることにしている。休日という概念はない。 完全予約制とは名ばかりで、大体の客は当日の直前に一応“予約”として「今から大丈夫?」と一報を入れ来店する。そのため事前の予約が0だとしてもサロンを開ける心算をしている。 「この期間はお休みです」と知らせておきながらも、半分以上は開けるつもりではいる。特に負担ではない。 初心者の私には「一人の客も逃すまい」と、たとえその日は休みをとろ
良いにおいが感じられない。嗅覚障害なのではない。 来店された時、「良いにおいがする!」と言っていただけることが嬉しい。香りには気を配っており、サロンでは飲食の邪魔にならない程度の芳香を漂わせている。 しかしここにずっといる私は、その感動を味わえない。 できることなら出勤する度に「良いにおい!」という感動を味わいたいのに、もともとは自分のためにこの香りを置いたのに、全く感動がない。 ストレスか何かで感覚が鈍っているのか?とも疑ったが、週に一度通院する美容皮膚科の院内